おしゃべりな座席

2001-2002 シーズン

コンサート,バレー,演劇など,様々なパフォーマンスが繰り広げられるステージ.首都圏には,主なものだけでもざっと 100 ステージ.それぞれの会場には,当然のことながら,観客のための座席がステージに向かって配置されています.その数,およそ 10万席.

座席は毎晩のようにステージを眺め,観客の拍手やブーイングの中,毎回入れ替わる観客を健気に支えています.座席は人のいるときは寡黙ですが,夜中になると「くるみ割り人形」のように?

誰もいない会場に忍び込んで,じっと耳を澄ますと,

ほら座席のつぶやきが聞こえてくる...

座席番号は,実際とは異なります.

新国立劇場オペラ劇場 1階 11列 29番

2001年 10月 13日 ジュリエット:酒井はな,ロメオ:森田健太郎

役名からすぐに察しられるように,今日はシェークスピア原作「ロメオとジュリエット」のバレエ化である.振付はマクミランによるものだが,プログラムの解説には,「ウラーノワ以来,『ロメオとジュリエット』というのは『ヒロインのバレエ』の色あいの濃い作品であったが,マクミランの意図したジュリエットは,淑やかに男性に服従するルネサンス期の女性のイメージとは一線を画す,果断で情熱にあふれた存在である.家同士の確執ではなく恋人たちの感情に焦点を絞り,墓所での両家の和解を割愛してジュリエットの死の場面で幕を下ろすという演出はアシュトン―クランコの解釈を踏襲したものだが,マクミランはジュリエットにより積極的に物語を前へと推し進めてゆく,いわば『悲劇の触媒』としての役割を与えている」とある.(ウラノーワは,初代ジュリエット.)なるほど,確かにそう見ることができる.

第一幕冒頭,ジュリエットは乳母をからかい人形で遊ぶあどけない少女として登場する.しかし,ジュリエットに求婚するパリスを伴ってジュリエットの両親が現れると,人形を後ろ手に乳母に渡して隠している.少女から大人へと変身する,その兆しででもあろうか.しかし,パリスには関心を示さない.手を取られても,スッと身を引いてしまう.歩くのではなく,つま先立ちで平行に移動するのである(何と呼ぶのだろうか).その様は,拒否と言うより,ただただ無関心と言うべきか.そのジュリエットがロメオに出会って変身する.続くバルコニーの場でのジュリエットの踊りは,両家の諍いやパリスの存在もものかは,自らロメオに手を差し伸べる.ロメオに従うのではなく,自らロメオに寄り添うのである.このジュリエットの変身は,おそらく「恋の情熱」などという類型的な解釈では収まらないだろう.ジュリエットにとってロメオは「白馬の騎士」である.西洋のお伽話によくあるように,これは一人の人間として自立する姿を象徴する展開である.その意味では,ロメオは狂言回しに過ぎない.実際,マキューシオとティボルトの喧嘩を止めに入ったロメオは親友マキューシオが殺されるとすぐに仇討ち役に回ったり,ジュリエットの仮死状態を早とちりして自害するなど,いささか無分別で滑稽である.場面は飛ぶが,第三幕冒頭.ロメオはジュリエットと一晩を過ごし,町を出る.残されたジュリエットは,パリスの求婚を受け入れる.皆が出ていった後,ベッドの端に腰を下ろして暫しの黙考.前記の解説には「絶望と無力のなかから新たな意欲を湧き上がらせてゆく」とあるが,その間プロコフィエフの音楽は高止まりしたままだ.始めから終わりまで,激しいのである.おそらくは,パリスの求婚を受け入れたのも,策略の内,時間稼ぎだったろう.決心したように神父に相談に行くのだが,それ自体は決して「決断」するようなことではあるまい.キリスト教徒が神父に相談するのに決心は要らないし(日本人が精神科医に相談に行くのとは訳が違う),すでにその神父に依頼して秘密裏にロメオと結婚しているのである.絶望の淵から這い上がってきたと言うより,初めから策を練っていたと見るべきだろう.神父に対しても,相談と言うより,脅しに近かったに違いない.神父から仮死状態になる薬を渡された時に尻込みしているが,これも本当に死んでしまわないかと心配だったのだろう.この時点では,まだロメオに寄り添う可能性はあり,それに賭けていたのだから.実際,墓所でロメオの死を知ると,何の躊躇いもなく我が身に短剣を突き刺しているのである.

