テニスマガジン
1995年3月20日号
一瞬の揺らぎ
文:伊藤はに子


ネットの向こう側の対戦相手が、試合中突然、精神的、あるいは肉体的な極限状態に陥ったとしたら、どうすればいいだろう。自分がコートに立っているのは、確かに相手を倒すためだ。しかし相手は、自分の攻撃とは関わりのないところで、自らの内に発生した何らかの問題のために苦しんでいる。

痛みと闘っている間、彼はまわりのことなど目に入らない。必死に痛みをこらえ、どうにかして試合を続けようと、ただそれだけを考えている。彼には、相手を顧みる余裕など微塵もない。

オーストラリアン・オープンの準々決勝で、ピート・サンプラスとジム・クーリエの試合を観ながら、ふと頭の中をよぎったのが、1989年のフレンチ・オープンでのマイケル・チャンとイワン・レンドルの対戦だった。

もちろん、このふたつの試合には、その状況からいろいろな相違点がある。しかし共通していることは、痛みから負けの崖っ淵をさまよった者が勝利を挙げ、苦しむ相手をネット越しに見守った者が、敗者としてコートを去ったことだ。

チャンとレンドルの力には、当時、格段の差があった。王者が無名の若き戦士に敗れた試合だった。レンドルにとっては、彼のキャリアの中でもっとも納得のいかない敗戦のひとつだったに違いない。チャンは、極度の緊張感から抽出された集中力をもって、この試合を乗りきった。あるいは、痛みとの闘いがなければ、勝てなかったかもしれない試合だった。そしてその集中力を持続させ、チャンはのちに大会の覇者となったのである。

サンプラスとクーリエは、ジュニアのときから互いに、そしてともに戦ってきた幼なじみの良きライバル同士だ。2年前の春、サンプラスが獲得したナンバーワンの座は、実は1歳年上のクーリエが1年ほど暖めたあと、譲り渡したものだった。それからふたまわりしたグランドスラムの舞台で、何度か両者は対戦した。

1993年のウインブルドン決勝では、王座を奪ったサンプラスが、クーリエを破った。クーリエは、その数週間前にもパリの決勝で敗れていた。ふたつの敗北は、ついそれまで王者であった者を一気に暗転へと追いやった。敗戦が重なり、ランキングを下降するごとに、捨て鉢なプレーや言動で、クーリエはかつてのプライドまでをかなぐり捨てたかに映った。

反対に、2年半ぶりに4大大会を制したサンプラスは、ここを出発点にグランドスラム大会3連覇を成し遂げた。「退屈な王者」と言われながらも、サンプラスは、その洗練されたプレースタイルで、徐々にファンの信望を獲得していった。それはまるで、ともに歩んできた長い道程でひとつの追分けに突き当たり、そこからはまったく別のふたつの道が続いていたかのように、両者の間は、広がっていくばかりだった。

そんな中でクーリエは、想い出したかのように分岐点に戻ってきた。ライバルとの対決が、かつての強い自分を取り戻させることを信じるかのように、クーリエはサンプラスに立ち向かった。しかし、大会3連覇を復活の手掛かりにともくろんだ昨年のオーストラリアン・オープンの準決勝で、クーリエは、サンプラスにあっさり敗れてしまう。その雪辱を、続くフレンチ・オープンで果たしたクーリエだったが、ライバル打倒に力尽き、得意なはずのパリのクレーを制する余力はすでになかった。その後、彼からは失意の引退宣言さえも聞こえてきた。

しかし沈黙の間、クーリエが戻ろうとしていたのは、あの運命の分岐点だった。サンプラスとの対決だった。かつて2度も制している大会にもかかわらず、第9シードでメルボルン入りした今年のクーリエに注意を払うものはいなかった。しかし、今シーズン幕開けのアデレードで優勝を飾っていたクーリエは、密かに自信を携えていた。それは、今、彼がもっとも必要とするはずのものだった。

今にもドラマに流されそうになりながらも、最後まで高いレベルを保ち続けた試合内容に、悔いは残らなかっただろう。そして、涙に咽ぶサンプラスに「試合は明日にしてもいいんだよ」と語りかけたクーリエの、少年の日からのひとつ年上の兄貴の気持ちにも、後悔はないだろう。しかし一瞬の攻めの揺らぎがもたらしたものが何であったのか、クーリエはこの春から自問し続けるに違いない。

勝者ばかりを追うカメラの画面から、すでに敗者の横顔は消えていた。そのとき彼が何を見つめていたのか、確かめる術はない。