今日の思い付き
偶然か必然か、はたまた、どっちもありか
前回の「100年前、200年前を考える」、のちょっと続き

「あの日、あの時、あの場所で君に会えなかったら、僕らはいつまでも、見知らぬふたりのまま」
 最近はもうカラオケには全然行ってないが、昔よく歌った曲の一つ。いや、正確には「歌おうとがんばった曲」の一つだ。酔いが回って、やめときゃいいのに、大好きな曲というだけでリクエストしてしまい、いざ演奏が始まると難しすぎて全然歌えない。小田和正の曲はそんなのばかりである。
 この歌詞を歌って(読んで)いつも思っていたのが、また今も思っているのが、「だから何だと言いたいのだろう」ということである。「もしあの事件がなければ、今の状態はない」という表現から考えられることは、「そんなすごい偶然の出会いなのだから、これはすごいことなのである」ということか。あるいは、「僕らは出会うことが定められた運命であったのであり、ふたりは必然的に出会ったのである」ということなのか(運命=必然と、とりあえず規定したが)。どちらかというと、この歌詞の場合は、たぶん前者なのであろう。
 自分で書いててだんだん分からなくなってきたので、話をちょっと変える。
 前回の「100年前、200年前を考える」の続きみたいな感じなのだが、果たして自分がこの世に生まれてきたのは偶然なのか必然なのか、という問いがある。自分を自分だと思っている、この自意識ってやつが偶然発生したというのはどうにも考えにくいのだが、でも生物学的にというか生物的にはやっぱりただの偶発的な出来事の一つなのだろうか。この自意識ってのが確率的には存在しない可能性の方が高かったのだろうか。まあ、100年、200年前には存在しなかったんだろうなあ。非存在から存在へ変化する瞬間というのは、いったい何の作用によってもたらされるものなのだろうか。
 もっとも自意識、自我というのは、「成長過程で発生し身に付いてくる(肥大化する)もの」なのかもしれない。でもそうすると自我というのは生物の単なる条件反射の一つか。
 もっと分からなくなってきた。映画『フォレスト・ガンプ』の最後の方で、主人公が「僕らは運命で動いているのか、それともただ風に乗ってさまよっているのか。たぶん両方だろう」というようなことを言っていた。自意識の発生とはあまり関係ないかもしれないが、とりあえず今日のところはなんとなくそういうことにしておこう。引き続き、考える。

Single Shock
from the DVD "Toranpu no Tomo"
by Tomo Yuki
トランプ手品
新しいDVDを買える若人への嫉妬

 トランプ手品の知識を得るのは、主に本とDVDからである。特に最近ではDVDが簡単に作れるようになったのだろう、次から次へと新作品が出てくる。買うのも大変である。
 私もこのページとは別に手品のブログを作っているが、他の人々の手品ブログを見ていると、高校生はじめ、若い人ががんばっているなあ、とつくづく思う。さらにおやじみたいな言い方をすれば、みんなよく新しい手品知識を仕入れているなあ、とも思う。高校生なのに手品DVDいっぱい持ってそうだなあ、どこからそのお金を工面しているのかなあ、いいなあ、自分も若い頃にこういうの買えたらよかったのになあ……。
 文化はお金持ちのところから生まれる確率が高い。貧乏なところに文化は育たないと言ったのはチャールズ・チャップリンだったか。

今日の英語
マイ・ディクショナリー

 小学館の「マイ・ディクショナリー」という英和辞典を買った。見出し語数が約1万3000と、そんなに多くはないのだが、自由に書き込める欄があるのが特徴。気になったことや関連することを辞書にメモしていける。探している語がない時も、自分で追加していけばいい。もっとも、今まで使っていた辞書の文字があまりに小さかったため、この辞書の自分にとっての一番のメリットは、前より随分読みやすくなったということか。

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今日の日本語
瞬覧性(しゅんらんせい)

 新しい言葉を作った。瞬覧性(しゅんらんせい)。雑誌や新聞といった活字メディアがウェブや電子ブックをはじめとする電子メディア押され気味だが、長年活字の仕事をしてきたということとは別に、やはり活字メディアには大きな長所があると思う。その一つが瞬覧性だ。詳しい意味は後日(これから考える)。