アメリカ版TENNIS
1996年1月号
………それから、全てが変わった
インタビュー:David Higdon




昨年まで、ピート・サンプラスの人生とテニスは、スムースであった………


このインタビューは、カリフォルニアの長く暑いある日、ニューポートビーチでゴルフをするため、ピート・サンプラスが出かけたのを挟んで、2回に分けて行われた。我々の話し合いは、1995年のシーズンを―――初期は大いに落ち込み、そして最終的には大いに高揚した―――振り返るものだった。

昨年の同じ月、オーストラリアン・オープンで彼のコーチ、ティム・ガリクソンは、後に脳腫瘍であると判明した病に倒れた。数カ月後、サンプラスは1位の座を失い、それと共に自信も失った。彼はフレンチ・オープン1回戦敗退を含め、クレーコートシーズンの間、1試合も勝てなかった。

しかし心安い芝生、ウィンブルドンのコートは、彼のゲームに申し分のない癒しをもたらしてくれた。彼はそこで3年連続のタイトルを勝ち取り、さらに続けて、キャリア3度目のUSオープン優勝を果たした。11月にパリ・インドアで優勝した後、彼は再びナンバー1の座を取り戻した。

今月、彼はメルボルンに戻る。そこは彼のキャリアにおける、最も辛い時期が始まった所だ。


1994年、ヨーロッパであなたのコーチ、ティム・ガリクソンは一度倒れ、二度目には病院に連れて行かれたのでしたね。10月にスウェーデンで、彼は昏倒して顔をガラステーブルにぶつけ、2カ月後には、心臓発作だと診断されました。年の始め、彼の体調を心配していましたか?

ピート うん、だけどストックホルムでは、彼はダイエットをしていた。あまり物を食べていなかったので、それで彼は気を失ったのかと思っていた。ミュンヘンで、それは再び起きた。僕たちは本当に、何が進行しているのか理解する必要があった。医師らは彼を診察して、心臓に何か問題があると判断した。それからオーストラリアで、今度は本当に深刻な事になった。

1月20日の出来事を話してください。

ピート 僕は午前中、ガリーとヒッティングをした。3回戦でラルス・ヨンソンと対戦する準備をしていた。ガリーの顔には、ストックホルムでの出来事による傷跡が残っていた。その朝、彼の顔は青ざめていて、僕には傷跡がよく見えた。

ネットの向こう側から、彼は右側を見なかった。右側のものが目に入らないようだった。ヒッティングの後、彼はラケットを受け取りにきて、僕はロッカールームで彼に会った。僕はちょうど、こんな風に右側に座り、ラケットを用意していたが、彼は掴んだラケットを取り落としたんだ。

僕は彼を見上げて「ティム、大丈夫かい?」と聞いた。彼は「ああ」と言ったけれど、そうは見えなかった。彼は向こうへ行ったが、戻ってきて僕に言った。「私は医者に診てもらう必要がある」と。僕は「オーケー」と言い、彼は医者の部屋に行った。そして僕は(彼の双子の兄弟)、トムを探しに行った。医者はティムをひと目見て、彼はすぐに病院に運ばれていった。

僕は「うわーっ、これは3回目じゃないか」って思ったよ。ティムがオーストラリアに出発する前、シカゴの医者はみんな「大丈夫。海外に行っても問題ない」と言っていたのに、こんな事がまた起こったから、とても妙な事に思えた。なんだか変な感じだった。

あなたは試合をしなければならなかったのですね。

ピート 
ヨンソンと試合をした。僕はとてもいいプレーしていたけれど、「どうなってるんだ? 何がティムに起こってるんだ?」と考えずにはいられなかった。僕は試合に勝ち、そのまますぐに病院に行った。彼は点滴を受けたのだと思う。

グラハム(ムーア、ガリクソンの友人)がそこにいた。イアン(ハミルトン、ナイキの部長)もいた。トッド(シュナイダー、ATPのツアートレーナー)とポール(アナコーン)が来て、彼に会った。(ガールフレンドの)デレイナもいた。

あなたはヨンソンに勝った後、1日休みがあり、それから、最初の2セットを失った後、マグナス・ノーマンを下しました。次は準々決勝のジム・クーリエ戦でしたね。その試合までの事を聞かせてください。

ピート ティムはその日、飛行機でアメリカに帰った。僕はコートに出て、他の試合の時と同じように準備した。でも脳腫瘍について、すでに誰かから、ある事を聞いていた(ガリクソンは脳に4つの腫瘍ができていると診断された)。誰が僕に話したかは覚えていないが、ティムとトムが、僕に知らせたくなかった点にまで及ぶ内容だった。

