おしゃべりな座席

1998-1999 シーズン

コンサート,バレー,演劇など,様々なパフォーマンスが繰り広げられるステージ.首都圏には,主なものだけでもざっと 100 ステージ.それぞれの会場には,当然のことながら,観客のための座席がステージに向かって配置されています.その数,およそ 10万席.

座席は毎晩のようにステージを眺め,観客の拍手やブーイングの中,毎回入れ替わる観客を健気に支えています.座席は人のいるときは寡黙ですが,夜中になると「くるみ割り人形」のように?

誰もいない会場に忍び込んで,じっと耳を澄ますと,

ほら座席のつぶやきが聞こえてくる...

座席番号は,実際とは異なります.

カザルスホール 1階 M列 15番

1998年 11月 19日 演奏:羽田健太郎

今夜は,「ゴージャス・オータム・ナイト」と題した羽田健太郎のお喋りを交えたピアノ・コンサート.客席を見渡すと,おばさま方と中年から初老にかけての二人連れが目に付く.座席の分際でこう言うのも何だけど,少々くだけ過ぎるきらいがあるんだな,この人たちは.2月のコンサートの時なんか,羽田健太郎のお話中に,携帯電話のベルが鳴り出した.当人は慌てているせいか,なかなか止めることが出来ない.そこで,羽田健太郎曰く,「いくら鳴らしてもデンワ!」

案の定,今夜も,ルルルルルと鳴り出した.しかも演奏中に.演奏を終えてからの羽田健太郎,「秋の夜らしく,曲の終わり頃,コオロギが鳴いて(客席は爆笑)...」

おまけに,幕間にワインを飲んだ直ぐ後ろの客が演奏中に盛大な拍手を二度に亘って響かせた.日本人は集団になると平気で悪さをするし,酔っぱらっても,また同じ.

まぁ,今夜はいろんな「事件」があったけど,ピアノの羽田節は揺るぎなかったねぇ.

オーチャードホール 1階 21列 28番

1998年 11月 20日 演奏:東京フィル,指揮:R.バルシャイ,ピアノ:Y.ブロンフマン

ブロンフマンって,プログラムの写真で見るといい男だけど,結構腹が出ているんだよナ.ピアノ協奏曲(プロコフィエフ/第1番)を弾くと言うことは,客席からは真横から眺めることになるんで,スタイルがイヤでも目に付く.今年で 40 だとか.横から見た格好は,典型的な中年おじさんだね.こういう人の演奏を聴くときは,目を瞑って聞かないとナ.芥川也寸志は,演奏を聞くときは,その姿も見よ,と言っているけどねぇ.

演奏はどうかって? 野暮なこと訊かないでよ.

NHKホール 1階 C7列 28番

1998年 11月 21日 演奏:N響,指揮:W.サヴァリッシュ,チェロ:M.ブルネルロ

ブルネルロは,今年 38歳.音楽を楽しんでいる演奏(シューマン/チェロ協奏曲)は,好感が持てるねェ.十分な才能と音楽を楽しむ心.座席から見た印象では,飾らない性格のようだ.休憩後のシューマンのラインを後ろの席で聴いていたらしい.大体 2年ごとに来日しているそうな.つまり,2年毎に彼のチェロの演奏を楽しめるということ.しかし,動きようのない座席の身としては,NHKホールまで来てくれないことには...

新国立劇場オペラ劇場 1階 9列 24番

1998年 12月 9日 マーシャ:酒井はな,くるみ割り人形/王子:小嶋直也

今夜は,12月定番のバレー「くるみ割り人形」(ワイノーネン版).くるみ割り人形と言えば,花のワルツ.花のワルツと言えば,川端康成「舞姫」,皇居辺のユリノキ並木...と,連想は止め処なく広がるけれど,今夜は,ともかくチャイコフスキー.

演目の関係上,客席には子供も目立つ.少々騒がしいが,今夜は夢のお話,大目に見よう.

さて,ステージは,と? ほう,ここのバレー団も上手になってきたナ.10月のジゼルの時もそうだったが,群舞にまとまりが出てきて,安心して見ていられる.去年は,ハラハラドキドキ,体を動かすのがやっとで,リズムなんぞ刻んでいられない.従って,お互いの動きがバラバラ.実に,スリル満点だった.だが,今年は良くなった.

