酔芙蓉

(3)




「起きろ。本堂」
 身体を揺すられて、瑛祐は目を開いた。ベッドのそばにぼんやりと人影がある。眼鏡をしていないので顔まで見えないが、声で新一だとわかる。彼の家に泊まったのだと、ようやく思い出した。
「どうだ、二日酔いにはなってないか」
「大丈夫です」
 瑛祐は枕元の眼鏡をまさぐった。が、ない。またベッドの下に落としたか、最悪身体の下に敷き込んで壊したか。
 見つけられないのを見かねてか、新一が「ほらよ」と目の前に眼鏡を差し出してくれた。

「工藤くんは? 大丈夫なんですか」
 眼鏡を掛けながら問いかけると、新一が苦笑した。
「二日酔いのことか? だったら大丈夫だ。だめだったのは、服部だ」
「服部くんが二日酔い?」
 瑛祐は驚いて声を上げた。
 自分が部屋に戻る前、彼に全く酔った気配はなかったのに。
「俺もあいつはザルと言うよりワクだと思っていたんだけどな。生まれて初めてだって、本人が言ってるぜ。あいつのことは放って置いて、朝飯にしようぜ。俺たちは一限目必修だから遅刻はまずいぞ」
 笑いながら彼は部屋を出ていった。
 瑛祐は慌ててパジャマのまま新一の後を追った。





 トーストにスクランブルエッグだけの朝食を終え、時間を確認しながら瑛祐はキッチンでコーヒーを飲んでいた。先に食事を終えた新一が洗い物をしている。手伝おうとしたら、きつく止められた。
 片づけを終えた新一が冷凍庫を開けた。
「見ろよ、本堂。これだけ飲めば、いくらウワバミでも二日酔いになるよな」
 新一の手には、昨夜の酒瓶が握られていた。スピリタスは半分ほどになっている。
「すごい。僕なんて匂いだけでだめだったのに。工藤くんはどれぐらい飲んだんですか」
「薄い水割り一杯だけ。なのに、朝目が覚めたら、自分のベッドにいた。服部が運んでくれたんだろうな」
 苦笑しながら彼は瓶をしまう。

「記憶、ないんですか?」
「ないんだよ」
 ちらっと時計を見て、新一が椅子に腰掛けた。
「なにもしていなければいいんだけどな」
 彼は頬杖をつく。
 心配そうな表情に瑛祐は目を逸らした。
 自分が見たことを言ってしまって良いのだろうか。
「本堂」
 声が飛んで、瑛祐は慌てて顔を上げた。新一が真っ直ぐな視線を向けてきていた。
「おまえ、自分で部屋に帰ったのか」
 頷くと、彼は問いを重ねる。
「リビングで目が覚めたんだな。じゃあ、見たんだろ。俺の記憶のない時間」
 断定的に言われ、瑛祐は言葉に詰まった。

「なにを見た」
 睨まれて、瑛祐は観念した。しかし、話すことなどほとんどない。
「あの、見たというか、なんというか。見たと言っても眼鏡してなかったからぼんやりとしてましたし、頭の方もかなり霞が掛かっていたので」
「それで、なにを見た」
「服部くんに絡んでいる工藤くん」
 素直に答えると、新一が大きく目を見開いた。
「絡んだって、どんな風に」
 彼はテーブルの上に身を乗り出してくる。
「どんな風と言われてもよく見えなくて」
「見えてなくてもいいんだよ。なにをしていたんだ。俺は、服部に」
 新一の勢いに押されて、瑛祐は後ろにのけぞった。
「あ、甘えているように見えましたけど」
 嘘ではない。が、本当でもない。実際は抱きついているように見えた。