2日間、トムとティムはとても感情的になり、狼狽していた。そんな彼らを見るのは辛かった。僕はできる限り強くあろうとした。いつものように、物事を自分の内側に収めて、強くいようとしていた。

僕はジムと試合をし、最初の2セットを失った。僕はいいプレーをしていたが、その時点ではジムの方がうまくプレーしていた。(サンプラスは一瞬の間をおく)うむ………ちょっと考えをまとめてみるよ。

僕は第3セットを取り、第4セットも取った。それから、ドカーン、それが僕を襲った。猛烈な勢いだった。僕の頭に、ティムとトムが泣いている姿が浮かんだ。なぜか、第4セットに勝った後、息が詰まったようになり、そして………僕は泣き始めた。

3ゲームくらいの間、僕は落ち着きを取り戻そうとして、本当に大変だった。止めようとしても、感情と共に涙が溢れてきて、全くコントロールできなかった。でも、それを自分の内から出して良かったと感じていた。僕はすべてを解放していた。何もかも、自分の内側に収めていたんだが、あの時点で僕を襲い、そして泣いたんだ。

試合中には、いろいろな感情が交錯していた。最初の2セットを失い、追いつき、僕はティムの事を考えていた。どんなに………彼がいてくれたらと………。

コートチェンジで、僕はトッドに来てくれるよう頼んだのを覚えている。どうしたらいいか聞いたら、彼は「深呼吸しなさい」と言い、僕は大きく息を吸った。彼は「それでオーケー」と言って、僕の顔に少し水をかけてくれた。

それから、どうやって………。

ピート 僕は平静を取り戻し、サーブを打とうとして、ネット越しにジムを見た。すると、また気持ちが乱れて、涙が出てきた。そして彼が言った。「ピート、大丈夫かい? 休んで明日やりたいかい?」って。

彼は、僕がケイレンを起こしていると思ったんだろう。彼がふざけたのか、それとも何をしようとしたのか、よく分からない。でもその時から、それはふっつり止んで、僕は怒っていた。彼がそれを言った時、僕は本当に腹が立った。ティムの事があって、彼はなぜ僕が泣いているか、知っていると思ったから。僕はケイレンを起こしていなかった。

そのポイントから、僕は自分に言い聞かせた。「僕はプレーを始めなければ。僕は……ティムのために、この試合に勝つんだ。この試合に勝つために、できる事をするんだ」
そういう事だった。

ジムは何をしようとしたんだと思いますか?

ピート ふざけたのか、ちょっと僕をからかったのか、僕には分からない。

その事について、彼と話をしましたか?

ピート いや、してない。試合後、彼は何か言ったかもしれないが、僕は大して注意を払わなかった。



次の日はどんな感じでしたか?

ピート たくさんの事が、僕の心を通り過ぎた。翌日、会場を歩いていて、自分が実際に泣いてしまった事に、なんだか気恥ずかしいような気分だった。なぜかは分からない。ポールにそう話したら、「いままで君から聞いた中で、最もばかげた事だ。君は人間的で、感情があるじゃないか」と言われた。僕は「でもコート上では、僕は強く、フィットしていて、感情を見せず、ただ自分のテニスをしたいんだ」と言った。

どんな反応を得ていたのですか?

ピート 手紙をたくさん貰い、多くのファンが僕のところにやって来て、「最高の不屈の勇気を見せてもらった」と言ってくれた。彼らは試合を見て、僕と同じ感情を持ってくれた。僕が泣いていた間、彼らも泣いていたんだ。とても心を打たれたよ。心が温められた。

僕は自分自身について、多くを学んだ。僕は、いままで誰も見た事のなかった感情を見せた。その事について、人々の意見を聞くのは嬉しかったが、その感情は常に、僕の心の中にあったんだよ。ピートはやはり人間的であると知るには、まるで僕がコート上で泣かなければならなかったみたいだ。

アガシとの決勝は、第3セットのタイブレークが分岐点のようでしたが。あなたはセットポイントを握っていたのに、取る事ができませんでした。

ピート あの日は暑くて、第2、3セットで、僕はその暑さを感じ始めていた。もし僕が第3セットを取っていたら、多分第4セットも取れただろう。でも………僕のテニスのレベルは、本来あるべき所になかった。

いままでに、親しい人の病気を経験した事がありますか?