マーシャ役の酒井はな.いいなぁ.踊りに無理がなく,まるで,踊りたいから踊る,これが私の歩き方,という風情.動きがよく安定していて,不安がない.未だ溢れ出るよう優美さには欠けるが,先がとても楽しみなダンサーだ.王子を始め,相手役の男性ダンサーとの息もピッタリ,..と言うには,何ヶ所かトチリと思われる鈍い動きがあったけど,まあ御愛敬ですね.

王子役の小嶋直也.やたらに飛び跳ねるようなことをせず,押さえるところ高く飛ぶところなど,要所を押さえている.この点は,第3幕の各地の踊りにも言える.きっと,そういう演出をしたのだろうな.

ともあれ,十分に楽しめるステージだった.

NHKホール 1階 C7列 28番

1998年 12月 19日 演奏:N響,指揮:C.デュトワ,語り:林隆三

今日は,マチネで,N響には珍しく,「ペール・ギュント」を語り入りでの演奏.しかも,挿入歌は字幕付きである.スペイン,フランス,ノルウェーの作曲家の作品を並べた今日のプログラムは,やはりデュトワですねぇ.女声は,釜洞祐子,平松英子,加納悦子,合唱は,二期会合唱団.おまけに,フルート 2本の中に,モントリオール響の T.ハッチンスの顔が見える.彼は,先週フルート協奏曲に客演したばかり.曲目と言い,顔ぶれと言い,今日は何とも愉しいステージになりそうだ.

林隆三の語りは,なかなかに劇的だ.昨年にも,デュトワは「夏の夜の夢」を語りを入れて演奏したそうだが,この構成は,「語り入り」と言うより,「語り協奏曲(?)」と呼んだ方が適切かも知れない.演奏の付属品ではなく,オーケストラと協・競奏している.

釜洞祐子の歌う「ソルヴェイグの歌」は,切々と胸に迫る.(えっ.椅子に背はあっても胸は無かろう,だって? 薄っぺらな胸で悪うございました!)「生きているなら,待っています.神のもとなら,祝福されていますように,いずれそこで会いましょう,」なんて,そうそう言える科白じゃないですよねぇ.(いえ,ドイツ語が分かる訳ではありません.字幕によれば,です.)ビオラのソロも,三女声とペールとの掛合い風の歌も,愉しい演奏でしたね.

「青い鳥」がテーマのお話は沢山ありますが,これもその一つ.こういう説教なら,歓迎ですね.

ただ,一寸残念だったのは,演奏後語りに移るときに,咳払いがうるさかったこと.どうも,演奏が途切れたときには,咳払いをするのがルールだと思っているようですね.演奏中に咳をしなかったことを誇示しているみたい.拍手のフライングと一緒で,迷惑ですねぇ.一寸計算してみましょうか.3,600人の客が 2時間(7,200秒)の間に 1回だけ咳/咳払いをしたとすると,2秒に 1回づつ「ゴホン/エヘン」を聞くことになるんですね.これじゃ,コンサートになりませんね〜.ひどいですね〜.こわいですね〜.それでは,さよなら,さよなら,さよなら.

オーチャードホール 1階 31列 14番

1999年 1月 25日 演出:P.ブルック,演目:W.A.モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」

久々のピーター・ブルックの舞台.今年 74歳になる希代の演出家の舞台は,例によって,実に簡素だ.ステージ中央手前に,面積にしてステージ全体の半分程の四角い台を置いている.そこが演ずる舞台というわけだ.もっとも,その両脇も旨く使ってはいたが.台は,少しオーケストラ・ピットに迫り出すように置かれているので,客席から見ると,宙に浮いたような印象を受ける.ドン・ファン伝説に連なる,女たらしのお話だけに,これがホンとの「浮き世」なのか知らん.

台の上には,左手前,左手奥,右手奥に,それぞれ,赤緑青の柱が立っている.柱は,移動可能である.高さは,人の二倍位だろうか.柱と言っても,両掌で持てる位の太さである.それと,踏み台の様なベンチが何脚か.これも,三色に色分けされている.他には,シーツの様な白布と種々の色の布,棒きれなどが使われる.ブルックの舞台では,小道具は変幻自在である.落語の扇子のようなものだ.煙管になったり,天秤棒になったり,というように.この舞台でも,赤と青の柱は,部屋を区切る柱であったり,力の象徴であったり,浮かれ立つ気分を表したり.テンペストの時は,何と,一本の棒が船に変身したものだ.広げた白布は宴会場だし,それを舞台の男女が体に巻き付ければ,際どい場面.短い棒が剣になったり,銃になったりと大活躍する.

