酔芙蓉
(5)
前期試験の真っ最中には盛況だった図書館の自習室も、さすがに日程の終わりが近づくと空いてくる。その机の一つに着いて、平次はぼんやりと本を開いて眺めていた。頬杖をついて文字を読んでも、目が滑るだけで内容はいっこうに頭に入らない。
平次はあきらめて、窓の外に目をやった。
梅雨明けしたばかりの日差しが容赦なく構内の木々を照りつけている。緑が鮮やかだ。
明日から平次は夏休みだ。
今日の朝一番の試験で、前期の日程が終わった。
新一も昼前の試験を終えれば、解放される。
打ち上げをしようという友人たちの誘いを断って、平次はひとり図書館で新一を待っていた。瑛祐も来るらしい。
ため息をついて、平次は机に突っ伏した。
──工藤とキスをしてもうた。
一週間前の夜。
前の時は無理矢理だったとか、一瞬かすめただけだとか、言い訳がいくらでもできたが、今回はそれができない。
いくらでも避けられた事態だったのに、そうしなかった自分がいる。
わかっていて、逃げなかった。
そして、キス。
平次はまたため息をつく。
あきらめるために彼女を作れといった彼。
友人でもキスならいいとねだった彼。
素面の時には恋情の欠片も見せない彼。
なのに、キスの夜、彼は自分の手首を掴んで放さなかった。
たぶん、一番素直に彼の心を表しているのは、手だろう。
どこにも行くなというように、眠りに落ちても力を緩めなかった、手。
平次は頭の下で組んだ手首を触った。手錠でもかかったように今でも新一の手の感触が残っている。
それ以上に唇に残った温みは鮮やかだ。
触れたことを後悔するほど生々しく刻まれてしまった。
平次は目を閉じた。
おそらくそのせいだ。
夜、よく眠れなくなった。
同じ夢ばかり見る。
あの夜の続きを。
自分から口づけて、彼をむさぼる夢。
抱きつかれた感触を抱きしめるものにすり替えて、彼を抱く夢。
目覚めて、新一が横に眠っていないのが不自然なほどのリアルな夢。
毎朝平次はベッドの中で頭を抱える。
夢の中に満ちている幸福感が平次を苛む。
酔って本音を吐いた新一にほだされたのではないと思う。
男女のふつうの恋愛ではないのだ。
そう簡単に流されるものではない。
──せやけど、あのキスは。
流されたのでなければ、なんだというのだ。
──俺は工藤を。
考えかけては、取り消す。
新一の前では意地でこれまで通りに振る舞っているが、試験勉強の集中力を乱され、安眠を遠ざけられ、平次はたった一週間で消耗していた。
平次は机になついたまま、またため息をついた。
「なぁ、本堂」
日陰を選んで歩く図書館への道すがら、新一が言った。
「服部の様子、おかしくねぇか?」
落ち着きがないような気がする、と彼は首を傾げる。
瑛祐も同じように首を傾げた。
「僕にはあんまりそうは見えないんですけど」
彼と自分では親しさが違う。自分には平次の微妙な変化まではわからない。
「いつもと一緒じゃないですか。明るいっていうか賑やかで」
「その賑やかさが上滑りしているように見えるんだよな」
またなんかやったんだろうな、と彼は呟いた。
「また記憶をなくしたんですか」
新一が嫌そうな顔をした。
「酒癖にしたら可愛い方だと思いますけど、甘えるぐらい」
泣かれたり、ぐちぐちとくだを巻かれたり、いきなり怒り出したりされるよりはずっとましだ。彼の場合、普段とのギャップが意外で微笑ましく思える。
「だいたい絡まれている服部くん自身が受け入れているんだから、大丈夫でしょう」
瑛祐がひとり頷いていると、新一がその後頭部をはたいた。
「大丈夫じゃねぇから、挙動不審なんだろうが」
「不審には見えないですって」
頭を抱えて新一を見やる。
瑛祐の鞄の中で携帯電話が鳴った。慌てて取り出そうとして落としそうになる。
「いくら蘭からだっていっても、メールなんだからそんなに慌てるなよ」
