おしゃべりな座席

1999-2000 シーズン

コンサート,バレー,演劇など,様々なパフォーマンスが繰り広げられるステージ.首都圏には,主なものだけでもざっと 100 ステージ.それぞれの会場には,当然のことながら,観客のための座席がステージに向かって配置されています.その数,およそ 10万席.

座席は毎晩のようにステージを眺め,観客の拍手やブーイングの中,毎回入れ替わる観客を健気に支えています.座席は人のいるときは寡黙ですが,夜中になると「くるみ割り人形」のように?

誰もいない会場に忍び込んで,じっと耳を澄ますと,

ほら座席のつぶやきが聞こえてくる...

座席番号は,実際とは異なります.

オーチャードホール 1階 25列 15番

1999年 10月 15日 演奏:東京フィル,指揮:C.ホグウッド

曲目は,ハイドン 交響曲第101番「時計」,プロコフィエフ 交響曲第1番「古典交響曲」他.

ホグウッドは,古楽(歴史的な知識にもとづく演奏)の第一人者で,1973年にアカデミー・オブ・エンシェント室内管弦楽団を創設しているそうだ.自身も,チェンバロ,クラヴィコードの奏者とか(以上,プログラムより).その為か,今夜の演奏は,実に質実なものだった.一言で言えば,「身体性のある演奏」とでも言おうか.近年の観念的な演奏とは正反対にあるもののように聞こえて来る.

音楽は,心臓の鼓動に始まるという.音楽は,身体に発し脳内の宇宙を駆け巡る様々な想念が音に形を得て噴出したもの.そう思うと,“sophisticate”な演奏は,何か虚しく聞こえてくる.これに対して,ホグウッドの指揮は,身体を感じさせるものだ.東京フィルも,ピットに入って演奏することが多いオーケストラで,「身体」には縁が深いのかも知れぬ.

漱石の文に,「冷い頭で説かれた深い思想よりも,熱い心臓から語られる平凡な言説を尊敬する」とあるそうだが,これを実感した演奏であった.

孫引きなので,出典が明らかでない.中野好夫に「若い人々のために」と題するエッセイがあるもののようで,その中で漱石を引用しているらしい.本文での引用は,木下順二の文からなので,「曾孫引き」か.

その後,このエッセイが,「悪人礼賛 中野好夫エッセイ集」(ちくま文庫,1990年)に収録されているのを発見した.「敗戦後,責任主体のわからない数多くの言説にはもうあきあきした,」と始まっている.どこに発表したものかは記載がないが,発表年は 1946年 10月とある.(この項,1999年 10月 31日)

新国立劇場オペラ劇場 1階 15列 16番

1999年 11月 8日 マノン・レスコー:G.カゾッラ,デ・グリュー:K.オルセン

今夜は,アベ・プレヴォー原作,プッチーニ作曲のマノン・レスコー.プレヴォーも,物語同様の波乱に満ちた生涯だったようだ.「マノン・レスコー」,つまり,「ある貴人の物語」第7巻には自伝的な要素があると,本公演プログラムにある.

第一幕.物語は,とある宿屋にマノンが到着する所から始まる.マノンは,兄に連れられて,僧院に向かう途中である.その美貌のマノンを見初めたのが,学生のデ・グリューと大蔵大臣のジェロント.マノンを手に入れようと目論むジェロントの機制を制して,デ・グリューは,マノンと共にパリに逃げる.

第二幕.パリ.生来贅沢好きであるマノンは,デ・グリューに好意を持っているものの,それとこれとは別の話.デ・グリューが手元不如意になると,早速ジェロントに乗り換えてしまう.喉元過ぎれば何とやら.豪奢な暮らしが続くと,今度はデ・グリューが恋しくなり,兄に連れられてやって来たデ・グリューと出奔を企てる.が,マノンが持ち逃げする宝石を集めるのに手間取っている内に,発覚.マノンは,囚われの身となる.

第三幕.波止場.新大陸に送られる売春婦たちの中にマノンもいる.デ・グリューは愛するマノンを助けようと画策するが,失敗.マノンらを護送する士官に同船を申し込み,許される.

第四幕.新大陸.マノンとデ・グリューは,町を逃れ,原野を放浪している.疲れ果てたマノンに寄り添うデ・グリュー.デ・グリューはマノンを哀れみ歌う.デ・グリューが水を探しに行っている間,マノンは,自分の美貌が不幸を招いたと嘆き,戻ってきたデ・グリューに抱かれて息絶える.

このオペラだけを見る限り,第三幕と第四幕の展開は,唐突で納得がいかない.如何に囚人の身で当時未開の荒野であった新大陸に送られるとしても,後半のマノンは余りにもしおらしい.前半に垣間見せた,ただただ楽しい暮らしを求める「純真無垢」な娘マノンが様変わりした理由が語られていないのである.しかも第四幕で歌われるマノンのアリアは,自分の美貌が不幸の原因であると歌い,愛と金を天秤に掛けた己の愚かしさに気付く様子は微塵もない.一方,マノンを思って歌うデ・グリューの歌は,切々と胸に迫る.やはり,男の方がロマンチックに出来ているのかな.