ピート 父の姉妹が乳ガンと診断された時、父が泣いていたのを覚えている。僕は10歳か11歳だったが、その光景はいまでも心に焼きついている。でもいま、僕は年齢を重ね、事情は少し違っている。

父と話したのを覚えている。父は両親を亡くし、とても若い時期に2人の姉妹を亡くしている。僕たちはテニスや人生について話し合った。勝っている時、テニスはとても素晴らしいものだが、時に現実に気づかない事がある。僕のいままでの人生が、どれほどスムースだったかという事も話し合った。すべてがうまく行っていて、良き友人が健康上の問題を抱えたのは初めてだ。こういう事があって、すべてを広い視野で捉えるようになった。

ガリクソンとの関係を、どのように言い表しますか?

ピート 彼は、最も親密な友人の1人だ。僕にはあまり多くの親友がいない。もし人でいっぱいの部屋で、離れた所からティムを見たら、僕たちはただお互いに微笑み、それで意志が通じ合うだろう。彼との間には、他の多くの人とは共有していない、そういう結びつきがあるんだ。

ラスベガスでも、(デビスカップ準決勝のために、 ガリクソンはオーストラリア以来、初めてプロテニスのイベントに姿を見せた)僕たちはただ顔を見合わせ、微笑んでいた。………彼は素晴らしい父親で、素晴らしい人間だ。外向的で、僕がいままでテニスで関わった中で、最も素晴らしい人々の1人だ。彼と電話で話す機会を持てなかったら、彼が僕のテニスに関わらなかったら、と考えるだけで、胸がつぶれるようだよ。

オーストラリアでのアガシとの一戦は、ライバル関係という、非公式の副産物を生み出しましたね。彼はメルボルンであなたを負かし、あなたはインディアンウェルズで彼を負かし、彼はリプトンであなたを負かし、そしてあなたたちはこのライバル関係に………。

ピート
 いかすね。

あなたは4月10日、彼に1位の座を明け渡しました。そしてバルセロナでは1回戦で負け、うまくいってなかったようですね。

ピート 1位の座を失ったのは嬉しくなかったけれど、世界の終わりというわけではなかった。ちょうど僕は、昨年のポイントを全部失ったんだ。3月の終わりに、デビスカップ第2ラウンドのためにパレルモに行ったが、それでかなり消耗したのかもしれない。

エンジンがかからないままバルセロナに行き、早く負けて家に帰り、モンテカルロに行って、足首を捻挫して家に帰り、またローマに戻って、1回戦で負けて家に帰った。ローマの後の時点で、僕は失望していたが、フレンチは迫っていた。

僕たちはみんな、メジャー大会に向けて違った準備の仕方をする。僕はフレンチオープンへ行き、準備したが、ジルベール・シャラーに厳しい試合で負けた。それがクレーコートシーズンの全体像だった。

昨シーズン、あなたはいままでより多くのクレーコート大会に出場しましたね。96年は減らすのですか?

ピート 来年は同じ事をしないよ。僕はクレーでもっと良いプレーするべく、異なった事をやってみたが、うまくいかなかった。僕はフレンチの前に2カ月間向こうにいて、(ステファン)エドバーグのようなプレーをする代わりに、(トーマス)ムスターのようなプレーをしようという固定観念に囚われていたと思う。

僕の長所は姿を消してしまったようだ。サーブ&ボレーをせず、ステイバックしていた。長い期間クレーコートにいたという事実も、おそらく助けにならなかったんだろう。

あなたはフレンチの後、敗戦を長く引きずるだろうと言いました。そうでしたか?

ピート うん。落ち込んでいた。ローマの1回戦で負けても、それは乗り越えられる。でも僕はメジャー大会に重きを置いているし、フレンチのために、スケジュールまで変えて臨んだのだから。家に帰り、本当に意気消沈して、ふさぎ込んでいた。立ち直るのに2週間かかったよ。

意気消沈している時、あなたはどんな感じですか?

ピート かなり怒りっぽくなる。あの時は、少しばかり自分で自分を哀れんでいた。そんな感情は、長らく感じた事がなかった。その後3〜4日間、ティムやポールと話し合ったが、彼らはただ言い続けた。「ポジティブに構え、すべてはもう済んだ事として、全く新しい態度でウインブルドンに行こう」と。みんな素晴らしかった。両親も、デレイナも。デレイナはその間じゅうずっと、素晴らしかった。

芝のテニスは、僕にとってはすべてが新鮮なボールゲームだ。ロンドンに到着し、芝で練習を始めたら、僕の態度はすっかり変わった。練習し、プレーしたいと切望するようになった。ティムと電話でたくさん話したよ。

ウィンブルドン決勝では、ボリス・ベッカーではなく、アガシと対戦するのを楽しみにしていましたか?

