酔芙蓉

(1)





 平次はそろそろ寝るかとテレビのリモコンに手を伸ばした。と、その横にあった携帯電話が鳴った。相棒、工藤新一からの着信を告げるメロディ。メールならともかく電話にしては時間が遅い。緊急の用件かと平次は素早くそれに出た。
『よお、服部。起きていたか』
 気負って出た平次は肩を落とした。ついでにローソファから浮かし掛けた腰もまた下ろす。
 新一の声はどう聞いても酔っていたからだ。

「起きとるよ。どないした」
『マンションの駐車場にいるんだ。ちょっと降りてきてくれ』
「下まで来とるんやったら、上がってこいや。いつもみたいに」
 進学のために上京してそろそろ二ヶ月。ひとり暮らしの平次の部屋に、新一は何度も遊びに来たことがある。だいたい部屋選びにもつき合ってもらったし、引っ越しも手伝ってもらった間柄だ。

『いいから、来てくれって』
 なぁ、いいだろ。と普段の新一からは考えられないような芯の抜けた声で言う。甘えられているような錯覚すら起こす声だ。
「工藤。ほんまにおまえは」
『なぁ、来てくれよ』
 平次は大きくため息を吐いた。酔っぱらいには敵わない。
「わかった、わかった。行く。待っとれ」
『おう。待ってる』
 嬉しげな声の語尾がすうっと消えた。それにかぶるように誰かの驚く声が聞こえた。

「おい、工藤?」
 携帯電話を耳に押し当てても、男の慌てたような声と雑音しか拾えなかった。新一の声はそこにない。
 平次は慌てて玄関に走った。スニーカーを引っかけるようにして部屋を飛び出し、エレベーターに向かう。
「工藤、おい工藤。返事せい!」
 上がってくるエレベータをいらいらと待ちながら、何度も声をかける。
「工藤!」

『服部くん』
 ようやく聞こえた声は、新一のものではなかった。
「おまえ、誰や」
 平次の鋭い誰何に一瞬電話の向こうの空気が固まった。
『あの、ぼくです。本堂です。工藤くんと同じ学科の』
 平次の頭の中を本堂瑛祐のいまいち頼りなさそうな顔と、新一との因縁が駆け抜けた。平次とは学部が違うので、数回しか顔を合わせたことはない。
『工藤くん、いきなり寝てしまって』
「寝たぁ? まぁええ。今降りる。そこで待っとれ」
 携帯を切ると、平次はようやく来たエレベータに乗り込んだ。


 平次は駐車場へと走った。夜のマンションに靴音が響く。部屋着のパーカーでは少し肌寒いが、気にしている場合ではなかった。
 白っぽいセダンが駐車場の端に止まっていた。助手席側の扉が開いて、人影が動いている。
「本堂。工藤は」
「大丈夫だと思うんですけど」
 瑛祐が振り返った。何をどうしたのか、眼鏡がずり落ちている。
 助手席に座ったまま、新一は熟睡しているようだった。
「珍しいな。工藤がこんな酔うなんて。なんかあったんか」
 何度か一緒に飲んだことがあるが、酔うまで飲んだ新一を平次は見たことがなかった。
「別に何かあったようには見えなかったんですけど。だいたい工藤くん、今日の飲み会は飛び入りだったんで。けど、楽しそうに飲んでましたよ」
「飛び入り、なぁ」
 自分ならともかく、彼は酒の席に飛び入りするほどの酒好きではない。
 ――なんかあったんか。

 瑛祐のくしゃみが平次の思考を破った。
「まぁ、ええ。ここで寝かしたままやと風邪を引くかもしれへん。とにかく俺の部屋に連れてこうや。俺が背負うさかい、本堂は工藤の荷物を持ってついてきてくれや」
 ふたりがかりで新一を車からだし、平次の背中に乗せる。





 エレベーターに乗り込んで、遠慮がちに瑛祐が口を開いた。
「工藤くんに好きな人が出来たらしいんですが、まさか蘭さんってことはないですよね」
 言いながら彼はちらりと平次の背中で眠る新一に目をやる。
「工藤に好きな人?」
「飲み会の席でそう言ってて。周りは大騒ぎですよ。もてるから工藤くんは。女の子が一斉に携帯を取りだしてメールしてる様子なんか、すごかったですよ」
「想像つくわ」
 新一を背負いなおしながら平次は笑った。