この,ドラマとしての明白な欠陥は,原作に当たれば解消する.どうやら,プッチーニたちは,当時大反響を呼んだ原作の筋立てを,観客が知っていることを前提にしていたもののようだ.

原作では,マノンとデ・グリューは,パリとパリ近郊を舞台に放蕩三昧を繰り返していた.一度刑務所にも入っているが,デ・グリューが脱走させている.それに比して,女囚となってからは,どん底であった.美貌の効果もなく,腰には鎖が巻かれているのである.己に群がってくる男たちから当然のごとく金品を送られていた頃とは,天と地程の差がある.護送される道中,自分を見下す巡査らに囲まれる中,変わることなく自分に尽くすデ・グリューの存在は,干天の慈雨であったろう.やっぱり,男の方がロマンチックに出来ているんだな.

デ・グリューが同船出来たのは,士官に同情されたからではなく,原作では,新大陸への出稼ぎ者を募集していたからと書かれている.

新大陸に着いてから,二人は,つましくも仲良く暮らし始める.が,しかし,天の報いか,司政官の甥がマノンを見初めてしまう.しかも,同棲を止め神に愛を誓うべく司政官に婚礼を願い出たために,二人の非婚が発覚する.囚人であるマノンの処遇は司政官が握っており,司政官は甥思いなのである.マノンと正式に結婚していないデ・グリューには,彼とマノンの婚礼を阻止する術がない.やむなく彼と決闘し,倒してしまう.そして,二人は,町を脱出するのである.だからこそ,第四幕のマノンのアリアが活きてくる.それまでとは違い,この最後の困難だけは,マノンの責任ではなく,その美貌とそれに目を奪われた愚かな男のせいなのだから.

何はともあれ,カゾッラの声量は豊かである.カゾッラとオルセンの歌うプッチーニを聴くだけでも価値はある.しかし,このオペラは,原作を読んでからの方が安心して聴けるのは確かである.

原作の邦訳は,青柳瑞穂訳「マノン・レスコー」,新潮文庫,1956.

一部追補.(12月21日)

新国立劇場オペラ劇場 1階 4列 22番

1999年 12月 7日 シンデレラ:宮内真理子,義理の姉たち:マシモ・アクリ,篠原聖一

役名から分かるように,演目はシンデレラ.誰でも知っている,あのシンデレラである.この公演では,酒井はな,宮内真理子,吉田都の三人がシンデレラを踊っていて,この日は宮内であった.王子は,イルギス・ガリムーリン.道化は,左右木健一(そうき けんいち).

第一幕.シンデレラの家.姉たちに邪険にされるシンデレラ.老女がやって来て物乞いをするが,姉たちは嫌がり,シンデレラはパンを手渡す.父と二人の姉は舞踏会へ出掛けてしまう.留守番をするシンデレラに,老女がカボチャの馬車をプレゼントする.

第二幕.舞踏会.シンデレラは王子との踊りに夢中.しかし,12時が近づく.シンデレラは慌てて家に帰るが,ガラスの靴を片方落としてしまう.

第三幕.再びシンデレラの家.家に帰ったシンデレラは暖炉の傍で眠ってしまう.目を覚ましたシンデレラは,舞踏会が夢だったかと疑うが,ガラスの靴の片方を見て夢ではなかったことを知る.舞踏会を思い出しながら,箒を相手に踊るシンデレラ.姉たちが戻り,舞踏会の自慢話をする.それを楽しそうに聞くシンデレラ.そこに,王子がシンデレラを捜しにやって来る.姉たちはガラスの靴を履こうとするが入らない.思わずシンデレラが手伝おうとする.その時,エプロンからガラスの靴が落ちる.王子はそれを拾い上げ,このボロ服の少女がシンデレラであることを見出す.分かちがたい二人.二人を見て姉たちは跪くが,シンデレラは姉たちを立ち上がらせ,優しく言葉を掛ける.めでたし,めでたし.

宮内のシンデレラは,実に愛くるしい.第一幕ではボロをまとっているが,このボロ服が,また良く似合っている(おかしな誉め方!).プログラムには「女性らしさに満ちた踊り」とあるが,所作がとても優しい.若干目に付くのは,両手の指の開きが少し大き過ぎるきらいがある程度だろうか.技術的にも不安を感じさせないが,酒井ほどの安定感はない.しかし,スピンの軸がぶれるのは,何とか直らないものだろうか.とても惜しい.他に欠点といえば,足が不利な形で,リフトしたときの向きによっては,少々曲がって見えてしまうことだろうか.それにしても,王子に寄り添うシンデレラの,何と優しく,何と愛くるしいことか.

