酔芙蓉
(4)
前期試験の日程も半ばを過ぎ、ようやく明日は休みとなった日に、平次は新一から夕食に誘われた。先に試験を終えていた新一を図書館で拾い、平次は彼と大学近くの定食屋で食事をとった。
そしてそのまま平次は引きずられるように工藤邸に連れてこられたのだ。
「泊まっていけるよな?」
平次を玄関から押し込みながら、新一が確認をとるようにいう。返事も聞かずに彼は鍵をかけてしまった。
「そら別に用事ないさかいええけど」
残りの試験は数少ない上にほとんどが一般教養だ。着替えひと揃いは、普段から工藤邸においてあるから、いきなり泊まることになっても大丈夫だ。
「ちょっと実験につきあってくれ」
「実験?」
問い返す平次に新一が真剣な表情で頷く。
「酔ったところを撮りたいんだ」
靴を脱ぎかけてた平次は、そのまま固まった。
平次を玄関に置き去りにし、新一はひとりで奥に入っていく。
リビングに消えた彼を平次はあわてて追った。
「工藤。どうゆう意味やねん」
平次の問いの答えは、リビングにあった。
そこには三脚に乗ったホームビデオが鎮座していたからだ。レンズは新一がいつも座る場所に向けられている。
「なに考えてんねん」
「自分が酔った状態を見たいんだ」
どうしても、と彼はいう。
「俺に絡んだだけやって」
平次は強く言いきった。
キスを迫る映像など見せたくない。
それが真実でも、秘めた想いを自ら暴露しているところなど、見せたくはない。
彼は隠しておきたいのだ。
だから自分はそれに協力するだけだ。
だというのに、彼自身がそれを妨害しようというのか。
「わかっている」
平次に向き合い、新一が答える。強い意志を秘めた目で、見返してくる。一歩も引く気はないようだ。
「三日前にも実験したんだ。阿笠博士に協力してもらって」
座れ、と彼はソファの背をぽんぽんと叩く。
平次は言われるがまま、新一の席の正面に腰を下ろした。
「そんで?」
「なにもなかった」
彼はキッチンに消える。
「ただ寝ただけだった。そばにいる博士や灰原に絡んだりもしなかった」
「それもこれで撮ったんか」
平次は自分の横にある電源の切られたビデオカメラを見た。彼の指示した平次の席は、フレームには入らない。
「そうだ」
答えながら戻ってきた新一の腕には、見慣れてしまったスピリタスの瓶があった。ミネラルウォーターと氷とグラスもある。
「絡むのはどうやらおまえにだけらしい」
テーブルの上にそれらを並べ、新一が平次を見る。
「だったらええやん」
「飲み過ぎるたびにおまえに絡むわけにはいかないだろ」
「気にせんでええ。俺は気にしとらんし」
彼は無言でグラスにスピリタスを注ぐ。氷を入れて水割りを作り、一つを平次の前に、残りを自分の手元に置いた。前よりは薄く作っているようだ。
「本堂の目撃談はあやふやで信憑性を欠く。何か隠しているんじゃないかと締め上げてみたんだけど、本当に知らないようだった」
「かわいそうなことをするなや」
平次の顔を見て、彼はグラスを取り上げた。前回は一杯でつぶれた酒を口に含む。
「おまえが隠し事をするときは、真実を俺が知らない方がいい、とおまえが考えたときだ」
「それやったら、これがあっても無駄やろ。おまえがつぶれた後、データを消せばええんや。すぐ電源切った方が早いやろな」
「そこまでして俺に教えたくないことを俺はしているのか」
「仮定の話や」
「だったら、そのままにしておけよ」
新一はさらに酒を飲む。
平次もグラスに手を伸ばした。
一息ついて、なだめにかかる。
「なぁ、工藤。俺が気にせんでええってゆうてるのに、なんでこないこだわるん」
平次から目をそらし、新一が横顔で苦笑する。そしてさらに彼はグラスを傾けた。のどを鳴らす新一に、平次は眉をひそめた。無茶な飲み方だ。
「おまえと酒が飲めなくなるのは避けたいからな」
それはないからと言い募る平次に、彼は首を振る。
「おまえがよくても、俺が飲みにくくなる。おまえ相手でも晒したくない醜態っていうのがあるんだよ」
新一が平次を正面から見据える。彼の顔はもう赤くなっている。グラスに残る酒は約半分。リミットにはまだあるが、ペースが速い。
「どんな醜態晒したかて、俺の工藤を見る目は変わらんて」
どうにかしてこれ以上飲まさないようにしたい。考えを巡らせる平次をよそに、新一がまた酒を飲む。
「工藤、ペースを考えや。めっちゃ速いで今日。つまみもなしで、強い酒飲むんは身体に悪いやろ。なんか食うもんないんか」
「腹減ったのか」
素なのか、酒のせいなのか、ぼける新一に平次は反射的に突っ込んだ。
「ちゃうわ。おまえにつまみを食わせたいんや」
新一が笑う。笑顔がもう素面と違った。
「冷凍庫になんかあったと思う。レンジで温めて食うやつ」
平次は立ち上がった。ついでに彼の手からグラスを奪う。
「そんならなんか作ってくる。それまで飲んだらあかんで」
「俺も作ろうか」
新一が立ち上がりかけ、ふらついた。もう足に来ているようだ。
「レンジに入れるだけやろ。すぐ戻るから、待っとれ」
平次は新一をソファに戻して、キッチンに入った。冷凍庫を開けて、つまみにできそうなものを物色した。シューマイとグラタンとピザがある。一人前とおぼしきピザが一番手軽だろうとそれをレンジに突っ込んで、リビングに戻る。
