コラム

コラム一覧トップへ戻る

コラム26~30

【No.026】 2009/7/13
「世界最先端研究の支援」をいうなら、「交通死傷ゼロ」に直結する、共生の交通社会のための速度制御カーとそのシステム研究を

政府は・・・「先端的研究を推進して実現してほしいこと」に関する意見を募集

政府は「経済危機対策」に基づく平成21年度補正予算の中で盛られた「世界最先端研究支援強化プログラム(仮称)」を実施するとして、2009年6月12日、この施策に関し、「科学技術の発展により実現して欲しいこと」について、国民への意見募集を公示した。

施策の目的は「国際競争力の強化等」であり、「将来、日本が世界をリードできる研究を政府が支援する」というもので、多年度にわたり、使いやすい研究資金として2700億円の基金を創設するという。

ネットの募集ページから以下の意見を提出した。(7月12日)

私の意見・・・道路交通死傷ゼロへ、速度制御カーと速度管理システムで、脱スピード社会を実現する研究を

■分野 「交通・運輸」
■テーマ 「道路交通死傷被害ゼロ」実現へ、速度制御カーとこれを実効あるものにするためのインフラ整備に関する研究
■意見 近代産業社会が成立し、モータリゼーションが進む中、人々の行動範囲は飛躍的に拡がり、欲しいものがより早く手に入る時代となった。しかし、この便利さを享受する影で、豊かさの代名詞であるクルマがもたらす悲惨な死傷被害が深刻である。

我が国において、2007年に生命・身体に被害を受けた犯罪被害者数は110万8881人であるが、このうち何と93.8%(104万0189人)は道路交通の死傷である(厚生統計の死亡者数は 8,268人)。世界全体でも、2002年の1年間に120万人もの死者を生み、負傷者は5000万人にも上る(WHOの報告)と言われ、国連とWHOは2005年、毎年11月の第3日曜日を「World Day of Remembrance for Road Traffic Victims(世界道路交通犠牲者の日)」と定め警鐘を鳴らしている。「交通戦争」という言葉は死語とはならず、「静かに進行する大虐殺」の克服は、まさに世界的な緊急課題である。

人間性が発揮される豊かな社会の実現には、先ず、生命・身体の安全が護られなくてはならない。そして、人間が作り出した機械であるクルマが人を殺傷し続けるという事態は異常であり、被害根絶の使用法を直ちに確立しなければならない。政府は「世界一安全な道路交通の実現を目指す」という目標を掲げたが、その目標数値は「死者数半減」ではなく「死傷被害ゼロ」として、抜本対策に着手すべきである。

抜本対策の一つが、自動車の過度なパワーと速度の制御である。20世紀の市場主義社会は、便利、効率、開発、そしてスピードの価値を優先して押しつけ、人々の理性をスポイルさせてきたが、今こそ運輸に支配された「高速文明」の幻想と矛盾から脱するべきである。安全と速度の逆相関関係は明白である。歩行者や子ども、お年寄りが通行する生活道路で、ハードなクルマが危険速度で疾駆する日常は、その根本から変えなくてはならない。全てのクルマに、道路状況によって安全な速度に制御されるリミッターが装備されるべきである。例えば、住宅地や商業施設のある通りは、時速20~30キロに設定し、そのことを外に示しながら走行する。通行の優先権はクルマではなく、歩行者に与えることなどである。現在検討されているITSは、ハードな高速走行を前提とする限り矛盾を生む。被害ゼロを根底に置いた速度制御カー(ソフトカー)とそれに実効性を持たせる社会的インフラとしての速度監視システムの開発研究を提案する。

理性による共生の交通社会実現のため、本研究テーマこそ「世界最先端研究支援」に相応しいものであり、世界をリードし、世界から賞賛されるものであると確信する。

コラムの見出し一覧へ

【No.027】 2009/9/30
「週間朝日」9月4日号掲載記事「堺屋太一 憂いの熱弁 飲酒運転の厳罰化が日本を滅ぼす」(PDF)に厳重に抗議し、大々的なお詫び記事掲載を求めます。(意見メールと経過)

「週刊朝日」編集部殿

9月26日付、副編集長名のメール(※この欄の末尾)を拝受致しました。貴誌編集部の誠意ある対応~一読者からの意見であるにもかかわらず真摯に返答をいただいたこと~に感謝申し上げます。