このアシュトン振り付け版では,シンデレラの二人の姉が愉快である.演じたアクリと篠原も楽しんでいたに違いない.この役は,当初から,男性ダンサーが踊ることになっていたようだ.配役の英語名も,Ugly Sisters(醜い姉たち)である.男性演ずる醜い姉二人の掛け合い漫才.パントマイム風の動きも組み入れられて,その意地の悪さが実に滑稽である.アシュトンは英国の人.さすがに演劇の国である.

道化も,生き生きと踊っていた.シェイクスピア劇の道化とは異なり,陰を伴わないネアカの道化役ではあるが,「醜い姉たち」と同様に,左右木もノッていたのではなかろうか.「日本人にも道化ができるんだ!」と,今夜は実感した.

プロコフィエフの音楽にアシュトンの振り付け.音楽と演劇性とダンシングと.素晴らしい共同作業である.

第一幕.物乞いの老女にパンを差し出すシンデレラ.跪くシンデレラの顎をそっと持ち上げ,その顔に見入る老女.この老女は,実は仙女である.そして,第三幕.シンデレラを捜しに,王子がやって来る.姉たちの大足とガラスの靴を巡る騒ぎの中で,シンデレラがもう一方のガラスの靴を落としてしまう.それを王子に拾われ,ボロ服姿で跪くシンデレラ.そのシンデレラの顎をそっと持ち上げ,王子はシンデレラに見入る.老女と王子は,同じ場所,同じ所作で,シンデレラに見入る.二人とも,シンデレラの心根の優しさに見入っているようである.かくして,円環は閉じ,大団円.

新国立劇場オペラ劇場 1階 10列 22番

1999年 12月 21日 蝶々夫人:渡辺葉子,ピンカートン:A.クピード

「蝶々夫人」は,同じプッチーニの「マノン・レスコー」とは異なり,演劇的な構成がしっかりしている.破綻と言えるほどの欠陥はないといって良い.音楽? それは言うまでもないでしょう.渡辺は,国内では知る人ぞ知る,力量の持ち主とか.クピードとは,スカラ座研究生時代の同級だそうだ.

第一幕は,長崎の港を見下ろすピンカートンの借家.ピンカートンは,「現地妻」蝶々さんを迎えようとしている.後進国日本を見下し,蝶々さんを一時の慰み物と考えるピンカートンに対し,領事のシャープレスは蝶々さんの方は真剣なのだと忠告するが,聞く耳を持たない.蝶々さんが,大勢の親戚と共に登場.今は零落しているが士族の生まれであると,ピンカートンに身の上を語る.この場面,この婚姻は,周旋屋を介してはいるものの,単なる金のための身売り話とは違うこと,日本における親類関係の根深さを説明している.

蝶々さんはピンカートンに改宗したことを,そっと打ち明ける.しかし,それでもピンカートンは,蝶々さんの決意に気付かない.結婚式が終わった頃,伯父のボンゾ(「坊主」が訛ったものだそうだ)が乱入し,蝶々さんの改宗を責め立てる.事の次第を知って,親類一同は,蝶々さんを見限って帰ってしまう.ピンカートンは,蝶々さんを慰めるが,蝶々さんの気持ちを汲むことはできない.この後,蝶々さんとピンカートンの「愛の二重唱」が朗々と歌われる.

第二幕第一場.蝶々さんの家.ピンカートンと式を挙げてから,三年の月日が経っている.ピンカートンは「駒鳥が巣を作る頃に帰って来る」と言い置いて去ったまま,手紙の一本も寄越さない.周囲の者は,皆,帰って来る訳がないと言うが,蝶々さんはピンカートンを信じている.この家の家賃だって領事館経由できちんと支払われているのだから.ここで歌うのが,かの有名な「ある晴れた日に」である.胸には十字架が掛かっている.帰宅を願ってお祈りする女中のスズキに,日本の神ではなく,アメリカの神でなければだめよ.この信念の強さ.それもその筈,金髪青い目の男の子がいたのだ.

シャープレスが,ピンカートンからの手紙を持ってやって来る.それを知って大喜びの蝶々さん.しかし,ピンカートンからの手紙には,君はもう私のことを忘れているだろうが,とある.察するに,ピンカートンはアメリカで妻帯し,久し振りに異国日本に寄港することから,蝶々さんのことを懐かしく思い出したものと思われる.おそらく,蝶々さんの家の家賃を払っていたのは,ピンカートンではなく,領事のシャープレスだろう.同じ頃,蝶々さんに結婚を申し込んでいるヤマドリがやって来る.素っ気なく追い返す蝶々さん.シャープレスは,それを見て,ピンカートンが戻って来なかったらどうするかと,蝶々さんに尋ねる.芸者に戻るか,死ぬか.シャープレスは,ヤマドリの元に行った方が良いと意見するが,この子がいるのだから戻って来ないはずはないと,訴える.

