酔芙蓉
(2)
「本堂! おまえは座ってろ!」
リビングから新一の大きな声が聞こえた。それと同時になにかが床に落ちる音と瑛祐の謝る声がした。
「なにしとんねん」
濡れた髪をタオルで拭きながらドアを開けた平次は、リビングを見てため息を吐いた。
足を抱えてうずくまる瑛祐のそばに本が散らばっている。分厚い装丁の重たい本ばかりだ。風呂に入る前に三人で内容を検討していた事件の資料だ。
「片づけようと思って持ったら、滑ってしまって」
「そんで足の上に落としたんやな」
「俺を巻き添えにしてな」
グラスの乗った盆を持った新一が仁王立ちになっている。彼の足にも本は当たったらしい。
平次はとりあえず散らばった本を集めて床に積み重ねた。
「服部、書斎に持っていくのは朝でもいいぜ」
グラスをテーブルの上に置きながら新一が言う。その横にもまだ検討のすんでいない資料が積んである。資料はみな過去、因縁の組織が関わったのではないかと推測されている事件のものだ。組織そのものは消滅したが、彼らの犯罪の全容はまだ完全につかみ切れていない。
今夜、平次は瑛祐と共に工藤邸に泊まることになっている。図書館で偶然出会って、事件の話をしていたら、いつの間にかそういう話になっていた。
新一も瑛祐もすでに風呂をすませてパジャマに着替え、くつろいだ顔をしている。
彼らと一緒に平次もリビングのソファに腰を下ろした。
「ほらよ」
隣に座った新一が平次の前に缶ビールを押しやる。向かいに座る下戸の瑛祐のグラスには、もうウーロン茶がつがれていた。
「おおきに。工藤は?」
ビール、と答えかけた新一が、ソファから立ち上がった。
「ちょっと待て。おもしろいものがあるんだった」
いたずらっぽい笑顔を残して彼はキッチンに向かう。その背を見送って、平次は瑛祐と見交わした。彼は首を傾げている。
新一はすぐに戻ってきた。
腕にミネラルウォーターのペットボトルと酒瓶を抱えている。
にやっと笑って、新一が平次に酒瓶を渡した。
きんきんに冷えた瓶のラベルを読んで平次は声を上げた。
「スピリタス!」
「アルコール度数96。最強のウオッカだ。この間見かけて買ったんだ。おまえが来たときに開けようと思ってさ」
「ガソリン代わりになるっていうやつですね」
平次から渡された瓶を物珍しげに眺めながら瑛祐が感心している。
「ようまぁ、こんなもん買うたな」
「昔その酒に助けられたことがあってさ」
瑛祐から瓶を受け取り、新一が懐かしげに笑う。
「ストレートでは飲むなって言われているけど、初めの味見だけは割らずにしてみようぜ」
零すとやっかいだからと言いながら、彼は注意深く開栓してグラスに少しだけ注ぎ、しっかりと口を閉めた。
グラスを傾け、酒が唇に触れるか触れないかで、彼は眉をひそめた。
「ほらよ、服部」
押しつけられたグラスを顔に近づけただけで、強くアルコールが香る。平次も新一に倣って慎重に口を付ける。酒が触れると、唇がしびれた。思い切って少し口に含むと、舌が燃える。飲み下すと、その流れに従って内臓に火が付いていくようだった。
「やっぱ、きっついなぁ。口から火ぃ吹きそうや」
平次はテーブルにグラスを置いて、大きく息を吐き出した。本当に炎を吐きそうな気分だ。
新一が笑いながら、ミネラルウォーターの入ったグラスを渡す。
「ま、これでも飲んでおけ。薄まるかも知れないぜ」
「酒ゆうより、アルコールそのもんやな。ストレートで飲むもんちゃうわ。味わえへん」
「へぇ、そうなんですか」