放蕩者のジョヴァンニは,アンナの部屋に忍び込んだ迄はよいものの,アンナに騒がれ,逃げ出す.しかし,アンナの父親(騎士長)に戦いを挑まれ,殺してしまう.それを露とも思わぬジョヴァンニは,相変わらず放蕩三昧を続ける.一方,殺された騎士長の墓には,記念の大理石の彫像が建てられている.その彫像が動き出し,第二幕で,ジョヴァンニに改悛を迫る.しかし,改悛の素振りも見せようとしないジョヴァンニは,遂に地獄に引きずり込まれ消える.

と,お話は,一見,単純な勧善懲悪物語である.

ところで,第一幕にあった緑の柱は,第二幕では登場しない.代わりに,大理石の彫像が動く.この緑の柱は,他の二本よりも背が高く,第一幕の間,台の左奥に置かれたまま少しも動かされることがなく,触れられることすらない.ひょっとすると,全てを睥睨する神を表すのかも知れない.赤と青の柱は,善と悪,男と女のような二項対立を表す.赤緑青は光の三原色,全てを合わせると白色という全きものとなる.善だけでもない.悪だけでもない.人間とは,この世とは,それらを併せ持つもの,ということか.

ジョヴァンニが地獄に堕ちた後,六人の被害者たちが合唱する.その様を,地獄から立ち現れた騎士長とジョヴァンニが,慈しむように眺めている.そのシーンで,舞台は終わる.

ピーター・ブルックは,パリでの仕事が手放せず,意に反して来日できなかったそうだ.歳が歳だけに,あと何回ブルックの舞台を見られることか.是非もう一度,出演者と手をつなぎ客席に向かって挨拶する姿を見たいものだ.

新国立劇場中劇場 1階 7列 38番

1999年 2月 3日 演目:木下順二「子午線の祀り」

演出は,観世栄夫,内山鶉,酒井誠,高瀬精一郎の 4人.知盛(とももり)に野村萬斎,舞姫の影身(かげみ)に三田和代,義経(よしつね)に市川右近.

宇野重吉総合演出第一次公演(1979年)以来,宇野演出を継承していると言うだけあって,舞台は簡素.主な装置は,5〜6段の雛壇を数台使うだけ.他には,舞台奥に満天の星空あるいは満月を投影し,時に幕などを垂らすのみである.照明もまた簡潔であるが,十分な効果を出している.

全幕の始めと終わり,それから場面転換時に挿入される詩の朗読は,最後を除き,観世栄夫が担った.1992年以来 7年振りの公演,しかも初日という緊張のためか,この舞台では全体に台詞のトチリが多かったが,中でも,観世の朗読は訥々としており,詩を忘れたり,少し戻って繰り返したりと,散々だった.途中からは朗読の場所を舞台中央から左手に移し,袖からプロンプトしていた.二日目以降は一体どうしたことやら.

この戯曲には,歌舞伎,能狂言,新劇などの演者を混在させたり,群読という形式など,新しい試みがある.この群読は迫力満点であった.ただ,台詞が古い言葉なので,もう少し声が揃っていると聞き取り易かっただろう.

義経は,完全に歌舞伎調であり,周囲の演技から浮いている.万一右近が知盛役であったなら,舞台は破綻していただろう.しかし,この舞台は違う.己の有様に迷う知盛に対して,ただ目の前の戦いに勝つことだけに邁進する義経役には,右近の歌舞伎調は狙い通りのことだっただろう.と考えると,前回公演までの野村万作の義経を見てみたい気がしてくる.

知盛は,初めの内,狂言の姿勢である前屈みが出てしまい,全軍の指揮官たる威厳を損なうことがあった.摺り足や狂言の節回しも気になる個所がある.が,全体に十分満足のいく出来映えである.

最後の知盛入水の場面.客席に背を向けて雛壇最上段に立ち両手を上に広げる知盛の,その姿を載せたまま雛壇は照明を落とした舞台奥にスライドし,知盛は視界から消える.海中に沈んでいく知盛をイメージした演出だろう.見事である.

(第一幕)

一の谷の合戦で敗れた知盛は,息子を見殺しにしてまで,四国に落ち延びる.その途上,船に逃れた知盛は,乗ってきた愛馬を捨てるが,その際殺すことなく敵地に逃してやる.落ちてきた屋島で,知盛は影身との対話の中で自問する.何故,息子を死なせてまで命を惜しんだか.何故,敵に辱められるのを承知で,愛馬を逃がしたか.それらが成る可くして生じた事のように思われるのは何故なのか.このとき,影身は知盛の傍にいたいと告白する.