皆が帰った後,来航を知らせる大砲が響く.望遠鏡で覗くと,それはピンカートンの船であった.ピンカートンが帰って来ると喜ぶ蝶々さん.早速,「花の二重唱」を歌いながら部屋中を花で飾り,晴れ着に着替える.三年前に着た婚礼衣装である.蝶々さんとスズキ,そして男の子の三人は,障子の陰から外を窺い,ピンカートンの帰りを待つ.舞台は次第に暗くなり,三人の姿は障子を背景にシルエットとなる.一旦幕が閉じ第二場へ.

次第に明るくなる舞台は,夜明けを告げる.男の子はスズキの傍で眠っている.しかし,蝶々さんは,昨夜と同じく,両手を広げて障子を押さえ,障子の隙から外を窺っている.一晩中,ピンカートンの帰りを待っていたのだ.両手を広げた,そのシルエットは,さながら磔刑のイエスである.この時のバックコーラスの間奏曲は,心に響く.実に効果的だ.

第二場.同じく,蝶々さんの家.スズキは一睡もしていない蝶々さんを寝間に遣る.そこへ,奥さんを連れたピンカートンとシャープレスがやって来る.ピンカートンが結婚したこと,子供を引き取りたい旨を,蝶々さんに伝えて欲しいと,スズキに頼む.事情を聞かされたピンカートンは蝶々さんの真情に気付き,後悔に苛まれて逃げ出してしまう.

蝶々さんが目を覚まして登場する.庭に佇む女性を見,子供を引き取りたいという申し出を聞き,絶望する蝶々さん.後で,子供を引き渡すからと,シャープレスらを一旦引き取らせる.帯の間から取り出した十字架を投げ捨てようとする蝶々さん.が,しかし,思い留まって,十字架を再び帯に挟む.この瞬間,蝶々さんは「復讐の鬼」から「慈母のごとき仏」に転移したのだろう.子供を見ながら歌うアリアは,「かわいい坊や」である.別れを惜しんだ後,子供を遊びに遣らせ,蝶々さんは自害する.この時の背景音楽に使われた大太鼓も,実に効果的であった.蝶々さんが自害した瞬間,観音様の絵が背景に浮かんだそうだ.もしそうなら,蝶々さんがピンカートンを恨まず,子供の将来を託した真情を表したかったのだろう.そう言えば,舞台の背景となっている長崎の港の絵に,格子が掛かっていたが,第一幕には無かったように思う.もしそうなら,これも暗示的に使われたものだろう.

物語,アリア,二重唱,背景音楽,間奏,そして,出演者たち.なかなかの出来の晩であった.

新国立劇場小劇場 1階 C2列 12番

2000年 3月 23日 演目:芥川龍之介原作,鐘下辰男脚本「新・地獄変」

舞台は,うらぶれた二階家.二階の窓辺に一輪の桔梗の花が飾ってある.その奥の部屋には,娘,弥生が横たわる.浮世絵師の父,結城良秀にひたすらに美しくなることを求められ,睡眠薬で定時に眠っている.そこに,版元の蔦屋重三郎がやって来て,浮世絵を描くよう口説き始める.話の中から,ほの浮かぶ,良秀の過去.

良秀は,見る者をおののかせずにはおかぬ熟達の浮世絵師だが,彼の絵の迫力の源泉は「見たものを描く」ことにある.現実の火事を見て,燃えさかる炎を生き物のように描き,美しい娘の死体が腐乱していく様をつぶさに観察して,生々しくおぞましい死相を描くのだ.かつて小町と呼ばれた志乃を娶ったのも,志乃をモデルに育て,その美しさを描くためだった.10年前,その良秀が描こうと思ったのが,炎にまかれ悶え苦しむ女の姿だった.どうしても描けぬ良秀は,我が家に火を放ち志乃を焼く.志乃の苦しむ姿に良秀は思わず助けてしまうが,志乃は見るも無惨な火傷を負う.モデルを失った良秀は,絵を描くのを中断し,弥生の成長を待つ.良秀の期待を一身に集め,おまえは美しいと囁かれて育った弥生と,火傷を隠すために仮面を被る外のない志乃.かつて美しさを誇っていたであろう志乃の憎悪は,必然的に,弥生に向かう.実の親子でありながら,良秀の飽くなき芸術への渇望の前に,自己を見失い罵りあう二人.妻でありながら,理想的なモデルとして育てられた志乃と,芸術のために妻を焼きながらも,徹しきれなかった良秀.

この家族と絡む腐れ役人高木の,余りにも人間くさい姿は,この家族の有り様を照らす道化だろう.落ちぶれた高木はこの家に押し入るが,逆に殺されてしまう.思わぬ敵意に晒されて,弥生は家に火を放つ.再び炎に巻かれ悶える志乃.炎の中,その様子を描く良秀.全ては炎の中に消失する.ただ,弥生だけは生き延びる.そして今は,美しさという仮面に代えて,志乃と同様,醜さを隠す本物の仮面を付けている...

