騒音文化論

なぜ日本の街はこんなにうるさいのか

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中島義道 著
装画 長崎訓子(プラチナスタジオ)
デザイン 鈴木成一デザイン室
講談社+α文庫
ISBN4-06-256511-0 \780(税別)

 「うるさい日本の私」からはや2年。中島教授の怒りは収まったのか、静かな環境を彼は手にすることができたのか………。

 それは、音はソトとウチのあいだを越境するからだ。あなたにとって殺したいほど憎い犬の吠え声は、あなたのソトの音ではない。それは、あなたの皮膚のウチに直接侵入し、あなたのウチに住み着く。そして、その同じ音が犬の飼い主にとってもまたソトの音ではなく、彼(女)の皮膚のウチに住み着いたなんともない音なのである。

 人のウチに浸透するが故に、それを何とも思わない人にとっては、ウチにある違和感に苦しめられる人間の気持ちが全く理解できない、という、騒音にまつわる中島氏の苦闘の果ての結論はなかなか興味深い。中島氏は、これに続けて、騒音にとどまらず、今の日本にあふれかえるさまざまなお節介に対しても攻撃を開始していくことになるわけなんだけど、確かに言われてみれば、日本の国に蔓延している「横断歩道を渡りましょう」「明るく挨拶をしましょう」などと言った類のあらずもがなの標語の数々、ある意味日本人の主体性をバカにした存在でしかないと思うのだけれども、自分も含めて大多数の日本人は、その事にとくに疑問を持つようなこともない。なぜか。

 平均的日本人は、サービスを提供される人から奴隷のように仕えられたいのであり、言葉を尽くしておだてられたいのであり、もちあげられたいのであり、………つまりむやみやたらに甘えたいのであり、好意的なサインをたえず発してもらって安心していたいのだ。

 問題なのは標語やスローガンの内容なのでなく、そういうものがちゃんと用意されている、という事実のほうって事なのね。誰もメッセージの内容を吟味したりはしない。でもそこに何かのメッセージがあるかどうかは気にする、ってことか。だからそこでメッセージの内容を検討するタイプの人は、そのメッセージのあまりにも当たり前なことに怒ってしまうのだろうな。「ある」事が問題な(ウチにその事実が浸透している)マジョリティにとってなんでもないことが異質に思える人からのメッセージとして、本書も前作同様、おかしゅうてやがて考え込む材料満載の一冊。引用が長くなるけど、中島教授のこういう意見はどうだ。

 ………「しかし、何も放送しないとみんな動かないんですから」と限りなく続く。つまり、「背に腹は代えられぬ」というわけで、学校で教えている青臭い抽象的な思想(これが「背」)はことごとく現実の生活(これが「腹」)の前に屈服すべきだ、という猛烈な信念が支配している。

 私はコレが虫酸が走るほど嫌なのだ。学校でも家庭でも社会でも「個性尊重」とか「事故責任の尊重」とか「異質なものとの共生」という言葉だけがひとり歩きしている。そして、そうわめき散らす人がじつはほんとうのところでは(からだでは)ちっともそれを望んでいないのだ。これが自覚されていないから恐ろしいのである。おおかたの教育者は、個性を尊重し責任感を持たせる教育を心がけている、と確信している。そして、同時に膨大な管理放送漬け、管理標語看板漬けの教育を実施して、なんの疑問も覚えないのである。「責任感を持ちましょう!」「個性を伸ばしましょう!」という滑稽なスローガン教育さえするのである。

 このすべては、われわれがみずからのからだの反応に麻痺していることから生ずることである。自覚化されていない自分の欲求や会・不快を直視することを怠っていることに起因することである。一つ一つの現象を、自分の感受性に照らし合わせて詳細に具体的に点検しようとしないからである。自分の言葉(個人語)を徹底的に抹殺し、すべてを世間語の切り口で見ようとしているからである。怠惰だから・考えないから・感じないからである。

 いかがでございましょう。往々にして思考を停止してしまいがちなワシら日本人の特徴って言うのは、中島教授の述べる、"みずからのからだの反応に麻痺している"状態に起因しているものなのかもしれん、とか思っちゃうよねえ。

01/4/29

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