親の庇護の下にある少女から,自分で判断し行動する一人の人間への成長.「ロメオとジュリエット」のテーマは,「両家の諍いと和解」でもなく,「運命に翻弄される恋の悲劇」でもない.建設的な意味で,「ヒロインのバレエ」なのだろう.この点で,森田の抑えた演技は光る.

因みに,マキューシオ役の小嶋直也は膝の故障で降板,代わりに熊川哲也がマキューシオを踊った.評判通りの踊りであった.軽々とこなしているように見えたが,取り立てて目立とうともせず,マキューシオ役を逸脱しないのはさすがと言うべきだろう.その点,観客の方がミーハーである.

特別編 我が家のテレビの前

2002年 3月 11日 カナダ・伊映画「レッド・バイオリン」

時は17世紀.イタリアのバイオリン製作者ブソッティは,生まれてくる子のためにバイオリンを作った.他のバイオリンは手慰みに思えるほどの芸術品.だが,ジプシーが占った通り,妻アンナの出産はうまくいかず,ブソッティは妻も子も失ってしまう.深い悲しみを抱えて,ブソッティは,妻の髪で刷毛を作り,妻の血を混ぜたニスをバイオリンに塗る.互いに求め合うブソッティとアンナの情念が宿るレッド・バイオリン.いつしか,孤児を育てる修道院に渡り,数多の子供たちに引き継がれ,子供たちを慰め,また慰められてきた.

そして18世紀.豊かな音楽の才能を持つ孤児カスパーはこのバイオリンをこよなく愛していた.修道士たちはカスパーの才能に気づくと,その将来をウィーンの音楽教師に託す.教師はある貴族がプロシア訪問に従える神童を探していると聞き,オーディションを受けさせる.だが,オーディションを主催する貴族がカスパーのバイオリンに興味を示したために,バイオリンを取り上げられることを心配したカスパーは,その場で急死してしまう.(伏線として,心臓の弱いことが語られている)修道士たちは,バイオリンを大切にしていたカスパーの心をおもんばかり,レッド・バイオリンをカスパーの墓に納めた.しかし,墓の中のバイオリンは,ジプシーたちによって掘り起こされる.そして,ジプシーと共に時を超えて音楽を奏で,情念は子と夫を求めてさらにさまよう.

19世紀.ジプシーたちの手を経て,レッド・バイオリンは英国に渡る.ブソッティは天才的な作曲家で演奏家でもある英国貴族ポープに姿を変え,アンナは女流小説家ヴィクトリアとして甦る.だが,激しく愛し合いながらも,それぞれの道を目指す二人に平和な暮らしは望むべくもない.ヴィクトリアは,旅行中,創作のために他の女性と交わったポープに傷つき,発砲する.弾丸はバイオリンを弾き飛ばし,傷心のヴィクトリアは,再び,レッド・バイオリンとなり彷徨する.

時を超え海を越えて,20世紀,文化大革命下の中国.アンナは中国共産党幹部の女性シャンとして生きる.しかし,激動の世相にあって,音楽への思いを共にし夫となるべき音楽教師チョウとはついに結ばれることがない.西洋音楽に対する排斥運動のさなか,母に買ってもらったレッド・バイオリンをチョウに託して消える.

再び時は移り,所はカナダ.チョウが秘蔵し文化大革命の嵐から守り通したバイオリンがオークションにかけられる.オークションの主催者は,出展するバイオリンの鑑定をモリッツに依頼する.ニューヨークから空路到着したモリッツは,輸送されてきた出展品の検査場に向かう.「これを預かってくれ」とコートを傍にいた職員に預け,取り敢えず出展品を一瞥する.そして,一丁のバイオリンに目を留める.レッド・バイオリン.あのレッド・バイオリンだ.モリッツはホテルに向かう.カウンターでの会話.「いつもの部屋か」「はい.階は一つ下ですが」「なら,同じではない」「ですが,同じタイプです」(複製品の暗示).ホテルに陣取り,楽器修理の専門技術者(400年前の悲しい別れの修理をも暗示する)に協力を仰ぎ,確認を急ぐモリッツ.「この(ヴィクトリアの弾丸による)傷は修理されているが,やり直す.ニスも塗り直す」「いや,ニスはそのままだ」(ニスはアンナの血なのだ).最終確認のため,唯一の複製品を買い取って比較する.確かに,レッド・バイオリンだ.