しかし、当該記事の見出しなどその扱いが不適切であったと編集後記にて釈明した貴誌の誠意も一定は認めますが、前回メール(9月21日編集部宛)でお伝えした、「『記事のタイトルについては極めて配慮を欠いたもの』という釈明内容は、『もとより編集部は飲酒運転を容認する立場にはありません』という立場と明らかに矛盾します。」という指摘について、この度の副編集長よりの返答は不十分であり、再度意見を申し述べるものです。

副編集長の河畠大四氏が「堺屋氏の談話の要点は、飲酒運転とされる呼気1リットル中のアルコール濃度0.15ミリグラムという日本の道路交通法基準について、官僚は必ず例外的に厳しいノルウェー(0.1ミリグラム)の例を持ち出して異論を封じる、それが官僚による情報統制の一例にあたる、との点にあります。飲酒運転を容認する論旨では本来ありません。それが、『軽度の飲酒運転まで規制するな』と主張するように読める記事としてまとめた点は、編集部として配慮に欠けておりました。おわびします。」と、堺屋氏の談話記事が飲酒運転を容認する論旨ではないと述べていますが、堺屋氏の談話の論旨をこう捉えるには些か無理があります。

具体的に述べます。この談話記事の当該段落冒頭で「官僚の統制の害悪のわかりやすい例が、飲酒運転の過度の取り締まり強化です。」とあり、その例として現行犯逮捕の基準の「厳しさ」を他国と比較しているのですが、その内容は、少しぐらいの飲酒運転(酒気帯び運転)を取り締まるのは厳し過ぎる(=容認して良い)、というものです。いくら官僚統制の問題点をテーマとした談話記事で、堺屋氏を取材したのが貴誌であるとしても、記事内容を曲げて釈明したのでは、お詫びにはなりませんし、返答に理解もできません。

談話記事の不適切な内容には、血中アルコール濃度と、運転に求められる反応時間や判断力の減退問題など論点は幾つもありますが、次の点のみ強調しておきたいと思います。

堺屋氏が述べている飲酒運転の厳罰化や基準の厳格化、取り締まり強化は、官僚が統制のために独自に判断して進められた事では決してないということです。貴誌がこれまで取り上げてきた千葉の井上ご夫妻のとりくみや、柳原三佳氏の記事に見られるように、厳罰化や取り締まり強化等の推進の原動力になったのは、悪質な飲酒・酒気帯び運転によって、取り返しのつかない悲惨な被害を受けた被害者遺族の「こんな悲しみは私たちだけにして欲しい」という長きに渡る悲痛な訴えです。例えば、井上ご夫妻が幹事を務める「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」は、「飲酒・ひき逃げ犯に対して「逃げ得」がまかりとおることがないよう、刑法を含む関連法の改正を求める」署名活動を現在も全国各地で展開していますが、この署名活動の契機になったのは、高校生の息子さんを飲酒ひき逃げ犯によって奪われた北海道江別市の高石弘、洋子さんご夫妻(前記「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」の共同代表)です。高石ご夫妻は2003年8月から北海道で署名活動を始め、その後、同じ共同代表である大分県の佐藤悦子さんのとりくみと合流し、以来、歴代の法務大臣に署名を届け続けており、その署名数は累計で45万人に達しています。

(この経過等については、ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/remember/chihiro/hikinigeindex.htm
及び http://takamichi.moo.jp/ を参照下さい。)

貴誌編集部が本当に「もとより編集部は飲酒運転を容認する立場にはありません」(10月2日号「編集後記」)という姿勢を示すのであれば、見出しについてのお詫びを編集後記で行うという釈明だけでなく、お詫び記事として、堺屋氏の談話記事への反論となるような、飲酒、酒気帯び運転は社会的に絶対に許されないという特集記事を再度掲載すべきと考えます。そうでなければ、本記事によって飲酒酒気帯び運転という犯罪行為の犠牲となった多数の被害者の方への冒涜へのお詫びにはなりませんし、これまでに掲載された飲酒運転を許さないという貴誌記事との整合性も図れません。

なお、私は、この問題の本質は、現代社会に蔓延している市場原理主義にもとづく無秩序なモータリーゼーション推進が、麻痺した「クルマ優先社会」~クルマがこれだけ生活を「便利」にしているのだから、クルマの効率的な走行のためには、ある程度の犠牲はやむを得ないと考える~を形成し、それが知識人にまで深く沈潜していることの現れと考えています。他の課題では当然のように正義と人権の思想で行動される方が、ことクルマに関しては、人権感覚が欠落し、非理性的に、かけがえのない人命まで極めて軽く考えてしまうのです。

