オウム法廷(7)

「女帝」石井久子

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降幡賢一 著
カバー装幀 神田昇和
朝日文庫
ISBN4-02-261330-0 \980(税別)

 公判が続くに連れて明らかになってくる、教祖麻原彰晃の"奇行"。その中で教祖に対して絶対的な信頼を抱いていた信徒たちの中にも、徐々に気持ちの揺らぎ、教祖に対する不信感、失望も拡がってゆく。その揺らぎは、ついに教団ナンバー2と言われ、実質的に教祖の妻を凌ぐ権力を持つといわれる通称「女帝」、石井久子もまた「ついていった人が間違っていた」という、麻原との関係を絶ち、自らの罪を認める方向へとその心情を転換させたのかと思われたが………

 一連のオウム真理教の事件を巡る裁判を追跡している降幡氏の7冊目の著作。カバーデザインが変わったのは何か意味があるんだろうか。非常にシンプルで、なおかつそこはかとなく麻原の表情をデフォルメしたように見える前のカバーも嫌いじゃなかったのだけど。

 さてこの巻では「女帝」と言われ、妻以上に麻原の寵愛を受けたとされる女性幹部、石井久子が関わったとされる事件に関する公判の流れを軸にいくつかの公判の様子がレポートされるのだけれども、降幡氏は、この時期のいくつかの裁判において、信徒個人の責任感をことさら重視し、しばしば批判的にそれを見ているように感じられる。

 石井久子に関して見てみるなら、「ついていった人が間違っていた」という悔悟に一定の評価をしつつ、その後石井の口から出る言葉が、「マインドコントロールによって何も判断できなかった」、「これからはいまだに間違った教えを信じている信徒たちに、オウムの教義の誤りを説いていきたい」という言葉のみで、"被害者に対する謝罪の言葉がない"事を鋭く批判していくわけだが、個人的にその方法論は全く的はずれなのではないか、という感じがしないでもない

 オウムの問題というのは、"かつて発生したことのない"事件だと思うのだ。ここでわれわれは、心根の根本的な所から、常人の想像を超える変容を遂げてしまった人々(事件に関わったとされる数多くの容疑者たち)を相手にしているのであり、いままでの常識的な物差しで収まるようなものを相手にしているのではない、という意識が降幡氏にはない。ただ、これまでのマスコミのおなじみの方法論である、「悪いのは誰か?」「悪いヤツは反省すべきだ」という論調でしか彼らを見ることができていない。「えひめ丸」事件で、「ワドルが悪い、ワドル謝れ」しか言えないのと同じパターンに陥ってしまっているのだと思う。それでは何も見えてこないのではないか。

 変な言い方かも知れないけど、彼ら(オウムの信徒)たちこそ、本当の意味で"新人類"なのだ。彼らは、もしかしたら「悪いことをした」、という気持ちすら持てないタイプの人種かも知れないのだ。そこに思いをいたすことができない限り、オウムの罪の軽重は問えても、オウムが生れた土壌を理解することはできないのではないか。いみじくも降幡氏ご本人が"あとがき"で述べておられるではないか。

 繰り返し述べてきたように、この裁判を記録することは、私たちの時代を別の角度から読みとって、同時代史として記録することだ、と私は考えてきた。だが、それは次第に、私たちの社会そのものの病巣を見据える作業に似てくるようにも思えるのである。

 それを感じていながら、降幡氏自身が社会そのものの病巣を見据えることを怠っているかのようにオレには見えるのだが。むしろ井上嘉浩被告の弁護団が冒頭陳述で述べて見せた、一般社会とは全く異なったオウム真理教の特異かつ閉鎖的な社会で、その教義を唯一の判断指針、行動指針として過ごして来るしかなかったが故に、被告である井上の犯罪を「原因として少年犯罪」であるとする態度、また、女性で構成された弁護団による、石井久子に関するフェミニズム的な素地を多分に含んだ政治的主張を盛り込んだ最終弁論の向こうにこそ、オウムを読み解く上で重要なヒントになりうるものが潜んでいるように思うのだが。

01/7/16

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