場面は,オークション会場.かつての修道院,英国貴族,中国共産党幹部の末裔や相続人たち,それに音楽家が,レッド・バイオリンを手に入れるべく集まっている.レッド・バイオリンに魅せられたモリッツも,複製品を携え,意を決して会場に向かう.「このコートを預かってくれ」.モリッツはコートを職員に預けると,修理技術者に協力してもらい,密かにレッド・バイオリンと複製品とを入れ替える.数日前に「(レッド・バイオリンは)大した代物ではない」と評した音楽家に,会場のレッド・バイオリンは落札される.もちろん,複製品だ.レッド・バイオリンを愛した人の関係者に複製品が渡るはずもない.モリッツは本物のレッド・バイオリンをケースに収め,タクシーに向かった.「モリッツさん!」.誰かが後ろから呼びかける.モリッツは足を速める.「モリッツさん!」.追いつかれ,観念して振り返ったモリッツに,会場の職員が預かっていたコートを手渡す(あるべき場所に帰ったという暗示).ホッとして,モリッツは待たせていたタクシーに乗り込む.空港へ向かうタクシーの中で,モリッツは家に電話を入れた.「これから帰る」「娘に替わるわ」「素敵なプレゼントがあるよ」.400年の時を超え,ブソッティとアンナの情念は,生まれてくるはずだった子と共に想いを叶えたのだった.

なかなかの秀作.地球を巡り400年の時を駆け抜けるスケールの大きさ,人を求める情念の深さを思わせる.ジプシーの占いを案内にしてオークション会場と過去を交互に提示する構成は,実に巧い.カメラもいい.人々に受け継がれ奏されるバイオリンだけをスクリーン上に固定して見せる場面は,唸らせる.もう一つ,レッド・バイオリンの中からモリッツを眺めるシーンも印象的.アンナが,ようやく巡り会えたブソッティを見ているのだろう.

新国立劇場中劇場 1階 14列 34番

2002年 3月 16日 バレー ミックス・プログラム

近現代の小品 3本のオムニバス.

「レ・シルフィード」は,詩人とシルフィード(大気の妖精)の戯れをショパンの曲に乗せて描く.まるで蝶が春風と戯れているかのように思われる作品だ.胡蝶の夢の荘子もかくやの35分間.

「四つの最後の歌」は,4組のペアが,四季の移り変わりのごとく,青年期から老年期までの人生の断面を描く.そのどの時期にも絡むのが,死.しかし悲痛な叫びは感じられない.むしろ,諦念を思わせる.大きな自然の流れの中で,出会い,寄り添い,還っていく,そんな人生観を感じさせる.

3本目は「ドゥエンデ」.ドゥエンデは,日本の座敷童のような存在だそうだ.振り付けは,アジアの雰囲気を強く漂わせる.そこには,西欧的な,ソフィスティケートな美はない.あるのは,大地の生命力.生きるということの根源.生きている喜び.そういう美しさだ.

米露からのゲスト・ダンサーが3人いたが,他は日本人ダンサーかと思われる.彼らにとって,この「アジア的振り付け」はどう感じられたのだろうか.小品集だったからかも知れないが,いつもより活き活きとしていたようにも思われた.

新国立劇場オペラ劇場 1階 10列 29番

2002年 5月 18日 キトリ:宮内真理子

キトリと来れば,言わずと知れた「ドン・キホーテ」.物語については,吉田都のキトリの回で紹介済みだから,今回は宮内真理子に関する感想だけを記す.

シンデレラに対して,恋する現代(?)娘役の宮内は,堂々たる演技だった.別の娘と話すバジルの気を引こうとするときのキトリは小娘だが,結婚の許しを得てからのキトリは,喜びに溢れ自信に満ちて踊る.結婚式の場面は,素晴らしいの一言に尽きる.気品すら感じられた.

シンデレラとキトリを演じ分ける力が,宮内にはある.