私は前方不注視という重大過失を犯した加害運転者によって、宝である高校2年生の長女を奪われました。被害の当事者からすれば「通り魔殺人的被害」に他ならない娘の被害事件を通して、その背景に理性を失った「クルマ優先社会」が横たわっていることに気付かされました。以来私は、亡き娘の遺影からいつも聞こえてくる「私は、なぜこんな目に遭わなくてはならなかったの?」「私がその全てを失ったこの犠牲は、今の社会で報われているの?」という問いかけに答えたいとの一心で、「クルマ優先社会を問い直し、交通死傷被害ゼロの社会を」と訴え続けております。(http://www.ne.jp/asahi/remember/chihiro/index.html)

私は、北海道交通事故被害者の会の代表も務めさせてもらっていますが、飲酒運転をはじめ悪質・重大な違反を伴う危険運転の犠牲となった多くの会員も、貴誌が筋道の通った誠意ある事後措置を執ることを願い、見守っています。私たちは、これまでもメディア側の深い理解と進歩性によって、被害の実相や当事者の願いが発信され、それが社会正義実現に寄与した例を沢山知っているからです。貴誌の今回の談話記事掲載が、結果として、麻痺した「クルマ優先社会」を追認し、その反正義、反人権の役割を果たしてしまうことにならないよう、賢明なご判断と措置をお願い致します。

2009年9月30日 札幌市在住 前田敏章(交通犯罪遺族)

ここまでの経緯について

■ 経過1 「週刊朝日」への意見(2009年8月28日)

貴誌「週間朝日」9月4日号に掲載の「堺屋太一 憂いの熱弁 飲酒運転の厳罰化が日本を滅ぼす」という見出しの記事(p30~31)に強く抗議し、直ちに回収することを申し入れます。

飲酒運転は、クルマを凶器に変え、容易に人を殺傷する悪質犯罪行為です。飲酒運転の厳罰化や取り締まり強化は、「安全に道路を歩きたい」「交通死傷被害ゼロの社会を」という国民の願いと、被害に遭った多くの被害者や遺族の「こんな悲しみは自分たちだけにして欲しい」という切なる思いが込められて進められてきたものです。まさしく暴論としか言いようのない言語道断の堺屋太一氏の発言に抗議するとともに、このような暴言を大きな見出しのもとに記事として掲載した週間朝日編集部に厳重に抗議するものです。
飲酒運転という悪質重大な犯罪行為で生命や健康を奪われた被害者を冒涜し、犯罪行為を勧めることに他ならないこの悪質記事掲載の本号を即刻回収するとともに、大々的に謝罪することを申し入れます。

22009年8月28日 札幌市在住 前田敏章(交通犯罪遺族)

■ 経過2 「読売新聞」(2009年9月16日)

全国交通事故遺族の会、週刊朝日に抗議

交通事故の遺族でつくる「全国交通事故遺族の会」(井手渉会長)は16日、8月25日発売の週刊朝日に掲載された「憂いの熱弁 飲酒運転の厳罰化が日本を滅ぼす」と題した記事について、「筋違いの暴論」などとして、週刊朝日編集部に抗議する公開質問状を送ったことを明らかにした。質問状は15日付。

この記事は、作家の堺屋太一さんのインタビュー記事で、堺屋さんは「官僚の統制の害悪のわかりやすい例が、飲酒運転の過度の取り締まり強化です」などと指摘している。週刊朝日の山口一臣(かずおみ)編集長の話「いただいた質問に対して、真摯(しんし)に対応させていただきます」

■ 経過3 「読売新聞」(2009年9月19日)

飲酒運転記事問題で 週刊朝日側「不適切」

「全国交通事故遺族の会」が、週刊朝日に掲載された「飲酒運転の厳罰化が日本を滅ぼす」 の記事に抗議し公開質問状を送った問題で、週刊朝日側は18日、同会に対し「不適切だった」などと釈明した。19日発売の同誌でも山口一臣編集長が編集後 記に「とくに記事のタイトルについては極めて配慮を欠いたものであったと反省していたところです」などと掲載する。同会の片瀬邦博理事は、「誠意ある謝罪 と受け止めた」と話している。

■ 経過4 「週刊朝日」10月2日号

【編集後記】

本誌9月4日増大号の記事「飲酒運転の厳罰化が日本を滅ぼす」に対して「全国交通事故遺族の会」より抗議、および公開質問状をいただきました。この記事に関しては読者のみなさまからもさまざまなご意見をいただいています。とくに記事のタイトルについては極めて配慮を欠いたものであったとわたし自身、反省していたところです。もとより編集部は飲酒運転を容認する立場にはありません。いただいた質問には、真摯にお返事させていただきたいと考えております。

