ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2010年4月5日
ピート・サンプラス―――彼のゲームに対する一考察:パート2
文:Tribal Tech


テニス史で最も成功を収めた選手の1人に関して、充分な分析というものは決してあり得ない。そこで私は、ピート・サンプラスのゲーム技法と核心をなす要素に対する先週の考察に続いて、1990年代と2000年代早期における最大のライバル達に対して、彼がどのようにプレーしたかを論じていく。

(パート1は、ここで読める)


サンプラス対クーリエ

サンプラスのジュニア時代に始まったライバル関係の1つである。ジム・クーリエが1992年にナンバー1だった頃には、ブラッド・ギルバートの著書『Winning Ugly 』 を含めて、彼はイワン・レンドルとよく比較された。

ジムはフォアハンドで試合を支配しようとするレンドルの戦術を用いて、クレーで成功を収めた。私の見る限り、ジムには1つ欠けているものがあり、それはレンドルが持っていた生来の運動選手としての能力だった。したがって、ひとたび彼のレベルが若い23歳という年齢で低下し始めると、それを取り戻すのは難しかった。

それにはサンプラスが主要な役割を果たしていたと論ずる事もできるだろう。彼はグランドスラム大会で、大いにクーリエを挫折させたからだ。彼はしばしばクーリエが勝ち上がる途上にいたのだった。それでは誰をも挫折させるだろう。ジムは1991年USオープン準々決勝、1994年フレンチ準々決勝でピートを破ったが、1995年オーストラリアン・オープン準々決勝と1996年フレンチ・オープン準々決勝では、2セットアップとしたにも関わらず、試合に敗れた。

サンプラスは自叙伝『A Champion's Mind 』で語っている。彼はサーブの時にクーリエのフォアハンドを狙った、クーリエの厚いグリップは、速いスピードでスライドするサーブをリターンするには有効でなかったからだ、と。疑いなく、その事もクーリエに挫折感を与えた。最良の武器を無効にされたのだから。ライバル関係はサンプラスの16勝4敗で終わった。

http://www.youtube.com/watch?v=V9h0OXW479M

http://www.youtube.com/watch?v=egaLmFSvsVY


サンプラス対ラフター

私にとっては魅力的なライバル関係だった。パトリック・ラフターは最後まで戦いぬく非常にタフで運動能力の高い選手だったからだ。しかし1994〜1998年(実際は1997年)に及ぶ8連勝を含めて、サンプラスが彼をさんざんに打ち破った時期があった。

最も興味深い局面は、ラフターに対するサンプラスのリターンとパスは、ラフターがキャリアを通して対戦した誰よりも―――アンドレ・アガシを含めて―――優れていたという事である。サンプラスはベースラインでの動きにまさり、したがって走りながら打つ事にも優れ、結果として信じがたいパッシングショットを繰り出した。

ラフターはキックサーブでサンプラスを苦しめたが、彼のバックハンドを狙いすぎたために、むしろその調子を上げてしまう事がよくあった。先に述べたように、サンプラスはクーリエの強みを狙う事によって、逆を衝く心理作戦をしかけた。しかしラフターはサンプラスの弱点とされる側を狙い、しばしば功を奏した。

ラフターは1998年から1999年にかけて、シンシナティ決勝とUSオープン準決勝を含め、驚くべき3連続勝利を挙げた。しかしサンプラスは最後の4戦に勝利し、対戦成績は12勝4敗だった。

http://www.youtube.com/watch?v=iErGOwhBc5Y

http://www.youtube.com/watch?v=qMepWtjLa9c


サンプラス対ヒューイット

これもまた、興味深いライバル関係だった。10歳という年齢の相違があったからだ。ご承知のように、ライバル関係は2つの時期に分かれていた。サンプラスは最初の5戦で4勝したが、レイトン・ヒューイットは最後の4戦に勝利して、ヒューイットの5勝4敗となった。