原作は,芥川龍之介の「地獄変」で,王朝物の一編(新潮文庫にある).地獄変は,「地獄の様子」の意.地獄変を描くように言い付けられた絵師が,炎に巻かれて落ちる車とその中で悶え苦しむ女を描くことを思い付くが,どうしても描けない.そこで,実際に焼いてくれるよう頼み,聞き入れられる.しかし,その車に乗せられていたのは,最愛の娘だった.絵師は,地獄変を完成させた後,首を吊る.

新・地獄変では,舞台を江戸寛政年間に移している.

先日の朝日新聞日曜版(12月3日)に月岡芳年(ちきおかよしとし)の話が出ていた.その中に,「こうした描写力は,気の遠くなるような多くの写生によってつちかわれた.はりつけの情景を描くため,弟子を柱にしばりつけるなど日常茶飯事.火事場に駆けつけ,家が燃える様子をスケッチしたりもした.また『魁題百撰相』を描くにあたっては,実際に上野の山に入り,彰義隊の戦死者を見て回ったといわれる」とある.月岡芳年は19世紀後半の人.芳年が亡くなった年(1892年)に芥川が生まれている.さて,芥川は知っていたのだろうか.ともあれ,「いつの世にも,…」と言ったところか.(この項,2000年 12月 7日)

津田ホール T列 23番

2000年 3月 25日 曲目:「望郷のバラード」,バイオリン:天満敦子

高樹のぶ子の「百年の預言」で一躍名を知られた,天満の弾くポルムベスク(Ciprian Porumbescu)「望郷のバラード」.ステージで奏でる音は,あくまでも渋く,心底に響く.ルーマニア語に残るスラブ語の影響か,それとも歴史の重みか.一転,サイン会での天満は,豪放磊落.こちらは,ロマンス語系であるルーマニア語の本領発揮.フム,やはり,天満にとって,「望郷のバラード」は「宿命の曲」なのかも知れない.

新国立劇場オペラ劇場 1階 5列 20番

2000年 4月 13日 サロメ:緑川まり,小姓:杉野麻美

オスカー・ワイルド原作,リヒャルト・シュトラウス作曲「サロメ」.日本では,松井須磨子演ずるサロメの話を聞いたことのある人も多いに違いない.大正2年のことだそうだ.

サロメは,ヘロデ王の妻ヘロディアスの連れ子.ヘロデ王の好色な眼差しに耐えられず宴会を抜け出せば,外は清涼な風のそよぐ月夜.そこに井戸に幽閉されているヨハナーンの声が聞こえて来る.興味を持ったサロメは,会って話がしたいと望むが,警備の兵に断られる.しかし,サロメは,自分に憧れている隊長のナラボートに媚びて井戸の蓋を開けさせようとする.ナラボートに思いを寄せる小姓は必死に止めるが,ナラボートはついに蓋を開けるようにと命じてしまう.井戸から出てきた聖者ヨハナーンを見て,サロメは恋をしてしまう.サロメは肌に触れたいと望むが,ヨハナーンは拒絶する.黒髪に触れたいと望み,拒絶される.接吻したいと望み,拒絶される.白い肌を褒め称え,拒絶されるとこき下ろす.黒い髪を褒め称え,拒絶されるとこき下ろす.この辺り,何とも可愛い恋心ではないか.(接吻を拒絶されてこき下ろさないのは,後半への伏線だろう.)しかし,その様子を見ていたナラボートの方は,絶望して自殺する.その死体を石ころのように跨いで,ヨハナーンに近づくサロメ.しかし,ヨハナーンは拒絶し,「おまえは呪われている」と言い捨てて,井戸に戻ってしまう.

ヘロデ王は,サロメに踊りを所望する.サロメはヨハナーンに気もそぞろ.何を言われても取り合わない.しかし,ヘロデ王が踊れば望みのものをやろうと言うと,「七つのヴェールの踊り」を踊る.何を望むかというヘロデ王の問いに,サロメは「銀の盆に載せたヨハナーンの首」と答える.ヘロデ王は予言者の首を切ることを恐れ様々な逆提案をするが,サロメはきかない.ついに,ヘロデ王は折れ,ヨハナーンの首を切るようにと命じる.もたらされたヨハナーンの首に語りかけるサロメ.サロメは,恍惚とその首に接吻する.その様子に恐れを抱いたヘロデ王は,サロメを殺せと命じる.兵士がサロメを切るとき,小姓が飛び出し,ナラボートの自殺を誘ったサロメへの恨みを晴らす.

サロメについては,妖女とか宿命の女とか,いろいろに言われる.しかし見るところ,純粋に恋い焦がれた女性のように思える.その意味では,単純な失恋物語とも言えよう.舞台を見れば,ここには,二つの片思いがあることが分かる.一つは勿論,サロメのヨハナーンに対する片思い.もう一つは,小姓のナラボートに対する片思い(「小姓」は少年だから,これは同性愛).この小姓は,ナラボートが殺された後最後の場面まで,ずっと舞台の片隅でナラボートが自殺に使ったナイフを抱えて一途に思い込んでいる.その思いは,王女であるサロメの場合,何としてもヨハナーンに接吻したいという思いが「ヨハナーンの首」となる.サロメが市井の女性であれば,もう少し世間並みの結末があったろう.一方,小姓の思いは,サロメに比べれば,ずっと「世間並み」であり,サロメに一矢を報いて一応の結末を得る.