彼女専用の着信音を知っている新一がにやりと笑う。
「でも、やっぱり」
言い訳をしながらメールを開くと夕食の誘いだった。うれしい。とてもうれしい。だが、今夜は新一たちと食べる予定なのだ。昼食を外食にして、夜は工藤邸で過去に扱った事件の謎解きを肴に酒でも飲もうということになっている。
「どうした?」
困っているのが見て取れたのか、新一が聞いてきた。
「毛利探偵に臨時収入があったそうで、今晩夕食を食べに来ないかって」
「おー、良かったじゃねか。行って来いよ」
工藤くんたちとの先約があると渋ると、また頭を叩かれた。
「その俺がいいっていっているんだ。蘭の料理は美味いぞ。せっかくのチャンスなんだから逃すなよ」
そうしますと頷くと、彼は笑って付け加えた。
「下手に手伝おうとして皿を割ったりするなよ」
しそうな予感に瑛祐は力なく笑った。
図書館の入口が見えたところで、新一に声が掛かった。
彼の父優作のファンだと公言してる経済学の教授が立っている。その周りには5、6人の女子学生もいた。
かすかに舌打ちをした新一が、瑛祐にささやいた。
「悪い。服部がもう待っているだろうから、呼びに行ってくれ。断ったら合流する」
はい、と小声で答えて、瑛祐はひとり図書館に向かった。
ガラスの外扉を押し開けて、図書館の玄関ホールに入る。三階まで吹き抜けのホールは、ステンドグラス越しに降り注ぐ光で明るい。内扉の自動ドアを抜けると冷房が程良く効いていた。涼しさに瑛祐はほっと息をついた。司書のいる窓口を横目に、まっすぐ自習室へ向かう。端のほうの机で、平次が突っ伏して眠っていた。
足早に近寄り、声をかけようとしたとき、つま先が床に引っかかった。手にしていた鞄が飛ぶ。瑛祐が床に倒れたのと、平次の悲鳴があがったのは、ほぼ同時だった。
「本堂! なにさらす」
「あ、服部くん、起きました? 呼びに来たんですけど」
すりむいた膝を抱えて瑛祐が見上げた平次は片手で頭を押さえていた。
「いやでも起きるわい。こんなもんが当たったら」
彼は空いた手で瑛祐の鞄を振り回した。
「すみません。転んだときに飛んじゃって」
「ほんまおまえのどじはどうしょうもないな。周りを巻き込むなや。近寄るな危険ゆう札、首から提げとけ」
まったく、と苦笑している平次から瑛祐は鞄を受け取った。
「工藤は外におるんか」
「入り口のところで小林教授に捕まってます」
そうか、と軽く頷いて平次が大きく伸びをした。彼は自分の鞄を手に立ち上がる。
瑛祐は平次の顔をしみじみと眺めた。
挙動不審と言われている彼だが、確かに少し元気がないかもしれない。目の下にクマができているようだ。
「なんか、疲れてませんか。服部くん」
ちらと瑛祐を横目に見て、平次が苦笑した。
「ここのとこ寝不足やねん」
「熱帯夜続きですからねぇ」
「夏はこっちより大阪の方が暑いんやで。せやからそれはないんやけど」
彼は言葉を濁す。
そして平次は大きなため息をついた。
平次が玄関ホールまで来ると、ガラス越し外の木陰に立つ新一の姿が見えた。
確かにひとに取り巻かれているが、小林教授の姿はない。あるのは女の姿ばかり。
ステンドグラスの光の中、平次は足を止めた。
「いつから小林は女になったん?」
皮肉ってみても瑛祐はあれ?と首を傾げるだけだ。
平次はそのおもしろくない光景を睨みつけた。
「教授、いなくなってますね。代わりに女の子増えているし。それにしても本当に工藤くんはもてるなぁ」
でも、と瑛祐が笑いながら平次の顔を見た。
「服部くんももてるんだから、そんな顔しなくても」
「どんな顔や」
瑛祐が自分の眉間を指してみせた。
「すごい皺ですよ。もしかしてやっかんでます?」
「あほ、誰が」
否定しようした平次の視線の先で、女のひとりが誘うように新一の腕を取った。
──さわるな!