新一がテーブルに突っ伏していた。
グラスの酒の量は減っていない。
「どないした、工藤」
「眠い」
普段日付が変わってから就寝している彼にとっては、まだ寝るような時間ではない。やはりペースが速かったせいかと平次は内心焦った。
「寝ろ。もう寝てしまえ」
平次は彼の横にかがみ込んだ。
「服部。ビデオの電源、入れてくれ」
くぐもった声で新一が言う。
「あかん」
「なんでだよ。気にするなっていう程度のことなら、録画していたって、どうってことないはずだろ」
顔を上げた新一は真っ赤になっていた。
「せやけど、や」
電源を入れろと騒ぐ酔っぱらいを相手に平次が手を焼いていると、キッチンでレンジが鳴った。ソファに新一を押し込んで、平次はもう一度念を押した。
「ビデオは撮らんでええ。それから、これ以上飲んだら、あかん。ええな」
足早にキッチンに入り、レンジからピザを取り出し、皿にのせる。熱々のピザに手間取りながらキッチンを出ると、新一がソファに寝ころんでいた。
「工藤。寝てもうた?」
テーブルの上に皿をおいた平次は、彼の顔をのぞき込んだ。
まさか急性アルコール中毒かと思い、あわてて呼吸や脈拍を確認する。だが、とりあえずその心配はないようだった。
彼は完璧に眠っているらしい。
大きくため息をついて、平次は肩を落とした。
振り返ってみるとビデオの電源は入っていない。とりあえず豹変する新一の様子は録画されずにすんだようだ。
せっかく温めたピザだが、仕方がない。ラップをかけて、明日の朝食にしよう。
もう一度ため息をついて、平次は新一の肩に手をかけた。
「工藤。ベッドで寝ようや」
一応声をかける。
このままリビングで眠っても風邪を引くような気候ではないが、ソファでは熟睡できないだろう。寝室に運ぶのは二回目になると苦笑しながら、平次は彼の身体を背負いあげた。
平次が階段に足をかけたところで、背中の新一が身じろいだ。
「はっとり」
芯のない声に平次は身構えた。
またキスを迫られるかと思った平次に彼はぼんやりと呟いた。
「なぁ、彼女、つくらないのか」
肩すかしをくらった平次は緊張した自分を少し笑った。
「今のところな」
彼の記憶には残らないだろうが、一応まじめに答えておく。
「はやくつくれ。かわいくて頭もよくて、性格もいい彼女」
「そんな女めったにおらん」
平次の返事など聞かず新一は続ける。
「おまえに、にあう彼女。おれが、おまえを、あきらめられるような」
眠りそうな声で、彼は寂しそうに言う。
『おまえがすきだから』
片時も頭から離れたことのない言葉。
平次は階段の途中で足を止めていた。
しがみつく新一の腕に力がこもる。
「はっとり」
ささやく声がかすれている。
平次は目を落として答えた。
「工藤。俺は、おまえにも、めっちゃええ女が似合うと思うで」
本気でそう思う。
男の自分などではなく。
「おれは、おまえがいい」
彼は言いきる。
「工藤」
ことんと新一の頭が平次の頭に当たる。
「なぁ、はっとり。キスしよう」
いつもの科白に平次は我に返った。足早に階段を上り出す。
「あかん」
「むこうじゃ、あいさつだ」
向こうってどこや、口にするんは外国でも挨拶の範疇には入らんやろ、という突っ込みは心のだけでしておく。
「いいだろ。はっとり」
「前にしたやんか」
かすめるようなものだったが、確かにした。
平次は新一の部屋の扉を開いた。手探りで電気をつける。
ベッドの上に新一を転がすように降ろした。が、しがみつく彼の腕が離れず、一緒にベッドに転がり込むことになってしまった。
「はっとり。いっしょに、寝ようぜ」
新一が抱きついてくる。
「あかんって」
平次は彼の腕をほどいてベッドから逃げ出した。
「なにもしないって」
平次の手首をつかみ、新一が笑う。
真っ赤になっている彼の額を平次は指ではじいた。
「あほなことを」
「なぁ、はっとり、キスしよう」
せがんで彼は平次の腕を引く。
平次は大げさにため息をついて見せた。
「せやから、前にしたやろ」
「でも、しよう」
新一の顔からいたずらっぽい笑顔が、すうっと退いた。
「キスはあいさつだから、いいんだ」
友達でも。
つぶやきが寂しく聞こえて、平次は新一の顔を上からのぞき込んだ。
ずっと疑問に思っていることが口をついてでる。
「なんで俺なん?」
取り巻きがいるほどもてる男が選んだのが、なぜ男の自分なのか。
平次を見つめたまま、新一が首を振る。
「しらない」
平次は絡まる視線をほどけなかった。
魅入られたように動けない。
「けど、おまえがいい」
新一の空いていた腕が、平次の首に巻き付く。
引き寄せられながら、もう一度平次は聞いた。
「なんで?」
「おれは、おまえが、いいんだ」
しっとりと唇が重なる。
目を閉じて平次は新一の熱を感じた。
触れるだけのつたない口づけを終えて、平次は目を開けると、新一が幸せそうに笑っていた。
「おやすみ。はっとり」
笑みの余韻を唇に残しまま、新一が目を閉じる。片手はまだ平次の手首を握っている。
新一が寝入っても、しばらく平次はその場に立ちつくしていた。