本誌・山口一臣

■ 経過5 「週刊朝日」への再度の意見(2009年9月21日)

週間朝日編集部殿

標記の堺屋太一氏の記事について、8月28日のメールで、抗議と申し入れをした一読者です。このほど、全国交通事故遺族の会の抗議と公開質問に対して、貴誌10月2日号の「編集後記」の釈明記事を読みました。この件についての読売新聞の9月16日、および19日の報道記事も拝見しました。この問題に対しての全国交通事故遺族の会の適切な対応に敬意を表したいと思っています。
しかし、週刊朝日の側には、お詫びのコメントを載せたことは単に「釈明」に過ぎず、不十分であり依然問題が残ります。不適切記事が掲載された同号を回収するなどの措置を執らなかったこと、および、山口一臣氏の「記事のタイトルについては極めて配慮を欠いたもの」という釈明内容は、「もとより編集部は飲酒運転を容認する立場にはありません」という立場と明らかに矛盾します。

9月4日号の回収を行わなかった貴誌が、真に、飲酒運転という悪質犯罪行為を容認しないという立場であるなら、これから発刊される貴誌に、大々的なお詫びと訂正記事を掲載し、飲酒運転根絶の姿勢を明確にすることが求められるのではないでしょうか。交通犯罪によって娘を亡くした、一読者からの意見ですが、何らかの返答を頂けると幸いです。

2009年9月21日 札幌市在住 前田敏章(交通犯罪遺族)

■ 経過6 「週刊朝日」編集部からの返答(2009年9月26日)

前田敏章さま

返答が遅くなり、誠に申し訳ありませんでした。いただきましたメールについて、ご返答させていただきます。 このたびの弊誌9月4日号の記事「飲酒運転厳罰化が日本を滅ぼす」に関しましては、読者 のみなさまからもさまざまな意見をいただいています。特に記事のタイトルにつきましては、極めて配慮を欠いた不適切なものであったと反省しております。も とより弊誌は飲酒運転を容認する立場にはありません。弊誌10月2日号の「編集後記」でも、率直に書いているとおりです。

記事は、総選挙を前に、自民、民主両党のマニフェストを比較する、という企画で、堺屋太 一氏の談話をまとめたものです。日本の政治の問題点、官僚依存からどう脱却するか、という趣旨の話のなかで、官僚による情報統制の一例として、「飲酒運転 の過度の取り締まり強化」に触れています。

しかし、談話の中に、「飲酒運転厳罰化が日本を滅ぼす」との指摘はありません。編集部が、過激な見出しで読者をひきつけようとつけたタイトルですが、極めて配慮に欠ける上、談話の内容を適切に反映したものでもありませんでした。

また、記事の内容に関してですが、堺屋氏の談話の要点は、飲酒運転とされる呼気1リットル中のアルコール濃度0.15ミリグラムという日本の道路交通法基準について、官僚は必ず例外的に厳しいノルウェー(0.1ミリグラム)の例を持ち出して異論を封じる、それが官僚による情報統制の一例にあたる、との点にあります。

飲酒運転を容認する論旨では本来ありません。それが、「軽度の飲酒運転まで規制するな」と主張するように読める記事としてまとめた点は、編集部として配慮に欠けておりました。おわびします。

そもそも編集部は飲酒運転を容認する立場にありません。過去の記事においても、飲酒運転の危険性をたびたび指摘しています。619日号でも「娘たちを奪った飲酒運転撲滅に10年 井上保孝さん、郁美さん『永遠のメモリー』が問い続けるあの日」というタイトルで、記事にしています。これは今年6月に道路交通法が改正され、飲酒運転に対する処分が厳しくなったことを機会に、飲酒運転撲滅に10年間を捧げてきた井上夫婦の地道な努力を5ページにわたって紹介しました。

それ以前も、ジャーナリストの柳原三佳さんに、飲酒運転をはじめとする悪質な運転者に対する問題を執筆していただきました。飲酒運転を含めた交通事故、交通法規、ドライバーの意識向上などに対する問題は今後も折に触れ、記事にしていきたいと思っております。前田さまにおかれましては、ご理解いただきますようお願い申し上げます。

