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ニューヨーク・タイムズ 1995年1月24日(2006年に再掲載) 筋力、汗、そして涙 文:Robin Finn |
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全豪オープン準々決勝を装った苦悩の受難劇で勝利するはるか前に、ピート・サンプラス、前回優勝者であり世界1位の選手は、すでに想像もつかないような事をしていた。彼はスタジアムコートのスポットライトの下で、涙に暮れたのだ。そして、この3時間58分のお涙頂戴ものが、6-7(4-7)、6-7(3-7)、6-3、6-4、6-3で、第9シードのジム・クーリエに対する真夜中過ぎのカムバックとして終わった瞬間、 伝統的とも言えるほど冷静なサンプラスは、再び涙に打ちのめされた。 「我々は共に、ただとことんやり通したのだと思う」とクーリエは語った。対戦相手のらしくない芝居がかった行動は、コーチが重い*心臓疾患の治療のため合衆国に送り返されるという事態の中で、タイトル防衛を続行していくという不安に関係があったのかもしれないと、クーリエは考えていた。 訳注:この時点では、ガリクソンは心臓疾患だと一般に見なされていた。 2試合連続で2セットダウンの危機という、グランドスラムでの究極の苦境からサンプラスが甦るよりも前から、彼の対戦相手は密かに、身体を苛む脚のケイレン症状と闘っていた。「僕はただ肉体的に疲れ果てたんだ」と、1992年と1993年にこの大会のチャンピオンとなったクーリエは語った。「第5セットの4-3では、僕たちのどちらかが倒れかねなかった。だが最後まで持ちこたえたのは彼だった。ピートは決然としている。そしてグランドスラムにおいては、彼の力の内で、勝つためにできる事は何でもするつもりでいる」 サンプラスはコーチであり親友でもあるティム・ガリクソンの病状を心配するあまり、神経をすり減らしていた。ティムは発作に苦しみ、週末は私立病院で検査を受けていた。この発作はこのところ何度も起こっており、先天性の心臓疾患と関係していたが、昨年12月に初めて診断がついたのだった。 サンプラスは自分が涙に暮れた件について、語る事ができなかった。それは、彼がファイナルセットの最初のゲームでサービスをキープした後に始まった。そしてセットを通じて断続的に続いた。「ここで起こったすべての事から立ち直れるといいが」とサンプラスは語った。彼の落ち着きは、コーチのために「この試合に勝て」と観客が彼を励ます前から、すでに砕けそうになっていた。「僕は自分が反撃し、試合を投げなかった事が本当に嬉しかった」とサンプラスは言った。彼はクーリエに対して23本のエースを放った。そのうちの2本は、最終セットで2-1リードとする際、涙ぐみながら打ったものだった。 感情がサンプラスを打ち負かしたのは、第5セット第1ゲームのサービスをキープし、試合で初のリードを奪ってからだった。彼はチェンジオーバーで椅子に座り、肩を震わせてタオルに顔を埋めた。そして突然、堪えきれずに涙を流し始めた。彼は次の2ゲームの間、不安定な感情と闘っていた。それから、精神的な苦境に助言をもらうため*トレーナーを呼んだ。 |
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訳注:実際には、第1ゲーム後にトレーナーが自発的に現れ、顔に水をかけたり、何か話しかけて落ち着かせようとしていた。第3ゲーム後にも現れたが、その時点ではピートもかなり落ち着きを取り戻していたようだった。 サンプラスは試合を放棄する瀬戸際のように見えた。しかしその代わりに、彼はくじけずに頑張り、第8ゲームでクーリエをブレークした。そして、クーリエのフォアハンド・リターンが長く飛んだ時、初のマッチポイントで勝利を掴んだ。 ネット際でサンプラスはクーリエに謝り、彼を抱きしめた。クーリエは、結局のところ、仲間だった。試合の前日、ガリクソンがアメリカの自宅に戻る前に、夕食を共にしていたのだ。シカゴで医師の診察を受ける途上、ロサンゼルスで飛行機を乗り換える間に、 ガリクソンは試合の結果を知った。 ピート・サンプラスは準決勝でマイケル・チャンを下し、そして決勝戦でアンドレ・アガシに敗れた。1996年5月、ティム・ガリクソンはイリノイ州ウィートンで、脳腫瘍のため亡くなった。享年44歳だった。 |
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