浜辺で,土地の豪族民部(みんぶ)と知盛は,北斗を見て語る.北斗は時を刻むだけと言う民部に対し,知盛は「天と地のあいだにはな,民部よ,われら人間の頭では計り切れぬ多くのことがあるらしいぞ」と答える.

知盛は影身を京へ上らせ源平の和平を図ろうとするが,何はともあれ三種の神器が手中にあれば日本国は我らのものと考える民部は影身を殺してしまう.

(第二幕)

平家を追う義経は,屋島を襲い,再び平家を海に追い落とす.更には,民部の嫡男を味方に引き入れてしまう.

(第三幕 第一場)

義経軍は,周防・大島の津に,四百艘余りを集め,海戦の訓練をしながら,壇の浦の潮の流れを知る五郎正利(まさとし)の到着を待つ.そして,正利が到着した日の,その翌日は決戦の日.

(第三幕 第二場)

迎える平家も準備に怠りなく,八百艘余りを揃えている.奇襲を受けて敗走した前二回の戦とは異なり,平家側が,知盛自身が戦いの場に選んだ壇の浦.決戦の日,午前中東に流れる潮は,月が子午線を過ぎるとともに,一旦流れを止め,次に西に向かう奔流となる.

戦いを翌日に控えて,影身の亡霊と知盛との対話.

知盛

「あの星から眺めれば,いつか必ずそうなるはずの運命の中へ,ひと足ひと足進み入って行くわれら人間の姿が,豆粒ほどの人形の動きのようにも見て取れるのかも知れぬ.―星々にもし情(こころ)あらば,それを哀れと思うか,健気と思うか―」

影身

「星々に情(こころ)なぞございますまい.」

「非情なものに,新中納言さま,どうぞしかと眼をお据え下さいませ.非情にめぐって行く天ゆえにこそわたくしどもたまゆらの人間たち,きらめく星を見つめて思いを深めることも,みずから慰め,力づけ,生きる命の重さを知ることもできるのではございませんか.」

「人の世の大きな動きもまた,非情なものでございます.非情の相を,新中納言さま,どうぞ,どうぞ,しかと,しかと眼をこらして見定めて下さいませ.」

知盛

「―影身よ―そうか―非情の相を―しかと眼をこらして―見定めよとか.―われらたまゆらの人間が,永遠なるものと思いを交わしてまぐあいを遂げ得る,それが唯一の時なのだな,影身よ.」

(第四幕)

潮が東に向かうのは,およそ二時間の間.その二時間に全てを賭ける知盛.それに対して,決戦に敗れても三種の神器と帝を奉じて西海に逃れるよう迫る民部.

そして,決戦の日.

東流に乗って攻め立てる知盛の軍勢に何とか耐えていた義経は,海戦の掟を破り漕ぎ手を狙い始める.と同時に潮の流れが変わる.これを見た民部は,嫡男に思いを致し,義経側に寝返る.

西流に乗って義経軍が攻め寄せる中,帝,二位の尼,女房達は,重石を懐に,次々と入水.

そして,知盛も,「見るべき程の事は見つ.自害せん」と,入水する.

時流に乗る義経は,その時流の存在にさえ気付いていない.民部は,それを知りながら,あくまでも抗い,西海にまで逃げようとする.しかし,それに抗い切れなくなったとき自らを裏切ってしまう.対する知盛は,非情なる天の動き,人の世の大きな流れに,それと知らずに抗った挙げ句,一の谷の合戦に破れて後その流れを知り,受忍するでもなく抗うでもなく,それと目合(まぐあ)って果てる.

第一幕での知盛の台詞「天と地の…」は,亡霊の場面でハムレットが友人ホレーショに向かって言う台詞 (There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.) である.ハムレットは,自身の有様も定まらぬままに,運命に翻弄され,抗い,レアティーズに殺される.ハムレットの最後の台詞は,「あとは沈黙 (The rest is silence.)」である.対して,知盛は「見るべき程の事は見つ」と言い放ち,自害する.しかも,自刃ではなく,天の動き,人の世の大きな動きを象徴する壇の浦の西流の中に自ら没し,それと目合いを遂げるのである.