ピート
 アンドレがベッカーに対して、1セットと4-1のリードになった時点では、彼と対戦する心構えをしていた。それからホテルに車で戻り、テレビをつけたら、ベッカーが第4セットでリードしていた。僕は「どうしちゃったんだ?」って感じだった。ベッカーはブレークバックして、アンドレは少し追い込まれていた。芝ではそういう事が起こり得るんだ、特にステイバックしている場合は。

でも僕がクラブを出た時点では、翌日の試合で、アンドレに対してすべき事を考えていた。アンドレと対戦できたら、楽しかっただろうね。僕たちの対戦は、ちょっと特別なものがあるから。それがモントリオールの決勝であれ、ウィンブルドンであれ。

僕たちは大いに活気づき、お互いの自尊心をかける。2人のアメリカ人の対決だ。ベストを倒すチャンス、それを楽しみにしていた。ベッカーが最高ではないと言ってるんじゃないよ。でも、ウィンブルドン決勝でアンドレと対戦するのは夢だ。

ウィンブルドンによって、どのくらい軌道修正できましたか?

ピート 僕の1年を救ってくれた。ウィンブルドンはすべてを救ってくれたよ。USオープンで何が起こったとしても、僕は今年を成功の年として、振り返る事ができただろう。メジャー大会で優勝したら、特に最大のものの1つで優勝したら、良い年だよ。

あなたはウィンブルドンで救われ、そしてハードコート・シーズンに向かい、お粗末な出来でした。

ピート それほどでもなかったよ!

いいえ、ひどかった。インディアナポリス準決勝では、ベルント・カールバッヒャーに負け、USオープン前哨戦のハードコート大会では、1回も優勝しなかったんですからね。

ピート ウィンブルドンで優勝した後、モントリオールの決勝に進出して嬉しかったよ。いい事だった。アガシに負けて悔しくはあったけれど、かなりいいプレーができたと感じていた。シンシナティでは疲れてしまって、(ミハエル)シュティッヒに第3セット6-1で負けた。

夏にこれらの大会でプレーする時、心の中には常にUSオープンの事がある。いいプレーがしたいし、大会で優勝したいと思うよ。でも、良すぎるプレーをして、早い段階で燃え尽きてしまいたくはない、という感じなんだ。

それがアガシに起きた事ですか?

ピート 奇妙に聞こえるかも知れない。でも彼はニューヘブンで優勝した後………メジャー大会の前に、試合に負けるのは、そう悪くもないんだよ。運を使い果たしたくない。USオープン決勝で、エドバーグに負けた年の事を覚えている。あの年、僕はロスとシンシィ、インディに優勝し、連続15試合くらい勝ち続けた。

今年、僕はインディでプレーして、カールバッヒャーに負け、試合中、腹を立てた。彼に対してじゃない、自分自身にだ。でも、USオープンでは腹を立てたりしない。頑張り抜くだろう。ティムが言ったよ。「こつこつ精を出さなければいけない。もしセットを失い、いいプレーをしていないなら、一生懸命やる必要がある。弁解している暇はない。そういう事だ」

もちろん、あなたは弁解する必要がありませんでした。決勝でアガシを下してUSオープンに優勝し、その後、1位の座も取り戻したのですからね。いままでに、このような年がありますか?

ピート いいや。妙な年だった。クレーコートシーズンの間は、いつ事態が好転するんだろうかと思っていた。僕はここから抜け出せるんだろうか?ってね。心の奥では、プレーヤーとしての自分の能力を疑った事はなかった。でも、負け始めると、自分自身に疑問を感じ始める。

もし僕が再びこういう事を経験するとしても、そこから抜け出せるんだと学んだよ。もし再び起きても、もし来年のその時期に順調にいかなくても、僕はそこから立ち直る事ができるという自信を与えてくれた。自分のゲームで、それができるように感じている。

人間としては、自分自身について、どんな事を学びましたか?

ピート すべてて、特にティムの事で、すべてを広い視野で捉える事を学んだ。テニスは素晴らしいスポーツで、あらゆる試合に勝ちたいと思うよ。でも究極的には、人生で最も重要なものではない。大切なのは健康だ。それは母がいつも僕に言ってきた事だ。

ティムと一緒にやってきた事は、とてもうまくいっていた。僕はたくさん勝っていて、順調だった。僕たちの関係は素晴らしかった。そしてドカーン! 2〜3カ月の間に、すべてが変わったんだ。それは人生で起こりうる事に対して、僕の目を開かせた。


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