気が付くと瑛祐がグラスを持っていた。
「飲むなよ」
新一が制する。
「飲みませんって。ただちょっとどんなものなのかな、と」
そういいながら、彼はグラスに鼻を突っ込むようにして、匂いをかいだ。
すっと、彼の顔から表情が消える。
手からグラスが落ちて、テーブルの上にスピリタスが広がった。
次の瞬間、瑛祐がソファから滑り落ちて床に倒れた。
「本堂!」
ふたりは同時に叫ぶと、テーブルをまわって彼に駆け寄った。
平次が真っ赤になった瑛祐の頭を支え、新一がその首に手を当てる。
「脈はしっかりしているけど、ちょっと早い。呼吸も少し浅い。軽い急性のアルコール中毒みたいだな」
「匂いぐらい平気やと思ったんやろな」
平次は倒れた拍子に床に落ちた彼の眼鏡を拾って、テーブルの上に置く。
「そうだろうな。まったく世話の焼ける男だ。アルコール度数を考えれば、気化しやすいことぐらい想像付くだろうに。頭は良いのに抜けてるんだからな」
新一が大きくため息を吐く。
「そんで、どないする」
「ここに寝かしておこうぜ。しばらくしたら目も覚めるだろ」
新一が立ち上がる。
平次は瑛祐の顔をのぞき込んだ。赤いままだ。青ざめてはいない。派手に倒れたが、大丈夫そうだ。
ソファのクッションを脇によけて、新一が瑛祐の横になる場所を作る。ふたりがかりで彼を抱き上げ、そこに寝かせた。
「頭冷やしておいたろか」
平次は自分の首に掛かったタオルを引っ張って見せた。
「濡らしに行くついでに、こいつも洗っておいてくれ」
零れたスピリタスを拭いたふきんを新一が差し出す。
よっしゃ、と受け取って平次はキッチンに向かった。
平次が瑛祐の額にタオルを乗せて振り返ると、新一がまたグラスに酒を注いでいた。
「飲むんか?」
「さっきは飲んだわけじゃない。きつそうだったから舐めてみただけだ。割ったら飲めるだろ、きっと」
「薄くしとかんと、本堂の二の舞やで」
平次は向かいのソファで伸びたままの瑛祐を目で指した。
わかっていると、新一は隣りに座った平次を睨む。組織がらみの犯罪の話題で泊まることになったのに、どうやら本題からはそれてしまったようだ。
「おまえも飲むか」
「俺は平和にビールでええわ。さっきのストレートで荒れたんか、口の中がざらついてんねん」
自分のグラスにビールを注いで平次はグラスを上げた。
「乾杯」
「なににだよ」
「そやな。ほんなら、スピリタスに」
新一も笑ってグラスを上げる。
「スピリタスに」
ふたりはふざけてグラスを合わせた。
スピリタスの水割りを飲み終えて、新一がつぶやいた。
「ちょっと濃かったか。なんかすげぇ目が回る」
「おい、大丈夫か工藤。気持ちが悪いんやったら、トイレで吐いてこいや。楽になるで」
「気持ち悪くはねぇけど」
新一が背もたれに寄り掛かり目を閉じる。
平次はその赤い横顔を見つめた。
新一が酔って記憶をなくし、キス魔になってからすでに二ヶ月が過ぎている。その間、平次は何度か彼と酒を酌み交わしていた。だが、キスを迫られたことはない。大勢で飲んでも、ふたりきりで飲んでもだ。だから平次は今夜も安心していたのだが、考えてみれば、あれ以来記憶をなくすほど飲んだ新一と一緒にいたことはないのだ。
「工藤。もう寝たらどうや」
寝るには早い時間だが、こうなったら仕方がない。
――このまま、大人しゅう寝てくれればええんやけど。
深酒が原因でキス魔になるのなら、今夜はもしかすると、もしかする。
「片付けしとくし。本堂も客間の方に連れていっといたるし」