週刊朝日 副編集長 河畠大四

コラムの見出し一覧へ

【No.028】 2010/4/17 希望

■少年院で、交通犯罪によって同乗者に脳への重い後遺障害を負わせ、「加害者」の立場になった少年に面接指導をする機会がありました。「被害者」とその家族への償いの人生という十字架を背負う少年は、その覚悟をためらっているようにも見えました。「クルマ優先社会」がもたらす悲劇の一つです。少年院での講話の際にいつも話している「償いについて」の三つのこと(①罪と向き合う=被害者のことを知ること ②心からの謝罪をすること ③社会貢献への道)を時間をかけて考え抜くようにと話しました。

■面接の後半、結果として取り返しのつかない被害を与え「(自分は)普段の生活で笑うことも許されない」と呻く少年に、生きる「希望」をと思い、次の言葉を伝えました。「君は一生をかけて償わなくてはならない。そして、償うためには生きなくてはならない。そのためであれば、時には笑うことも許されるのではないか」と。

■私事ですが、私はこの3月で定年退職し、37年間の高校教員生活に終止符を打ちました。想い出多い教室で、生徒への最後の授業をしました。一昨年、共に机を並べていた女生徒がバイクに同乗し被害死するという悲劇もありましたから、最後に伝えたいことは、やはり「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」というテーマです。命の重さと、親がわが子を宝と思う気持ち、一瞬で被害者をうみ加害者ともなるクルマの危険性とクルマ優先社会の問題について深く認識して欲しいと話しました。

■授業のまとめは「希望」についてです。過去に不登校体験など様々な傷をもつ定時制の生徒に、大いなる「希望」を抱いて欲しいと願いました。私は、娘の事件から数年後、「生命のメッセージ展」を創始した鈴木共子さんの詩集「絶望からの出発」に共感したこと。昨年主催したフォーラムの講演で「悲しみを知る者にしか見えない希望がある」と話された千葉商科大学の小栗幸夫先生の言葉に励まされたこと。今後も「命の尊厳」「交通死傷被害ゼロ」「被害者の視点と社会正義」「脱・スピード社会とスローライフ交通教育」などをライフワークのキィワードに位置づけ、第二の人生をしっかり生きたいと決意を語りました。

■「絶望から立ち上がるための希望」「悲しみを知るものが持つ、社会を変える力となる希望」、そして最初に述べた「償いのために生きる希望」これらの「希望」に共通するのは被害者の存在です。常磐大学の諸澤英道先生は、3年前の札幌での講演で「被害者問題はイコール社会正義」であると述べました。

■今号(会報32号)の小特集「ロードキル裁判」で、最初は亡き真理子さんの小さな叫びであった「人の命も動物の命も守って」の声を大きなうねりにしたのは、絶望から起ちあがったご遺族と、「悲しみから希望へ」と支援し合った仲間のとりくみ、そして、深く共感していただいた青野弁護士の崇高な仕事によるものと思います。「被害者の視点と社会正義」、そして、犯罪被害者週間全国大会のスローガン「いのち、きぼう、未来」という言葉を改めて噛みしめています。

北海道交通事故被害者の会会報32号(2010年4月10日)掲載の「編集を終えて」より

コラムの見出し一覧へ

【No.029】 2010/10/11 第9次交通安全基本計画(中間案)に対する意見

私の長女は、前方不注視のクルマに轢かれ17歳の短い生涯を終えた。被害ゼロを願う当事者の意見~生命尊重を貫いた理念と目標、速度抑制と制御、生活道路での歩行者優先など~を、是非公述人として具体的に申し述べたい。以下は概略である。

「中間案」が基本理念と目標で、「交通事故のない社会を目指し」としながら、「一朝一夕に実現できるものではない」として、目標数値を年間死者3000人以下としていることには大きな問題がある。人間が作り出した道具(機械)であるクルマの使用によって、多数の命と健康が奪われ続けるという事態は異常である。

被害根絶の対策を直ちに確立するべきなのに、3000人×5年の犠牲を「仕方がない」とばかりに「計画」することは生命尊重の大義に反する。本計画の親法「交通安全対策基本法」の目的には、「交通の安全に関し」「対策の総合的かつ計画的な推進を」とあり、「安全」は在っても「効率的通行」はない。しかし中間案は、「安全」を「需要」や「円滑性・快適性」と関連させ、結果的に安全軽視の対策となっている。「安全」を第一に理念を見直し、目標は「死傷被害ゼロ」とすべきである。その抜本対策の一つが、自動車の過度なパワーと速度の制御である。