「七つのヴェールの踊り」は,一言で言えば,ストリップだ(今夜の感想を言えば,オペラ歌手の踊りに,妖艶を求めるのは酷と言うものだろう).好色なヘロデ王の前では,好色に振る舞う.聖者ヨハナーンの前では,一途な恋心を持て余す純真な一人の女性.ここには,非常に古典的な女性像がある.兄弟の妻を娶ったヘロデ王.宴会の最中,小姓を傍に呼んで愛撫するヘロディアス.男色.時代(今から約100年前)のデカダンスを写したかに見える舞台装置の中で,描かれているのは,余りにも古典的な恋に生きる女性像だろう.サロメの独白「愛の秘密は死の秘密よりも大きい」は,些か陳腐だ.ワイルドとしては,一見デカダンスの象徴のように見えるサロメの本性が,実は,古典的なものと些かも変わらないと言いたかったのかも知れない.(もっとも,どこまでがワイルドの原作に依るものかは知らないのだが.以下同じ.)

舞台の始めから,月が出てくる.「冷たくて純潔」な月だ.誰が見ても,ヨハナーンを表している.そのヨハナーンの首が,月を思わせる「銀の盆」に載せられる.これも一つの皮肉だろう.

サロメの片思いの相手,聖者ヨハナーンで思い起こされるのは,「やわはだのあつき血汐に」(与謝野晶子)の歌.神のみを求めて人を見ないのは,聖者としては失格だろう.このヨハナーンに対比されていると思われるユダヤ人の宗教論議.一見揶揄しているように思われるが,人を忘れた宗教実践としては,ヨハナーンも大差なかろう.これもまた,ワイルドの皮肉に思える.

新国立劇場小劇場 1階 B1列 8番

2000年 5月 11日 演目:ユージン・オニール作「夜への長い旅路」

オニールの自伝的戯曲.ティローン家のある夏の一日,夜明けから深夜までを描く.ジェイムズとその妻メアリー,長子ジェイミー.末子エドマンド.この家族のお手伝いのキャスリーン(野々村のん)を加えた五人が,登場人物の全てである.一家には,第二子ユージンがいたが,病気で死んでいる.エドマンドとユージンの名は,実際のオニール家とは逆に設定されているそうだ.

メアリーは,エドマンドを生んで体調が良くなかったときに医者がモルヒネを処方したために,モルヒネ中毒になってしまった.最近治療を終えて病院から戻ったばかりだが,家族は,これまでの経験から,再びモルヒネを打ち始めるのではないかと恐れている.メアリーは,昨夜汽笛がうるさくて眠れず,空き部屋をうろつく.再発を恐れる家族も眠れない.ベッドに横になったまま,夜通しメアリーの動静を窺う.そして,それを感じるメアリーもいたたまれない.家族の誰もがメアリーを愛し,メアリーもそれに応えたい.しかし,体はモルヒネを欲し,言うことを聞かない.ぴりぴりした朝の雰囲気.こうして,夏の別荘は朝を迎える.

舞台の正面は居間.左手奥に食堂.右手全面から,曇りガラスを通して照明が当たる.朝の光だ.

ジェイムズ(嘉津山正種)は,辛酸を嘗めながらも,名声を得,一世を風靡した俳優だった.そこそこの家柄の娘だったメアリーも,若い娘の例に洩れず,ジェイムズに憧れた一人.町から町へと公演して渡り歩く俳優家業.良家に育ったメアリーは,世間並みの近所付き合いがしたいし,ピアノも弾きたい.教会で説教も聞きたい.しかし,今は,二人の暮らしに夢中だ.ジェイミーと小さなユージンを母親に預けて,旅公演へ向かう.その間,言い付けを守らずにジェイミーがユージンの部屋に入ったために,ジェイミーの病気がユージンに移り,ユージンを死なせてしまう.それを気に掛けるメアリーは,ジェイムズの薦めもあって,三人目の子エドマンドを生むが,それが切っ掛けで,モルヒネ中毒になったのだった.二人の息子を愛しながらも,わだかまりを捨てきれない.娘時代の,あの世間並みの暮らしが恋しい.ジェイムズがこんなにケチでなければ,..そんな思いも募ってくる.それが,三田和代の演ずるメアリーだ.

若い頃に苦労をしたジェイムズは,ケチが染みついている.居間に下がるシャンデリアには,電球が本来の半分,三つしかついていない.しかも,電球を緩めて消してあるのだ.一家が夏の間住むこの家も,安普請.公演のない夏場用の別荘とは言っても,霧の出る港近くに建つ.隣家の人たちが出掛けるのを,羨ましげに見送るメアリー.