 新一が頭を抱える。
「工藤くんを部屋に運んだ後、服部くんが朝になったら話しておくって言っていましたから、詳しいことは彼に聞いてください。だいたい僕が起きた直後に、工藤くんは寝ちゃいましたから」
「甘えていたって」
 唸るような声で新一が言う。頭を抱えたままなので、表情が見えない。それでも彼が赤くなっているのが、耳から見て取れた。
「それは僕の主観ですから。服部くんに聞くのが一番です」
「わかった。そうする」
 そういいながらも彼は顔を上げない。
 冷めたコーヒーを飲み干して、瑛祐は時計に目を走らせた。いったん自宅に戻らないといけない自分にはもう時間がない。
「僕、そろそろ行きます」
 おう、と手を挙げた新一は、やはり少し赤い顔をしていた。





 工藤邸を出る前に、瑛祐は平次のいる客間を覗いた。
 梅雨の晴れ間の風が部屋のカーテンを揺らしている。そのさわやかな空気の中で、平次はぐったりしていた。顔の上に腕をのせ、ベッドの上に伸びている。
「具合、どうですか」
「最悪や」
 地の底を這うような声が返ってくる。
 新一が薬を飲ませていたが、まだ効いていないようだ。
「ひとりであんなに飲むからですよ」
 瑛祐は枕元から忠告した。
「やかまし。俺かてこうなるてわかっとったら、飲んどらん」

「なんでそんなに飲んだんですか?」
 ちらっと平次が瑛祐を見た。顔色が悪い。元々浅黒いのが、青黒くなっている。
「珍しかったからや。工藤ももう出るんか?」
「工藤くんはもうしばらくいます。僕は家に寄るので」
 そうかと彼は頷いて目を閉じる。相当気分が悪いらしい。
「じゃ、いってきます」
 扉の前で振り返り、瑛祐は彼に声を掛けた。
 平次の手が力無く揺れて、瑛祐を送り出してくれた。





 午後の講義がすべて終わり、帰る学生たちで廊下も階段も混み合っている。平次は彼らの間をすり抜けるようにして、新一との待ち合わせ場所に急いでいた。
 今日、平次は午後から大学に出た。朝は頭痛と吐き気で動きが取れなかったのだが、新一から貰った薬で昼前にはどうにか二日酔いは治まった。自宅に戻って軽く食べ、午後の講義を二つ出て、ついでに休んだ分のノートも早速コピーさせて貰った。もうすっかりいつもの夕方だ。

 本館の掲示板の前には取り巻きに囲まれた新一が居た。毎度のことに苦笑する。ほとんどが女というのも毎度のことだ。好きな人がいるという新一本人が流した噂はとっくに広まっているのに、彼に群がる女の数はあまり減らない。
 新一が平次に気が付いて、小さく笑った。
 袖を引くような彼女たちをさらりとかわして、新一が近寄ってくる。
 平次は彼と並んで本館を出た。
 明日からまた天気が崩れるのか、飛行機雲が二本並んで延びている。吹く風もどこか湿っぽい。
 正門に向かう道はやはり学生で混雑していた。

「相変わらずやったな。今日はなにに誘われたん?」
 こっそりと尋ねると苦笑が返ってくる。
「映画」
 新一があげたタイトルは、女性に大人気の恋愛映画だった。
「恋愛物なんてかったるくて見てられねぇよ。ミステリーなら見るけどな」
 同感と平次は頷いた。
「で、本当にもう調子はいいのか」
「もうすっかり平気や。工藤からもろうた薬、ばっちり効いたで」
 平次は鞄をあさった。掴みだした物を新一に差し出す。
「返しておくわ」
 手のひらに乗るのは工藤邸の鍵。今朝新一が平次に渡していったのだ。だから戸締まりをして平次も大学に来られた。
「いいよ。それ合い鍵なんだ。持っておいてくれ」
「ええんか」

「おまえならいい」
 笑顔を向けられて、平次は一瞬戸惑った。
 昨夜の言葉が脳裏に甦る。
 ――好きだから。
 だから、持っていていいのだろうか。
「そんなら」
 平次はようやくそれだけ答えて、鍵をまた鞄にしまい込んだ。

「服部」
 新一が辺りを見回して声を落とした。
「昨日、俺、おまえに絡んだんだってな」
「本堂か?」
 彼は頷く。
「あいつは寝ていたからよく知らないようだし。おまえが話してくれるって言って、詳しいことを教えてくれないんだよ」
 俺、なにした?
 新一が顔を覗きこんでくる。
 平次は答えに詰まった。
 さすがにキスしたとは答えられない。
「どこまで覚えとるん?」
「あの酒を飲み干したところまで」
 平次はそうかと呟いた。