ヒューイットがサンプラスを苦しめたのは間違いない。コートを動き回る彼のスピードと優れたリターンによって、サンプラスが前へ詰めた時には、足元へ低いボールを返したのだ。ヒューイットは速いコート(彼のゲームを助けた)や攻撃的選手との対戦が得意だ、とサンプラスは語っていたが、それは正しいと思う。

同じく、ヒューイットが2001年USオープン決勝戦でサンプラスと対戦したのは、幸運だったと考える。サンプラスはラフター、アガシ、サフィンと3人の元チャンピオンを続けざまに下して、決勝に進出した時点で精力を使い果たしていたのだ。

ヒューイットはまた、サンプラスが「高齢」のわりにネットプレーを多用したという事実を活かした。もしサンプラスがもう何歳か若かったら、彼のゲームはヒューイットには荷が重すぎただろうと私は確信する。

http://www.youtube.com/watch?v=AKiXm5Cy7_I

http://www.youtube.com/watch?v=SnUZtuOGKUA


サンプラス対クライチェク

リチャード・クライチェクはサンプラスの天敵とも言える存在だった。6フィート5インチの身長があり、素晴らしい選手だった。少しばかり過小評価されているとすれば、彼は怪我が多く、さらには1回しかメジャー優勝を遂げていないという事実のためだった。

クライチェクは恐らく他のどんな選手よりも、サンプラスのバックハンドを突く事ができた。サンプラスがうまく対処できるアガシのセカンドサーブとは違って、クライチェクのサーブにはもっとスライスがかかっていたので、強打されやすい打ちごろの遅いキックサーブとは対照的に、サンプラスに向かって高く跳ね上がったのだ。

ある時点では、2人の対戦成績はクライチェクの6勝2敗だったが、サンプラスは最後の2戦、1999年シンシナティと2000年USオープンで勝利した。USオープンの第2セット・タイブレークは、サンプラスのキャリアでも最も忘れがたい場面の1つだった。

http://www.youtube.com/watch?v=nMHwYfkkYVA


サンプラス対ボリス・ベッカー

この歴史的なライバル関係は、共に攻撃的なゲームを持っているが、ベースラインからのプレーも得意という、オープン時代における最も優れた選手の2人といえる男たちの間に繰り広げられた。

彼らのライバル関係は、ドイツで最も愛情をこめて記憶されている。かの地ではそれに値する多くの対戦があったのだ。1996年シュツットガルト決勝ではベッカーが5セットで勝利し、そして1996年 ATP マスターズ決勝では、4時間にわたる戦いの末にサンプラスが勝利したのだった。

彼らの1995年ウィンブルドン決勝戦は、驚くべきものだった。サンプラスは20本以上のパッシングショット・ウィナーを放ち、アンフォースト・エラーは試合を通しても15本以下だったからだ―――あの日のサンプラスは傑出していた。

ライバル関係はサンプラスの12勝7敗で終わった。

http://www.youtube.com/watch?v=F8lo1SFxyIA

http://www.youtube.com/watch?v=ZOfUGGr14Ac

http://www.youtube.com/watch?v=6UiWqeAPrfc


サンプラス対イワニセビッチ

サンプラスは誰よりも的確に、このライバル関係を要約した! まずい取り合わせだったと。ウィンブルドンについて多くの人々が記憶しているのは、ビッグサーブを持つ2人の男という事であるが、それは彼ら双方に対して不当な評価だ。2人の男は18回対戦し、サンプラスが12勝6敗でまさった。しかし残念ながら、彼らの試合は、サンプラスが5セットで勝利した1998年ウィンブルドン決勝戦以外には、記憶に残るものがない。サンプラスは非常に緊張していたため、ゴラン・イワニセビッチは試合を長引かせる事ができたが、タイトルを勝ち取るための主導権を握る事はできなかった。