息子たちはそんな父親に反発して,ジェイミーは放蕩息子を演じ,エドマンドは海に憧れ船乗りになって出奔してしまう.しかし,二人とも,どうしようもなく父親似だ.ジェイミーは,父親の紹介で,俳優をやっている.金があれば放蕩はするが,声の掛からぬ売春婦に同情して買ってしまうところは,外では気前の良いジェイムズにそっくり.ソファーに横になるとき,思わず明かりを消してしまうのも父親譲りだろう.ケチな父親とモルヒネ中毒の母親.二人を愛しながらも嫌い,嫌いながらも二人にどうしようもなく似ている自分を感じている.そんなジェイミーを浅野和之が好演している.

エドマンドは,詩人肌.その才は,シェークスピアをこよなく愛するジェイムズの賜だろう.マラリアを患って戻ってきたエドマンドは,今度は結核を発病する.息子の命が掛かっているというのに,サナトリウムの費用を安く上げようとする父ジェイムズ.それを巡って親子で言い争うが,父親の苦労話を聞かされて,父を思い遣ることを禁じ得ないエドマンドの優しさ.父親もほだされて,シャンデリアの電球を点ける.しかし,そのエドマンドも,母親の健康を気遣いながら,一方で,中毒再発が世間に知られることを気にする俗っぽさを併せ持つ.丁度,ジェイムズがケチであるように.エドマンドを演ずるのは段田安則.

ジェイミーとエドマンドは,何でも二人で分け合う仲の良い兄弟だ.しかし,二人の仲も,決して単線形ではない.兄は,両親の愛情を巡って幼い弟を嫉妬するものだ.その気持ちを,酔っぱらったジェイミーはエドマンドに吐露する.しかし,それはサナトリウムに入る弟に向けた餞別とも思える.

昼間,ジェイムズとエドマンドは医者へ.ジェイミーは酒場と女郎屋へ.メアリーはモルヒネを買いに町へ.

かくして,長い一日が終わり,夜.メアリーの中毒は再発している.昼間離散した家族は再び集う.残る家族が見守る中,ウェディング・ドレスを引きずりながらメアリーが居間に下りて来る.病院での治療も空しくモルヒネの影響で少女時代に戻ったメアリーは独白を続ける.ウェディング・ドレスを抱えたジェイムズも,息子たちも,家族皆が楽しかった頃の夢を見ているかのようだ.

夜,家族が集まり,言い争う場面.シャンデリアの電球が一つ,二つと消えるのは何だろう.最後に残った電球は,果たして何を暗示するのか.

「家族の溝がいよいよ深まる」との評もあるやに聞くが,これは読み間違いだろう.深夜になって,家族それぞれが自己の夢に浸る時間だが,それでもなお相互に気遣いがある.ホテルに泊まり合わせた四人の客とは違うのだ.

最後になったが,出演者五人の声,振り,台詞.十分な力量に裏打ちされている.確かにこれは,良い舞台だ.

新国立劇場オペラ劇場 1階 B1列 8番

2000年 6月 15日 演目:ヴィクトル・ユーゴー原作,ジュゼッペ・ヴェルディ作曲「リゴレット」

今夜は,ヴェルディの傑作,「女心の歌」で名高い「リゴレット」だ.原作がユーゴーだけあって,オペラらしい荒唐無稽な個所はあるものの,登場人物の彫りが深い.

第一幕.

背骨の曲がっているリゴレット(直野資)は,醜い男だ.美醜を併せ持つのが人間,という認識のなかった当時(16世紀という設定)においては,生まれながらにして,差別と偏見に責め立てられたであろう事は,想像に難くない.(「エレファント・マン」を思い起こす.)リゴレットが宮廷の道化としてマントヴァ公爵(ピエトロ・バッロ)に取り入るのも生きる縁であり,誰がそれを責められようか.リゴレット自身が独白するように,悲しみを禁じられ,我が身を嘆き悲しむことさえできず,ただ「笑い」だけを売ることの辛さは,その「笑い」の対象とされた廷臣達には,その偏見と同様,永遠に気が付くことはあるまい.シェークスピア劇に登場する道化とは,大きく異なっている.

マントヴァ公爵は,美男子で,次々と女心をくすぐって歩いている.今も,舞踏会で,「あれかこれか」を歌い,教会で見つけた娘(ジルダ)のことを話したかと思うと,チェプラーノ伯爵夫人(佐々木弐奈)を口説いている.その公爵に,モンテローネ伯爵(栗林義信)の娘も弄ばれた.それに怒った伯爵は,舞踏会に乗り込んでくるが,逆に公爵に捉えられてしまう.その際,リゴレットの標的にされた伯爵は呪いの言葉を投げ付ける.