新一がうつむいたまま小さく頷く。
平次は内心安堵した。
「立てるか?」
平次が伸ばした腕を新一が捕らえた。
「はっとり」
顔を上げ、新一が笑う。
目眩を覚えるほど妖艶な笑み。
見惚れた平次は一瞬反応が遅れた。
首に新一の腕が巻き付く。
「キス、しようぜ」
「待て、工藤! 俺は男や。おまえ、誰かと間違えとるんちゃうか」
近づく彼の胸を押して、平次は顔を遠ざける。
「はっとり、へいじ」
声にまで艶を含んで新一がささやく。
「おれは、おまえを、まちがえない」
新一が平次の目をのぞき込む。
子供のようにまっすぐな視線に平次は返す言葉を失った。
ぐっと新一の腕に力がこもる。
酔った男の容赦ない力に引きずられそうになった平次は、焦って後ろにのけぞった。バランスが崩れてソファに背中から倒れ込む。新一がのしかかってきて胸の上に乗る。
「キスしよう」
「待て、待て工藤!」
平次は必死に新一を押し返した。
「あ、はは……。変な夢、見てる……」
気の抜けた声が上がった。
平次が新一との攻防の隙を縫ってちらっと視線を走らせると、横たわったまま瑛祐がぼんやりと目を開いていた。
「本堂! 起きたんか。ちょお手ぇ貸せ!」
平次は瑛祐に向かって叫んだ。
「はっとり」
瑛祐に声をかけた平次に新一が不満そうな顔になる。
「はっとり。こっちむけ」
「工藤……。ほんま、頼むから、退いてくれ」
平次の懇願に彼は首を振る。
「キスしたら、どく」
「なんで俺とキスなんかしたいねん」
「きまっているだろ。すきだからだ」
予想外の返事に平次は虚を突かれた。
あ、と思ったときには、平次の腕をかわした新一の顔が目の前にあった。
避ける間もなく唇にやわらかな物が触れた。
大きく目を見開いた平次の胸の上に、新一の身体が落ちる。
「おい、工藤!」
平次は力抜けた新一を押しのけて、ソファの下に転がって逃げた。
口を手で押さえて彼を見やれば、幸せそうな寝顔があった。
「すごい夢かも……」
振り返ると、夢と現の間をさまよっているような瑛祐が居た。寝転がったまま首を傾げている。眼鏡のない顔は彼をよけいに子供っぽく見せている。
平次は寝ぼけている瑛祐と熟睡している新一を交互に見やって、大きく肩を落とした。
「本堂。起きろや」
「……あれ、夢じゃない、とか」
ぼやんとした瑛祐の声が混乱している平次の神経を逆撫でる。
「ええ加減、起きや!」
いっそ夢なら良かったのにと思いながら、平次は八つ当たり気味に瑛祐の胸ぐらを掴んで思い切り揺すった。
「なんか視界がきゅーっと狭くなったな、と思ったらソファに寝てました」
ようやくちゃんと目が覚めたらしい瑛祐が、起きあがって頭を掻く。眼鏡を掛けて苦笑している彼にミネラルウォータの入ったグラスを渡しながら、平次は改めて苦言を呈した。
「おまえなぁ、めっちゃ下戸やて自覚があるんやったら、気ぃつけろや」
彼が起きていれば、少なくともあの事態は避けられたはずだ。
「服に零して、たばこの火が引火して火だるま、ゆう事故を起こす酒なんやで。どんだけ気化しやすい思うてんねん」
謝る瑛祐は片手で頭を押さえている。
「なんか頭痛がするんですけど」
「二日酔いかもしれへんな。まぁ一晩寝たら治るやろ」
「それで、工藤くんは?」
「おまえがぶっ倒れたあと、潰れてもうた。部屋に運ぶさかい、手伝ってくれ」
平次は眠る新一を振り返った。
彼は相変わらず幸せそうな顔をして寝ている。
――すきだから。
平次は口元に手を当てた。
――ほんまになにを寝ぼけて。