サンプラス対アガシ

サンプラスの最も有名なライバル関係は、今や最も悪名高いライバル関係ともなっている! 2人の選手は、歴史上でも最も優れたテニスのいくらかを披露した。特に1994〜1995年のハードコートで。2人のライバル関係は1999年にリニューアルされたが、アンドレ・アガシの復活にもかかわらず、サンプラスは1999年ウィンブルドンと ATP チャンピオンシップスの決勝戦を含め、5回の対戦で4勝して、はっきりとした優位に立った。

再び、サンプラスは自叙伝で語っている。自分の方が動きにまさり、アガシよりも運動能力が高いので、ベースラインからのラリーでも競り合う事ができ、自分のサービスゲームをキープできると感じられた、と。アガシはコートの中央を支配するのが得意だった。したがってサンプラスのすべき事は、常にアガシをその快適な場所から遠ざけて、コーナーへ追い込もうとする事だった。

2人の強力な選手は、すべてのサーフェスで、すべてのグランドスラムで対戦した。アガシはフレンチとオーストラリアンで、サンプラスはウィンブルドンとUSオープンで勝利した。オーストラリアンでの試合は接戦で、どちらが勝っても不思議はなかった。またサンプラスはクレーで2回アガシを下したが、アガシは芝生でサンプラスを破った事はなかった。ハードコートでは互角だった。彼らのライバル関係は、サンプラスの20勝14敗で終わった。

サンプラス - アガシの対戦で、最も私の記憶に残っているのは、見事なラリー―――特に1993〜1995年の、両者がトップの座を競い合っていた時期の―――である。1999年には、サンプラスは5回の対戦で4勝したが、テニスの質は再び最高のものとなっていた。

http://www.youtube.com/watch?v=e-NvdFbIxcw

http://www.youtube.com/watch?v=YISoCy0f3hM

http://www.youtube.com/watch?v=jXHssxu_eYE


サンプラス対チャン

奇妙な事に、10年後に生じたライバル関係に類似している―――すなわちフェデラー対ヒューイットに。ジュニア時代にはサンプラスがマイケル・チャンを下したが、その後にサンプラスがバックハンドを両手打ちから片手打ちに変えると、チャンが彼を負かし始めた。これはプロに転向してからも続き、ツアーでの最初の6〜7回の対戦(実際は5回)ではチャンが勝利した。

すべてが変化したのは1993年で、サンプラスがUSオープン準々決勝でチャンを下した時だった。チャンは第1セット・タイブレークを7-0で勝ち取ったが、サンプラスは第2セット・タイブレークを取り、次に第3・第4セットは6-1、6-1で勝利したのだ。

ある時点では、サンプラスは連続で10ゲームを勝ち取った。1時間にもわたって、チャンがあれほど徹底的に圧倒された事はなかった。サンプラスは至る所にウィナーを放ち、チャンにコートじゅうを走り回らせてくたくたにさせた。それは息を呑むようなテニスだった。試合中にマッケンローは、サーブ&ボレーヤーがベースラインからも、これほどのオールラウンド・ゲームを持っているのは稀だと語った。試合後にイリー・ナスターゼは、あの段階で今までに目撃した最高のハードコート・テニスだったと言い、有名な引用句となった。

その後にチャンがサンプラスに勝利したのは、1試合だけだったと思う(実際は2試合)。そしてライバル関係は、1996年USオープン決勝戦での勝利を含めて、サンプラスの12勝8敗で終わった。


総括すると、他に目立ったサンプラスのライバル達は:

イワン・レンドル、ミハエル・シュティッヒ、マラト・サフィン、トーマス・ムスター、グスタボ・クエルテン、エフゲニー・カフェルニコフ、セルジ・ブルゲラ、マーク・フィリポウシス等。

サンプラスのライバル関係でお気に入りは、誰とのものだったか?

アガシ 66.7%

ベッカー 13.9%

チャン 0.0%

クーリエ 2.8%

エドバーグ 5.6%

ヘンマン 0.0%

ヒューイット 0.0%

クライチェク 2.8%

ラフター 2.8%

その他 5.6%

投票総数:36(2010年4月17日段階)



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