しかし,醜いリゴレットにも,心優しい妻がいた.そして,今はなき妻の忘れ形見,娘のジルダ(天羽明惠)は,リゴレットの唯一の希望であり,慰めであった.リゴレットは,廷臣達に見つかり,道化である自分のことを娘に知られるのを恐れ,教会の他には外出を許さず,大切に育ててきた.しかし,その教会で,公爵は,ジルダを見初めるのである.ジルダもまた,それとは知らず,公爵に淡い思いを寄せる.リゴレットの隙を見て,家に忍び込んだ公爵は,ジルダがリゴレットの娘であることを知る.リゴレットが家を出ると,公爵は,貧しい学生マルデと名乗ってジルダに近づく.別れ際,「さようなら,私の夢も希望も」を歌う.ジルダが「慕わしい人の名は」を歌い,手もなく信じてしまうのは言うまでもない.が,これも皮肉という他はない.リゴレットがジルダをもう少し自由にし,ジルダがもう少し世間を知っていたのなら,そう簡単に信じてしまうこともなかったろう.第3幕に登場する殺し屋の妹マッダレーナ(永田直美)のように,「浮気ないい男」と簡単に見抜いていたに違いないのだ.

リゴレットに仕返しをしたい廷臣達は,ジルダをリゴレットの愛人と誤解する.そして,ジルダをさらい,公爵に献上してしまう.

第二幕.

ジルダの誘拐を知って,公爵は落胆し,「頬の涙が」を歌う.第1幕舞踏会の場を思い起こせば,公爵が嘆いているのは,ジルダへの愛情からではなく,娘を手に入れる前に誘拐されてしまったからであることは,疑問の余地はない.廷臣達の話から,彼らが献上したのは他ならぬジルダであることを知るや,直ぐにジルダのいる部屋に向かうのは,何とも見え透いた話である.

一方,気が気でないリゴレットは,宮殿で廷臣達に「悪魔め,鬼め!」と歌い,娘を帰すように訴える.そこへ,ジルダが駆け込んでくる.ジルダの求めに応じて,リゴレットは,廷臣達に二人だけにしてくれるよう頼む.廷臣達は,気も狂わんばかりのリゴレットに逆らうのは得策ではないと言って,退室する.しかし,見るところ,それは言い訳であろう.実際は,ジルダの様子に絆されたと見るべきだ.さもなければ,廷臣達を人間ではなく,木偶坊として描いたことになってしまう.ジルダは事の子細をリゴレットに話し,リゴレットは娘を慰める.連行されるモンテローネを見たリゴレットは,公爵への復讐を考えるが,ジルダは公爵への愛を語り,復讐を止めさせようとする.

第三幕.

殺し屋スパラフチーレ(久保田真澄)の崩壊寸前の居酒屋兼宿屋.公爵が,「女心の歌」を歌いつつ,マッダレーナ目当てにやって来る.リゴレットがスパラフチーレに依頼したのである.公爵は,「美しい乙女よ」を歌い,マッダレーナを口説く.リゴレットは,ジルダを連れて来て,その様子を覗き見させる.ジルダは落胆するが,公爵への愛は変わらない.リゴレットは,そのジルダを諦めるようにと説得する.ここの四重唱は,圧巻である.(順序が逆ではあるが,ウェスト・サイド物語を思い出してしまう.)

リゴレットは,ジルダをヴェローナへ行くようにと指示し,自身は公爵殺害をスパラフチーレに依頼し,半額を支払う.

嵐が近づいているので,公爵はスパラフチーレの所に泊まることにし,二階にある,公爵の言うところの「風通しの良い部屋」に上がる.

スパラフチーレは公爵殺害の準備をするが,マッダレーナは公爵を殺すのが惜しくなり,スパラフチーレを説得する.スパラフチーレは,替え玉が現れたらと言うことで折り合う.そこへ,事情を察したジルダが男装して宿屋を訪ねる.自らの命と引き替えに,公爵を助けるためだった.ジルダを替え玉にして殺し,スパラフチーレは死体を包んで,リゴレットに渡し,残金を受け取る.リゴレットは死体を受け取るが,そこに聞こえて来るのは公爵の歌声.驚いて包みをほどくと,それは虫の息のジルダだった.ジルダは,公爵を愛することと,天国で母親と一緒に祈るからと,言い残して息絶える.リゴレットは,モンテローネ伯爵の呪いの言葉を思い出す.

公爵があばら屋の二階で「女心の歌」歌うのは,象徴的である.そこは,宮殿ではない.今にも崩れ落ちそうな二階なのである.脳天気な公爵の足下の危うさ.公爵の行く末を暗示している.

一方のリゴレットは,最愛の娘を失う.ジルダを弄んだ公爵は,少なくとも今はのうのうと生き続けている.(米国映画「評決のとき」と比較してみると良い.)リゴレットを蔑んだ廷臣達も罰せられることはない(しかし,第二幕の後,懺悔をしたに違いない).だがしかし,リゴレットが醜いのは,彼のせいではないのである.それに対する世間の目.道化として生きるしか道はない.その道化故に廷臣達に恨まれる.そうしたボタンの掛け違いは,ジルダを犠牲にするまで,止まることはなかった.この後,リゴレットは,どう生きるのだろうか.