ところで,第一幕での影身の告白は,一体何なのか.影身は,知盛ではなく弟の思い人という設定であるが,知盛自身の分身の様に見える.また,その様に指摘されることがある.ならば,第一幕の告白は,何だろうか.多分,それは非情なる天の動きを知盛がはっきりと認めた瞬間なのだろう.

「子午線の祀り」の台詞は,岩波文庫「子午線の祀り・沖縄他」からの引用.

NHKホール 1階 C7列 28番

1999年 2月 27日 演奏:N響,指揮:E.スヴェトラーノフ,ヴァイオリン:加藤知子

曲は,指揮者自身の「詩曲〜ダヴィート・オイストラフの想い出に (1975).」 伝統的な構成・内容の曲,ただし保守的というのは当たらないだろう.

加藤の高音は素晴らしく艶やかだ.N響との共演は初めてではないそうだが,この絹のようにしっとりとした音は,何故か記憶にない.別のホールだったのだろうか.技術的にとりわけ高度な曲とは思えないけれど,演奏技術はしっかりしているようだ.

「だって,私がヴァイオリニストになりたいと思ったのは,子供の時にオイストラフの演奏をレコードで聴いたからなんです.その人に捧げられた音楽を,作曲したご本人の指揮で弾けるなんて嬉しいですよね」(Philharmony, 98/99 Vol.2)とインタビューに答えている,その通りの演奏である.デビューして 16年.先が楽しみな,「音楽を知る」演奏家である.

セゾン劇場 12列 12番

1999年 3月 3日 演目:ニール・サイモン「裸足で散歩」

6日前に結婚したばかりの二人,ポールとコリーを内野聖陽(まさあき)と石田ひかり,コリーの母親を草笛光子,階上の住人ヴェラスコを宝田明が演じた.草笛,宝田の二人は,さすがにベテランの演技だった.内野も好演.石田は,演技なのか結果なのかは分からないが,役柄にピッタリの演技ではあった.

二人の新居は,ニューヨークはマンハッタン島にあるエレベータもない安アパートの,しかも最上階の部屋(ヴェラスコの部屋は,更に上の,屋根裏である).ここを舞台に,話は進行する.生来楽天的で,初めて母親の元を離れ,新生活が只只嬉しくて仕方がないコリー.弁護士を職業とする慎重派のポール.母親は良識的で,ヴェラスコはと言えば,人生を謳歌する東欧人である.

母親がニュージャージーで一人暮らしになるのを心配したコリーは,母親とヴェラスコとの見合いを企む.首尾良く見合いとなるが,盛り上がったのはコリーとヴェラスコだけ.肝心の母親は疲れ切ってしまう.ポールも同じ.ヴェラスコは,帰ると言い出した母親をニュージャージーに送って行く.

二人切りになると,見合いの顛末をきっかけに,コリーとポールは喧嘩を始める.コリーは離婚を言い出し,喧嘩はエスカレート.コリーが言ったにも関わらず裸足でセントラルパークを歩かなかった件で言い合ったり,ポール「あの(新婚の) 6日間は何だったんだ?」コリー「6日じゃ一週間にならないわ,」ポールもコリーも「?」などといった会話が楽しい(?)喧嘩のシーン.

翌日母親が家に戻っていないことを知らされてコリーは動転.更にヴェラスコの部屋で母親を発見して二度びっくり,見合いさせたことを後悔する.が,事情を聞いてひとまず安心.すると,気に掛かるのはポールのこと.母親には,「あなたが少しだけ退けばうまくいくはず,」と諭される.

一方,部屋を追い出されたポールは,風邪を引いた上に,酔払って,やけくそで真冬のセントラルパークを裸足で歩いて,部屋に戻る.「部屋代は僕が払っているんだ.君が出て行け!」ドタバタの挙げ句に,互いの愛情を確認して幕.

「6日じゃ一週間にならないわ,」は名文句である.神でさえ,世界を作るには一週間必要だったのである.二人が新しい生活を形作るには,6日では足りず,あと一日必要なのだ.その一日とは? 勿論,「休日(心のゆとり)」である.ニューヨークの冬は厳しい.そのセントラルパークを裸足で歩くのは,常軌を逸している.慎重派のポールは,その常識を一歩譲って,本当に歩いてみた.楽天家のコリーは,母親の一件でポールの意見に耳を傾けることを覚えた.二人は天窓の上で,大喧嘩の「七日目」を終わって大団円.

え? 何故,天窓の上かって? ハイ,劇を見て下さい.

