オーストラリアン・オープン
1997年1月27日
サンプラスは既にもう1つの頂上に上がる
文:Nirmal Shekar


現代テニスにおける最も偉大なサミット出席者へ、日曜日(の決勝)はさらにもう1つの頂上を差し出し、彼は予想したかも知れない以上に、遙かに容易く登った。しかし、ピート・サンプラスにとっては、それはもう1つの停留所でしかなかった。一時的にはいかに陶然となろうとも―――真の目的地ではなかった。

今、偉大なる男はオーストラリアン・オープン男子決勝で、スペインのカルロス・モヤを6-2、6-3、6-3で下した。この勝利はサンプラスに9つ目のグランドスラム・シングルス・タイトルをもたらし、征服すべきピークは、実際のところあまり残っていない。

だが、思い出せる限りにおいて、サンプラスは最高点以外を目指した事はない。そして近代テニスの最も偉大な伝道師にとって、歴史的な登攀は続く。視界には、いくつかの有名な手ごわいピークがある。次は多分ビル・チルデン(10タイトル)峰だろう。それからロッド・レーバーとビョルン・ボルグ峰(各々11)、そして最後にロイ・エマーソン峰(12)がある。

そしてワールド・チャンピオンは、たった25歳なのだ! まあ、偉大なる男が自身の山頂―――その頂は、テニス界の未来の偉人たちにとって、究極の挑戦となるだろう―――を、新しいミレニアムに突入するまでに占有する事はないと賭ける者は、あまり多くないだろう。

日曜日、サンプラスはノーシードのモヤを1時間27分で打ち負かしたが、この8年間にプレーした11回のグランドスラム決勝のうち、最も容易な勝利―――失ったゲーム数で言えば―――だった。そしてこの勝利は、彼に2つ目のオーストラリアン・オープン・タイトルをもたらした。彼は4つのUSオープン・タイトルと、3つのウインブルドンの栄冠を獲得している。

他の頂が呼び招き、間もなくマラソンとも言うべき旅を再開するとはいえ、サンプラスは今晩、恐らくささやかな祝宴を自分に許すだろう。なぜなら、オーストラリアでの過去2年の戦いは、彼に傷跡を残していたかも知れないからだ。

2年前、サンプラスのコーチ、故ティム・ガリクソンは、病を得てメルボルンから合衆国へと帰国しなければならなかった。そして感情的に取り乱したサンプラスは、戦いを続けようと心を鬼にして決心した。しかし彼はジム・クーリエとの試合中に、世界じゅうが見守る前で泣き崩れた。1人の観客が叫んだ時。「ピート、ティムのために頑張れ」と。

サンプラスはそのスリリングな5セットを戦い抜いて勝利したが、アンドレ・アガシとの決勝戦では、肉体的にも感情的にも及ばなかった。そして昨年、ワールドチャンピオンはオーストラリアのマーク・フィリポウシスの爆弾により、3回戦で選手権から吹き飛ばされた。

結局、今日の勝利はサンプラスにとり、痛手をいくらか癒やすのに役立つ筈だ。もっとも勝利そのものは、金曜日に彼がトーマス・ムスターに対して離れ業を披露するや、多く人々にとっては当然の事と受け止められたが。

「僕は今朝ずっと考えていた」と、サンプラスは、メルボルンで過去2年間に経験したトラウマに触れた。

「きっとティムは上から見下ろし、僕の戦いぶりに満足してくれているよ。僕の心構えに関して、彼は本当に手助けしてくれた。タフである事を教えてくれたんだ。彼が亡くなった時、僕はもうテニスをしたくなかった。だが時が………時が助けになった。僕はただテニスを続けなければ」

そして偉大なる男は、実に素晴らしく続けた。彼は昨年9月にUSオープンで優勝し、1996年をナンバー1で締めくくった。さらにこれは、彼が夢見たであろう以上の、見事な新シーズンのスタートである。

「これが全てだ。僕はスラム大会で上手くやるために、自分に多大なプレッシャーをかける。キャリアを振り返る時、際立つものだ―――グランドスラム・タイトルは」とサンプラスは語った。

繰り返して言うが、メジャー大会で、この2週間に見せたサンプラスの成功の顕著な特徴は、彼が大会終盤へ向けてピークに達するというやり方だった。彼は4回戦でスロバキアのドミニク・ハバティに対し、まずい試合をした。そして次のラウンドからは、ほとんど別人の、お馴染みのサンプラスを見ているかのようだった。

「スラム大会の準々決勝、準決勝、そして決勝………それはステップアップする時だ」とサンプラスは言った。もっとも彼は、この「ステップアップ」する仕事を、まるでスイッチを押すだけであるかのように、シンプルに見せていた。

