松本サリン事件報道の罪と罰

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河野義行/浅野健一 著
カバーデザイン 亀海昌次
講談社文庫
ISBN4-06-273120-7 \695(税別)

 松本サリン事件の第一通報者でありながら、後、容疑者として警察、マスコミ、果ては大衆から一方的な犯人扱いを受け、すさまじいまでの重圧にさらされながら、ついに屈することのなかった河野義行さんと、一貫してマスコミの報道による人権侵害の解消を訴え続けている、同志社大学教授、浅井さんによる、事件報道の問題点を追及して行く本。

 サリン騒ぎにとどまらず、神戸の酒鬼薔薇事件、和歌山カレー事件など、何か事件が起きるたびに、テレビには遠慮会釈なく他人の鼻先にマイクを突きつけ、コメントを強要する品のない人間たちがあふれかえっているわけで、その事を端から見ているわれわれは、不愉快になったらチャンネル変えるなり、テレビを消してしまえばそれですむのだけれども、実際にカメラを向けられ、マイクを突きつけられる人々にとってはその辛さ、理不尽さに対する憤りは筆舌に尽くしがたいものがある、ということが痛いぐらいに伝わってくる。

 何か事件が起きた時、それが凶悪なものであればあるほど、大衆はその事件の早急な解決(=犯人逮捕)を警察に要求し、その要求にせかされるかのように、警察は拙速の容疑者検挙を行い、その検挙の根拠の薄さを、無責任な情報を報道にリークすることで、報道による大衆操作を行い、有無をいわせぬ世論を作り上げ、警察が検挙した人物以外に犯人はあり得ないのだ、という空気をつくってしまう、という流れ、さらにその過程で、容疑者を取り巻く一般市民たちの無責任な中傷によって、容疑者とされた人々がどれほどのダメージを受けるのかが如実に記されている。とても、怖いねこれは。

 言いかえるなら、マスコミが"河野が犯人である"との予断、結論というものを先にもち、それを補強する材料を探してつけていく。そして、誰もが"河野が犯人である"と思うような記事をつくっていく。こういうパターンは昔から変わっていない手法だと思います。

いつの間にか、いろんな新聞や週刊誌を見ている人が、"犯人はこいつしかいないんだ"という確信をもってしまうようになります。そして、会ったこともない人が"あいつが犯人だ""警察はなんで逮捕しないんだ"というような世論ができあがっていきます。

 この世論が、まさに冤罪をつくる要素の一つなのです。この事件で、私がことあるごとに訴えてきたことは、冤罪の加担者にならないでほしい、ということです。マスコミはすべて事実の報道をしているわけではない。情報操作された報道もたくさんあります。そういうことをふまえて、自分で判断して読んでほしいと思います。そうしないと、報道被害というものが起こってくるのです。

 という河野さんの言葉には重みがある。そして、これだけの経験をしながら、あるいはしたが故に、そのサリン事件の重要な容疑者である浅原彰晃に対しても、「有罪が確定していない以上推定無罪として接するべきである」という態度を崩さないその態度の強靱さとしなやかさには驚かされますな。河野さんの息子さん、河野仁志さんの、「情報もまた一つの商品なのであり、大衆は情報消費者として、報道を常に厳しく吟味する姿勢をもたなければならない」という考えもすばらしいと思う。

 それにしても、河野義行さんは、身につけていた几帳面な記録癖と負けん気で、かろうじて冤罪を免れたわけだけれども、この事件以後も報道の品のなさは解消されるどころかますますその下品さに拍車がかかっているのにはうんざりさせられる。いくら"表現の自由"を声高に叫んだところで、自浄力のなさをここまで露骨に見せてしまっているマスコミが、自分で自分の首を絞めているのだと言う事に、いつになったら気がつくものやら。この状況を打開すべく、もう一人の著者、浅野さんは、報道機関自体が、独自の報道評議会を設置すべきである、という主張をなさっておるのだけれど(で、その主張にオレは100%の賛同はできないのだけれど)、肝心のマスコミが、自分たちのおかれている状況を全く認識せず、相変わらずの"報道の自由"の錦の御旗を振りかざしてばかりなのを見るにつけても、日本という国の行く末に言いようのない不安というか、絶望感を抱かざるを得ないなあ。

01/4/26

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