なお,原題は “Barefoot in the Park”である.ニール・サイモン(Neil Simon)の 1963年のブロードウェイ・ミュージカル作品.1967年に,R.レッドフォード,J.フォンダの主演で映画化された.

新国立劇場オペラ劇場 1階 7列 3番

1999年 3月 18日 キトリ:吉田都,バジル:アンドレイ・ウヴァーロフ

幕が開くと舞台は,薄暗い城の中.おかしなおじさんが,何やら本を読み耽っている.そこへ,農民が一人,村娘に追われて逃げ込んでくる.その名は,サンチョ・パンサ.と来れば,ご存じ「ドン・キホーテ」である.騎士道物語を読み過ぎたおじさんは,すっかり騎士に成りきって,サンチョ・パンサをお供に旅に出る.舞台は一転,賑やかなバルセロナの町.キトリとバジルは恋仲だが,キトリの親父さんが許してくれない.娘を,貴族に嫁がせようと考えているのだ.そこに,ドン・キホーテ登場.キトリを憧れのドゥルシネア姫と思い込む.

何とか結婚したいキトリとバジルは一計を案じる.バジルは,キトリの親父さんを前に,キトリと結婚させてくれないのならと自殺を演じる.それが功を奏し,またドン・キホーテの口添えもあって,結婚の許可をもらうことに成功する.

一方,キトリとバジルの結婚許可に一役果たしたドン・キホーテは,森に彷徨い,ジプシーたちに出会う.そして,かの有名な風車へ突撃する場面.ドン・キホーテは,風車に巻込まれ,傷付く.

傷つき朦朧とする中で,ドン・キホーテは,ドゥルシネア姫との出会いを果たし,サンチョ・パンサが助けに呼んできた公爵と共に館に向かう.

公爵の館でキトリとバジルの結婚式に立ち会い,これを見届けたドン・キホーテは,再び遍歴の旅にと出る.

吉田都(みやこ)は,さすがに英国ロイヤルバレエで鍛えられているだけあって,抜群の安定感がある.舞台が私のお家,といった風情.動く時は動き,止まる時はピタリと静止する.バジル役のウヴァーロフ(ボリショイ劇場バレエ)も,スピードとジャンプの大きいことと言ったら.素晴らしい動きだ.二人とも互いの技術を信頼して動いているから,自然と息も合う.リズム感も良く,途中に音楽が休止する個所が何回かあるが,不安を感じさせない.手慣れたフェドートフの指揮であることを差し引いても,感嘆に値する.

舞踊においては,準主役級のダンサーたちも,十分に成長してきた.少なくとも,技術面では,練習の成果が確実に現れている.次は,表現力を磨くことを期待しよう.

それにつけても,吉田・ウヴァーロフの時だけ,拍手が大き過ぎる.その時だけ,会場割れんばかりの拍手である.おまけに,下手なブラボーまで飛び出す.他のダンサーの成果も讃えるべきだろう.それだけの舞踊を見せているのだから.日本人は,いまだにブランド指向が抜けないらしい.

NHKホール 1階 C7列 28番

1999年 6月 26日 バイオリン:チョーリャン・リン

久々のチャイコフスキー バイオリン協奏曲.オーケストラは,N響と大勝秀也(おおかつ しゅうや).「海外にポジションを持つ日本人若手指揮者シリーズ」の一つである.リンは,1960年台湾生まれ.7歳で最初の演奏会を開いたのだそうな.1994年 6月の朝比奈隆との演奏が記憶に残る,とプログラムにはある.さて,その 5年後の演奏は...

出だしから,リンのバイオリンには熱が籠もる.第一楽章主題の装飾音が,装飾であることを超越して実体を獲得し,主題の旋律と交錯する.数カ所ある長めの休止が熱を冷ますどころか,奔流となった緊張感を押しとどめ,緊迫の度を更に高める.再現部の装飾を押さえた主題の美しさ.第一楽章が終わると,思わず拍手が湧き起こった.

ウィーン・フィルのコンサートでは,フルトベングラー以来,悲愴第三楽章の後を例外として,楽章間の拍手はしなくなったという.それに倣ってか,N響の演奏会でも楽章間の拍手はしない.しかし,この日,例外が一つ増えた.

圧倒的な説得力である.曲は「バイオリン協奏曲」であることを止め,「オーケストラによる伴奏付きバイオリン・ソナタ」であった.演奏を終えたときのリンの笑顔がまた良い.