モヤ自身―――1969年のアンドレス・ヒメノ以来、ここで初めて男子決勝に進出したスペイン人―――にとっては、この日、偉大なる対戦相手に挑み対抗するには、ヘラクレスのごとき「ステップアップ」を要しただろう。

ボリス・ベッカー、マイケル・チャンといった他のスーパースターと対戦し、倒した事で、マジョルカ出身の大男は、技能および大試合向きの気質を持っていると証明した。

しかし、最高潮―――ワールドチャンピオンがスラム決勝で生じさせる状態―――に近いサンプラスと対戦するには、それこそ途轍もないものを要しただろう。そして初めて決勝に進出した20歳の若者に、それを成し遂げる力量がなかったのは、無理からぬ事だった。

「彼はナンバー1だ。彼は今日それを示した。僕はそれまでの試合ほど良いプレーをしなかった。だが、彼が僕に良いプレーをさせなかったんだ。僕は今日、勝ち上がってきたこれまでの2週間より、遙かに多くの事を学んだ」とモヤは言った。

まさに、今日の決勝戦は、サンプラスからのテニスレッスンであった。暑く湿気の多い午後、ギリシャ系アメリカ人が最も望まなかったであろう事は、不安定なスタート、あるいは長い骨の折れる試合だった。そして彼は早い時点でペースを調え、彼自身と若い挑戦者の差を示した。その差は、ゲームが進むにつれて増大していった。

「湿気が多くて暑かったから、早く調子を整えたかったんだ。本当に、自分でもいいプレーをしたと思うよ」とサンプラスは言った。「第2セットを取ったのが試合のカギだった」

第1セット、サンプラスが先にサービスブレークして3-1とし、セットを締めくくるなか、モヤはいかにもノーシードの選手に見えた。しかしスペイン選手は、手柄によりここで多くのファンを得ていたが、スタンドからの「カモン、カルロス」「カモン、カルロス」という叫びに励まされた。そして、第2セットではブレークバックして1-2とし、さらにサービスをキープして2-2にして、復活する様子を示した。

ネットの向こうの偉大なる男は、トラブルの兆しを嗅ぎとったのかも知れない。そして第7・第8ゲームで、なぜ彼はスラム決勝でこのような無敵の競技者なのかを、サンプラスは疑いの余地もなく示した。

ブレークポイントを迎えたが、サンプラスはカバーして4-3とした。次にラリーで連続して2回、クレー育ちの対戦相手に打ち勝ち、ブレークして次のゲームを迎えるチャンスを握った。サンプラスがブレークして5-3としたポイントは、ラケット技能と同じく彼の意志の力を象徴していた。彼は全てのボールを追いかけ、最後にフォアのウィナーを放ったのだった。

暑い午後、ワールドチャンピオンは51分で2セットアップとした。そして賽は投げられた。モヤはしばし戦い続けたが、彼の決意は完全に打ち砕かれた。第3セットの第3ゲーム―――試合で最も長いゲーム―――をサンプラスがブレークし、2-1にすると。

それからは、ただ時間の問題だった。そして予想より早かったかも知れない。大きな疑問を抱かれていたモヤが、最初のサービスゲームを始めた時よりも。モヤは第9ゲームでダブルフォールトを犯し、さらに緊張から2つのミスヒットを打った。サンプラスは必要最低限より長くコートに留まりたくなかったので、大いに感謝をし、そして最初のマッチポイントでドロップボレーを決め、試合を締めくくった。スペイン人は絶望的にベースラインから突進し、掬い上げはしたが。

決勝戦の衝撃的な側面は、ムスター戦でのように、サンプラスが何度となくベースラインからポイントを勝ち取った事だった。ベースライン上でより快適な筈の対戦相手に打ち勝ったのだ。コンディション―――重いボールと遅いコート―――を考えると、これはサンプラスにとって、フレンチオープン優勝にも等しかった。彼は最高のクレーコート・プレーヤーの3人―――アルベルト・コスタ、トーマス・ムスター、そしてカルロス・モヤ―――を試合で立て続けに破ったのだ。

しかしそれ―――パリで優勝する事―――は、今もサンプラスの最大の目標であり続ける。「今回は、僕が優勝した中で最も厳しいメジャー大会だ―――肉体的に。暑さ、ボール、コンディション………それらは僕のゲームに有利じゃなかった。だが、フレンチは欠けているものだ。今年、あそこで自分にチャンスを与えるよう、できる限りの事をするつもりだ。でも自分にプレッシャーを掛けすぎる事はできないよ。物事は起こるべき時に起きるだろう」とサンプラスは語った。

勝利はサンプラスの ATP ランキングにおけるトップの座をさらに強固にしたが、モヤ自身は決勝進出の後、初めてトップ10入りする。スペイン人は9位にランクされる一方、彼が1回戦で負かした男―――ベッカー―――は、トップ10から脱落した。


全般記事一覧へ戻る Homeへ戻る