安全と速度の逆相関関係は明白であるから、効率やスピードの価値を優先して押しつけて理性をスポイルさせてきた「高速文明」の幻想と矛盾から脱するべきである。ITSは高速走行を前提とする限り矛盾を生む。全てのクルマに、道路状況によって安全な速度に制御されるリミッターを装着させるなど、速度抑制のための社会的インフラの開発整備を対策の根幹に据えるべきである。

そもそも道路は住民等の「交流」機能も持つ。生活道路での通行の優先権は歩行者に与えられるべきであり、例えばスウェーデンのヴィジョンゼロ政策などヨーロッパで進む交通環境整備、交通沈静化の理念と施策に深く学ぶべきである。 (2010年10月11日)

内閣府の「第9次交通安全基本計画(中間案)」に対する公聴会(10月22日)への公述人の募集で提出した「意見」より

コラムの見出し一覧へ

【No.030】 2012/1/13 津田美知子さんの講演と雪山

■「道新」1月1日の1面に、2011年の道内の交通死者数が62年ぶりに200人を下回る190人であったという記事が載りました。11月には江別で、飲酒・ひき逃げ・無免許による兇悪犯罪もあり、「ゼロ」にはほど遠い「数値」に安堵の気持ちはありませんが、「歩行者が巻き込まれる事故が前年比36%減。このうち65歳以上の高齢者死者数は4割減」という指摘には少し穏やかな気持ちになれます。会員の皆さんの尽力で、体験講話(12年目で延べ500回、受講者も10万人を越える)や「いのちのパネル展」(9年目で、延べ150回、600日開催を越える)など、命と安全の大切さを粘り強く訴え続けてきた結果でもあると思いたいからです。

■毎年積雪期になると、朝刊を開く時の重たい気持ちからほんの少し解放されます。交通死傷被害の記事が減るからです。「犠牲を無にしないで」と願い活動を続けていますが、死傷記事の一つひとつに、辛く無念の思いが沈積します。

■本号(北海道交通事故被害者の会・会報37号)で特集した津田美知子さんの講演から、沢山のことを学び考えさせられました。ヨーロッパの道路交通文化に学び、区画道路の「静穏化」を実現し、「車道至上主義から歩行者、自転車の道へ」という提言は新鮮で明快でした。

■講演では豊富な写真資料が論旨に沿って提示されましたが、欧州の中心市街地での、駐車により車道を狭くしての「静穏化」例を見せられてはっと気付いたことがありました。北海道などでは、積雪期の道路脇の雪山が(意図しない不完全な)「静穏化」(クルマが低速走行し住民の安全と生活が護られる)を実現しているのではないか。その結果、積雪期の1月と2月に交通死者数が大きく減るのではないか、と。

■さらに詳細な分析が必要とは思いますが、道内の交通死亡者数を、降雪はあるが積雪の少ない12月と道路脇の雪山が顕著になる1月とで比べてみました。最近5年間(2006~2010)ですが【12月→1月】でその違いを表すと顕著です。合計死者数は【115→60人】と48%減り、中でも人対車両は【40→15人】と63%も減っているのです。

■私の家の近所も、生活道路なのに夏はビュンビュン危険走行で子どもさんの被害例もあります。しかし、1月になると雪山で道幅が狭くなり低速走行を余儀なくされます。行き交うために一方が停まって譲り合い、互いに会釈を交わすという微笑ましい光景も見られます。これを不便と捉えるか、夏場のクルマの凶器性と対比してクルマ本来の人を決して傷つけない道具としての使われ方(=「静穏化」例)と捉えるか。それが問題です。

■視点を変えることによって、物事の本質が見えることがあります。被害の側の視点に立ち、命の尊厳は何物にも代え難いのであって、決して金銭や便益(自動車交通の円滑化やスピード)などと比べたりしてはならないと考えるなら、死傷被害ゼロにつながる区画道路での通年の「静穏化」は直ぐにでも出来ると思いますし、そうしなければなりません。欧州には優れた先進例もあるのです。

■私自身にも、雪山による市街地の低速化を静穏化例と見る視点は不確かでした。「歩車共存」と言いながら、結局はクルマ優先に軸足を置いた感覚麻痺に陥っているのではないかと自省もさせられた津田講演でした。

■1月9日現在、道内の交通死は、1日に起きた車対車の事故による1名です。その被害の重みを胸に刻み、犠牲はこれで終わりにしなければならないとの思いを新たにしました。

北海道交通事故被害者の会会報37号(2012年1月10日)掲載の「編集を終えて」より

コラムの見出し一覧へ

コラム一覧へ戻る

top