ボストン・グローブ
1997年1月27日
2つの音高らかな連射(ボレー)が発射される
文:Bud Collins


メルボルン―――「ショットガン」マルチナと「ピストル・ピート」。ボニーとクライドという訳ではないが、見かけは美しいヤラ川の近くで、彼らは人の群れを襲った。そこはボートの漕ぎ手が唸り声を上げ、1992年にはジム・クーリエがオーストラリアン・オープン優勝を祝うために飛び込んだ場所だ。

訳注:ボニーとクライド。1930年代前半にアメリカ中西部で、銀行強盗や殺人を繰り返した犯罪者カップル。後にその生涯は映画化され、1967年の「俺たちに明日はない」が有名。

新たにチャンピオンになったマルチナ・ヒンギスとピート・サンプラスは共に、高速のショット・メイキングでほぼ100万ドルを強奪した後、破傷風の予防注射(ショット)を受けなくて済むように、汚染された川での水泳を辞退した。しかし彼ら自身のショットは2週間響きわたった。

二連銃のバックハンドを持つ彼女は16歳3カ月で、1世紀以上にわたる中でも最も若いメンバーとして、選ばれたメジャー・チャンピオンの会に加入した。彼は9つ目のメジャータイトルを手にして、男子部の会長の地位に近づいた。1967年に No. 11と12を登録したリーダー、クィーンズランドの農夫ロイ・エマーソンを今や追いたてている。

1930年代のアメリカ中西部を荒らし回った悪名高い強盗・殺人カップル、ボニー・パーカーとクライド・バロウは、より儲けの上がる武器を好んだ。最大の儲けはカンザス州の小さな銀行から奪った3,500ドルだったが、通常はガソリンスタンドや店を襲ってケチな金額を奪い、ヒンギスとサンプラスのように逃げた。だが残した死体の様相は、2人のものよりかなり薄気味悪かった。

サンプラスは87分、6-2、6-3、6-3のスコアで仕事に片を付けたが、それはヒンギスが要した時間より28分長くかかっただけだった。彼が活動し、カルロス・モヤを仰天させていた時、関係者席は紛れもなく空っぽだった。

彼を「ピストル」と呼んでいた人々、コーチのティム・ガリクソンと長年の恋人デレイナ・マルケイが、かつてはそこに座っていたものだった。ガリクソンは亡くなった。同じく、ロマンスも終わった。サンプラスはニューオーリンズでの(アメリカン)フットボール・ゲームには、かなり無頓着だった。「ダラスが負けた後は興味ないよ」と、彼は冷淡に言った。

「ショットガン」と「ピストル」は発砲する。彼らはオーストラリアン・オープンの優勝者として、ごく稀なグランドスラムを1997年に狙える唯一の者たちである。それを最後に上手くやったのはシュテフィ・グラフで、1988年の事であった。次の場所はパリである。今やグラフは、ナンバー2に上昇したスイスのマンチキン(小説・映画「オズの魔法使い」に登場するキャラクター)を警戒しなければならない。

男子は為すすべもなく監視しなければならない。メジャー・ダービーでピートの先にいるのは偏屈な老人たちばかりだからだ。60歳のエマーソン、58歳のロッド・レーバー、40歳のビョルン・ボルグ、そして生きていれば104歳のビル・チルデン等で、それぞれ12、11、11、10のタイトルを獲得している。8つを獲得したフレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、ジミー・コナーズ、そしてイワン・レンドル等を凌ぎ、5人とのタイ記録を破った後、サンプラスはアメリカ人で第1位のチルデンを追いかけているのだ。




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