「また背負いますか」
瑛祐の声がかかって我に返る。
「そうやな。こいつの部屋は二階やし。その方が安全やろ」
ふたりがかりで、平次の背中に新一を乗せる。平次を先導するようにリビングの扉を開けた瑛祐が、敷居に蹴躓いてこけた。
新一を自室のベッドに寝かしつけ、先に階段を下りていた瑛祐が振り返った。
「あの」
言ったとたん、お約束のように足を踏み外しかけた彼の襟首をつかんで、平次は彼が階段を転げ落ちるのを阻止した。
「なんやねん」
「なんかさっき、僕すごく変な夢を見ていたような気がするんです。工藤くんが服部くんを押し倒していたんです。そんな状況、夢としか思えないんですけど、妙にリアルで」
平次は思いきり顔をしかめた。本人が夢だと思いこんでいるのなら、そのままにしておこうと考えたが、疑っているのなら話しておいた方がいいかもしれない。夢だと断言して、変な夢としてよそで触れ回られたりしたら大変だ。
とりあえず階段の下まで降りて、平次は瑛祐に向き直った。
眼鏡をしていなかった彼がどこまで知っているのか、平次は言葉を選んだ。
「工藤はな、酒が過ぎると豹変すんねん。おるやろ、泣き上戸とか笑い上戸とか。そういうのと一緒でな、妙に絡むようになんねん」
「何度か一緒に飲みに行っていますけど、初めて見ましたよ」
「見た、て。おまえ、眼鏡しとらんのに見えたんか」
「一応ぼんやりとは見えるんです。工藤くんが服部くんに抱きついているように見えました」
「そうやねん」
キスしたところまでは見られなかったかと、平次は内心胸をなで下ろした。
「ま、俺はええねん、絡まれても。つき合い長いし、工藤のことよう知っとるし。けど、ほかの奴らに知られたらまずいと思うんや。あいつ、有名人やから。いろいろとな」
瑛祐がうんうんと頷く。
「わかりました。工藤くんの酒癖は秘密ってことですね。一緒に飲みに行くときは注意しておかないと」
「話が早うて助かるわ。本人も気づいとらんようなのが、やっかいやったんやけど、明日起きたら話しとくわ。工藤も気ぃつけてくれるやろ」
平次は瑛祐を客間の方に押しやった。
「まだ酒が残っとるやろし。片付けは俺がやっとくから、さっさと寝てまえ」
瑛祐がぺこりと頭を下げて、割り当てられた部屋に向かう。
「けど、ふたりが抱き合っているのがなんか衝撃的だったんで、眠れそうにないです」
彼は平次を振り返って苦笑する。
平次はちらっと彼を睨んで、拳を握って見せた。
「なんなら当て身でも食らわせて、気絶させたろか」
「遠慮しておきます!」
叫んで瑛祐が電気もつけずに客間に飛び込んだ。扉が閉まるのと、何かにぶつかる大きな音が響いてきて、平次は思わず頭を抱えた。
リビングは先ほどのまま、平次を出迎えてくれた。
テーブルの上に置かれたグラスとペットボトルと、スピリタス。
平次はソファに腰掛けて、酒瓶を取り上げた。
――キスしよう。
――好きだから。
まっすぐに平次を見つめて、新一はささやいていた。
ほかの誰とも間違えていない。
ただ平次とキスがしたいと。
好きだから、と。
平次は目を閉じた。
ふんわりとした幸せそうな寝顔が甦る。
知らず、指が唇に伸びる。
これまで彼は頼りになる相棒として自分のそばに立っていた。
今もそうだ。
だが、本当は。
――なんで、俺を。
平次はグラスにスピリタスを注いだ。ミネラルウォーターで割る。
呷ると喉を焼いて酒が胃の腑に落ちていく。
「俺も、酔いたいわ」
平次は炎のような吐息を長くはき出した。