足が勝手に駆け出そうとする。
のほほんと瑛祐が言葉を継ぐ。
「それとも焼き餅とか?」
平次は思わず彼の胸ぐらを掴んでいた。
「悪いか。工藤は……!」
──俺に惚れとるんや。
──せやから、ちょっかい出すな。
──俺の、工藤に。
あ、と平次は思った。
「俺は工藤に……」
呟く。
──惚れとるんか。
瑛祐の服から手が滑り落ちる。
平次はずるずるとその場にへたり込んだ。
ものすごく真剣な顔で怒鳴ったあと、足下にしゃがみ込んで丸くなってしまった平次に、瑛祐は戸惑っていた。彼は指で床にのの字でも書き出しそうな感じにへこんでいる。
「なにがやっぱりなんですか」
最後に彼はそうつぶやいて撃沈したのだ。
平次の横にかがみ込んで尋ねてみる。
「そうか、そうやったんやな、やっぱり。あかんなぁ。ほんま俺あほや」
ぶつぶつと呟いているのは、どう聞いても返事ではなく繰り言だ。
「服部くんのどこがあほなんですか」
「腹、括るしかないわな。もう、こうなったらなぁ」
瑛祐の声は届いていないらしい。
困り切った瑛祐は外扉の開く気配に顔を上げた。
女子学生の群れを追い払った新一が玄関ホールに入ってくるところだった。
彼は無言で近寄ってくると、膝を抱えている平次を足先で蹴飛ばした。
「なにすんねん!」
バランスを崩して床に倒れた平次が抗議の声を上げる。
「あ、工藤」
「あ、工藤じゃねぇよ。なに丸まっているんだ。俺は床にある丸いものは蹴りたくなるんだ」
「どんな習性や」
平次が服のほこりを払って立ち上がる。
その顔が赤く見えるのは気のせいか。
「ほらみろ本堂、こいつは挙動不審だろ」
瑛祐は確かにと頷いた。
「突然すごまれるし、しゃがみ込まれるしで、びっくりしました。普通じゃないですね。なんかあったんですか、服部くん」
「あった」と彼は答えた。
「めちゃめちゃでかいことがあった」
平次がまっすぐ新一を見る。
「なんだよ」
尋ねる新一に平次が真顔で聞き返した。
「聞きたいんか」
「当然だ。この間からおかしいんだよ、おまえ。あの実験の後からな。俺が何かしたんだろ」
「まぁ、したけど」
新一の表情が一瞬曇った。
が、口調はいつもの通り強気だった。
「はっきり言ったらいいだろ。隠し事なんて、おまえらしくもねぇ」
そうやな、と平次が大きく頷く。
「俺は隠し事も嘘つくのもしたないし、おまえの気にする世間体とかもどうでもええと思うてる。ぐだぐだ考えるのは性に合わんのや。らしゅうないことしたおかげで、寝不足もええとこや」
横にいる瑛祐の姿など目に入らないように、平次は新一だけを見つめている。
新一は気圧されたように無言のままだ。
「ええか、工藤。よう聞け」
平次は言葉を切った。
「俺は、おまえに惚れた」
新一が大きく目を見開く。
「惚れてもうた」
白い新一の頬が染まっていくのを瑛祐は唖然として見ていた。
耳が拾った言葉がようやく瑛祐の頭の中に入ってくる。
──惚れるっていうのは、つまり好きってことで。でもふたりとも男で……。
──これは、つまり、えっと。
理解しようとして、瑛祐の頭は真っ白になった。
視界の端で瑛祐がへたり込む。
しかし平次は新一から目をそらさなかった。
真っ赤な顔で絶句していた新一がようやく口を開いた。
「おまえ、なにを、突然、」
「突然ちゃうって。酒でなくした記憶をちょっとは覚えとるんやろ。それな、おそらく全部、実際にあったことや」
