「うるさい日本の私」

表紙

中島義道 著
カバー装画:下谷二助
新潮文庫
ISBN4-10-146721-8 \438

 バスや電車の車内、海水浴場やデパート、展覧会の入場者整理………。日ごろ我々がいかにさまざまな騒音に取り囲まれて生活しているか、そして、その事に我慢できない人間にとってその「音の暴力」にさらされる毎日の苦痛とはいかなるものであるのか、そしてその「音の暴力」から人はいかにして自由になればいいのか、を実践してみせた大学教授、中島氏の笑うに笑えない戦記。

 とにかく"いや、そこまでしなくても"と思っちゃうぐらい徹底的に、自分が気に入らない"騒音"があればただちにそのおおもとにおもむき、口角泡を飛ばして抗議する中島氏の戦いぶりは、それだけならばまあ一種の笑える"怪署"で済むんですが、本職が哲学の研究者である中島氏は、そこから日本人の"優しさ"とは何なのか、ってところまで議論を進めていきます。実はこっちがなかなか油断ならない。

 彼女は「優しい」人である。それは、この国においては、他人に対して優しいのみならず、他人が自分に対して優しいことを期待する人、言いかえれば、他人に対する自分の優しい振る舞いを他人が受け止めてくれないと傷つく人である。

 「白線の内側までお下がりください」「エスカレーターにお乗りの際は、手すりをしっかり掴み、黄色い線の内側にお立ちください」「置き引きにご注意ください」エトセトラ、エトセトラ………。これらの「騒音」とそれを流している側に共通する態度というのは、「自分たちはお客のためを思って放送している」というスタンスに立つものであり、あくまで、「人に対する優しさ」に立脚しているものなのに、それに対して抗議してくるなんて人としての優しさも思いやりも持ち合わせない人間ではないのか、って感じになるということでしょうか。中島さんの指摘する、「車内への危険物の持ち込みはご遠慮ください」は受け入れられるのに「車内で人を殺すのはご遠慮ください」などという車内放送が受け入れられるわけがないと言うのは、つまるところお互いがほんわかと「優しく」している気分になれるあいだは心地よいけれども、そこにあまりに厳密な事実が持ちこまれたとたん、人は拒否反応を示してしまうということなのでしょう。その奥底にあるものは、権力の側に立つマジョリティとしての安心感にある、と中島さんは説きます。

 マジョリティは他人の痛みをわかりあうというスローガンのもとに、自己と感受性が同質な他人だけを「思いやり」、異質な他人は切り捨てるのである。暴走族に対する痛みはわかりあう。携帯電話に対する痛みはわかりあう。しかし、エスカレーターの注意放送に対する痛みはわからない。BGMの痛みはわからない。こうして、マジョリティは平然とマイノリティの苦しみを無視しつづけながら、自分たちは「思いやりがある」と信じ込み、そこに罪の意識は全くない。
 これこそ、「いじめ」の構造である。この事態を見過ごして「思いやり」や「優しさ」を説く人の目は節穴である。

 むうん、これはかなりイケてる説なんではないでしょうか(^o^)

99/12/4

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