 駅前の信号で立ち止まったふたりは、そのまま会話を止めた。周りに人が多すぎる。同じ大学の学生だらけだ。少し耳が気になる。
 平次はそっとため息を吐いた。
 酔いたくて飲んだスピリタスのおかげで、結局昨夜は考えがまとまらなかった。ぐるぐると新一の言葉が頭をまわり、自分の気持ちの収拾もつかなくなった。おかげで飲み過ぎ、二日酔いの悪夢を見る羽目になったのだ。





 駅のホームをふたり並んで歩く。最後尾から二両目がいつも乗る場所だ。
「甘えていたように見えたって、本堂が言っていた」
 人影がばらけたところで、新一が昨夜の話題を再開する。
「まぁ、抱きついてきたしな」
 このぐらいは大丈夫だろうと肯定した平次に、新一が振り返る。頬がほんのりと赤い。
 まじかよ、と呟いて彼は謝る。
「かまへんて。そんなん酒の席ではようあることや」
 平次は笑ってみせた。
 だが、新一の表情は晴れない。

「それで、本当に、それだけだったのか?」
 新一の目が探るように光る。
 平次はしっかりと頷いた。
「それならどうして、あんなに飲んだ?」
「珍しい酒やから。度数の高さはわかっとったのに、飲み過ぎてもうた」
 嘘の通じない目の持ち主の前で、平然を装うのは思った以上に苦しかった。
 なぜ飲んだか。
 まさか新一に問われるとは思っていなかった。
 自分の酒好きを知っている彼には、おかしな行動に映らないと思ったのに。
 電車がホームに滑り込んでくる。
 頼りになる親友が抱え込んでいるものが、平次を悩ます。

 ――キスしよう。
 ――好きだから。

 こびりついて離れない、新一の声。
 酒の力を借りても、記憶から消すことは出来なかった。
 本当に彼は自分のことが好きなのか。
 友人としての「好き」ならば、キスをしようなどとは言わないだろう。
 ――ちゅうことは。
 ここで平次の思考は止まってしまう。
 踏み込むことにためらいを覚える。
 ただ、素面の彼は、親友の立場を崩さない。
 彼が隠しておきたいというのなら、自分は知らない振りをする。
 それがたぶん最善だ。

 新一が平次の瞳を覗きこんでくる。
「本当か」
「ほんまやって。せやから前にもゆうたやろ。人前で酔うほど飲んだらあかんて」
 ちょっと顔をしかめて見せる。以前記憶をなくした彼に、確か自分は忠告したはずだ。
「もしかして、前のときにもか」
「そうや。ま、とにかく飲み過ぎたらあかんゆうことや。今のとこ俺しか絡まれとらんから、安心せい」
 止まった電車の扉が開く。
 降りてくる人たちに道を空け、新一が言う。
「そういうことは早く言えよ」
「まさか二度目があるとは思わんかったからな」
 笑いながら平次は新一の背を押して、電車に乗り込んだ。

「本当に、それだけだったんだな」
「しつこいで、工藤。なんかしでかしたような気がしとるだけやないのか」
 切り返すと、彼は首を傾げる。
「そう、なのかもな」
 新一は言葉を濁して口をつぐんだ。口元に手が当てられる。
「なんもしとらんよ。ほんまに」
 おぼろな記憶でも残っているのかと、平次は吊革に掴まりながら彼の横顔を窺った。
 しばらく考え込んでいた新一が、目を上げた。
「人前ではもう飲まない」
 新一が宣言する。
 そして彼は平次を見て笑った。
「飲みたいときは、おまえを誘うことにする」
 笑顔に押されて平次は思わず頷いていた。
「監視したるわ」
 ふたりで飲んでも飲ませすぎなければいいのだ、という考えが甘かったことを平次が知るのは、数日後のことになる。




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