新一の手がぱっと口元に当てられた。
彼も覚えているのだろう。
キスの記憶を。
「夢だと」
つぶやく新一に平次はにっと笑った。
「せやから、晴れて両想いゆうことや」
「なにが……!」
新一の反撃は途中で止まった。
突然図書館側の自動ドアが開いたのだ。
「君たち。そこでなにをしているんだ」
初老の司書が顔を出す。受付カウンターから様子を窺っていたらしい。
「その子、具合が悪くなったんじゃないのかい」
彼は床にへたり込んだままの瑛祐を指さす。
「あ、いえ、大丈夫です。もう帰りますから」
新一が慌てて言い繕う。
司書は瑛祐を気にしながら持ち場に戻っていった。
平次はしゃがみ込んで瑛祐の顔をのぞき込んだ。
彼は目を見開いたまま気絶しているように見えた。軽く頬を平手で叩いてやると、目に光が戻ってくる。
「おい、本堂。目ぇ開けたまま寝とるんやない。帰るで。昼飯食って工藤のとこ行くんやろ」
まだぼんやりしている瑛祐の腕を引いて立ち上がらせる。
「こいつは今夜蘭とのデートが入ったんで、俺の家には来ないんだ」
床に投げ出された彼の鞄を回収しながら新一が言う。
「そんなら今夜は二人きりゆうことか」
思わずにんまりした平次は、新一に蹴られた。
玄関ホールから外に出ると、きつい日差しが三人の肌を焼いた。直射日光で目が覚めたのか、瑛祐が顔を上げる。
「もう大丈夫ですから」
彼は新一から鞄を受け取った。
「なんか、もう、どうでもよくなりました。二人は規格外だってことが、しみじみわかりました」
鞄を胸に抱えて瑛祐がため息をつく。
とぼとぼと正門に向かう彼に並んで、平次と新一も歩き出す。
「とにかく二人とも僕の常識の範疇には入らないんですよ」
彼がとても疲れているように平次には見えた。
「ちょっと待て、本堂。非常識なのは服部だけだろ。一緒にするなよ」
「ひどいわ、工藤」
「何を言う。あんなところであんな事、普通なら言わねぇ」
本堂もいるっていうのに、と新一がちらっと平次を睨む。
「もしかして、ムードとか必要やったんか」
「そういう意味じゃねぇよ!」
かみつくように怒鳴られたが、赤い顔では迫力に欠ける。
笑った平次はまた蹴られた。
普段素直ではないのは昔から。
すぐに足が出るのも照れているからとわかっている。
だから平次はついつい頬が弛んでしまう。
「人前でいちゃつかないでください」
今度は瑛祐に無言の新一の拳が飛んだ。
彼は涙目で頭を抱える。
「だってそうゆうことでしょう」
「まぁ、そうゆうことで、以後よろしゅうな、本堂」
はいはい、と何度もなげやりに瑛祐が頷く。
なにがそういうことだ、と新一がそっぽを向いてぼやいている。
まだ赤みの引かない横顔が愛おしい。
酔った素直な新一の顔がそれにかぶる。
「今夜は酒を飲んだらあかんよ」
平次は横に並んだ新一にささやいた。
「なんでだよ」
「素面のおまえの口から聞きたいんや」
平次は彼の耳元に口を寄せた。
「キスしよう、て」
これ以上はないほどに新一の顔が赤く染まった。
一瞬後、切れ味鋭い蹴りが平次に向かって飛ぶ。
紙一重でかわした平次は瑛祐を盾にした。
「落ち着け、工藤」
「やかましい! どけ、本堂」
「もう、いい加減にしてください!!」
間に挟まれた瑛祐の悲痛な叫びがキャンパスに響いた。
終わり