 新一のもて方は尋常ではない。高校時代から雑誌などの取材を受けていたほどの探偵だったのだから、ファンは男女を問わず全国にいる。見た目よし、頭よし、運動神経もよし、両親は有名人で、金持ち。これでもてないはずはない。性格が結構したたかで食えないのは平次を含む一部の人間しか知らないので、大学ではアイドル並みの扱いだ。
「けど、蘭ちゃんちゃうと思うで」
 幼なじみの彼女とは、コナンの頃に別れたはずだ。待たなくていいと告げたと、子供の顔に痛々しい笑顔を貼り付けていたのを覚えている。
「なら、まだ僕にもチャンスがあるってことですね」
 工藤くんが相手では勝ち目がないと瑛祐が笑う。

 蘭に一目惚れをしたという彼は、新一が彼女と別れたことに本気で腹を立てていたらしい。渡米した彼に伝えたら思い切り詰られたと新一は苦笑していた。その後瑛祐は帰国し、新一と同じ大学に進学してきたのだ。
 天然のどじだが頭は切れる、と新一が評する瑛祐だが、平次にはまだ切れ者の片鱗も見えない。見たことがあるのは恐ろしいほどのどじぶりだけだ。
 今夜だけでも、エレベーターホールの何もない床に蹴躓いたり、扉を開くボタンと間違えて閉めるボタンを押して、平次を扉に挟みそうになったり、階数ボタンを間違えて押したりしてる。

「そらあるやろうけど、あの子ももてるさかい、がんばりや」
 平次の部屋のある階について扉が開く。また挟まれないうちにと平次は先にエレベーターから降りた。
「そういや、おまえ飲酒運転ちゃうやろな」
「違いますよ」
 廊下を後ろから着いてきながら瑛祐が笑う。
「ぼく、アルコールだめなんです。ウィスキーボンボンどころか、洋酒の入ったケーキも受け付けなくて」
「そんならなんで、飲み会なんて出るんや」
 飲めなければつまらないだろうと、酒豪の部類に入る平次は思う。
「あの雰囲気が好きで。運転手として便利に使われるぶん、割り勘からははずしてもらったりしてるんです。そのへんはしっかりギブアンドテイクです」

 本人が納得しているのならまぁいいかと、平次は自分の部屋の前で足を止めた。
「ここや」
 瑛祐が開けてくれた扉をくぐって、平次は部屋に入った。
「工藤の靴、脱がしたってや」
 このままベッドまで運んだ方が楽だろう。
 玄関に新一の鞄を置いていた瑛祐に頼む。
「それにしても工藤くん、ここまでちゃんとナビをしてくれていたのに、電話終わったとたん何でいきなり寝ちゃったんでしょうか」
「ほんまか」
「顔は赤くなってましたけど、こんなに酔っているようには見えなかったのに」
 不思議そうに新一の寝顔を眺めてから、「おやすみなさい」と瑛祐が言った。
「おおきに、本堂。気ぃつけて帰れや」
 じゃあ、と手を振って瑛祐は帰っていった。

 平次はそのまま新一をベッドに運んだ。
 掛け布団をはいだベッドにおろし、寝かすと新一がぼんやり目を開いた。上からのぞき込んで平次は笑いかけた。
「工藤。目ぇ覚めたか。まぁええ、そのまま寝てまえ。服、寝づらいようやったら、寝間着貸したろか」
「はっとり」
 ふわりと新一が笑った。
 普段の冷たく見えるほど整った顔がやわらかくほどける。
 一瞬見惚れた平次の首に、新一の腕が伸びて巻き付いた。

「はっとり」
 ささやいた新一が顔を寄せてくる。
 キスされる、と理解した瞬間、平次は彼を押しのけていた。
「く、どう、ちょお、待て!」
「なんだよ。いいだろ、キスぐらいしたって」
 すねた口振りも普段の彼とは全く違う。
「キスぐらいって、なぁ」
「別にファーストキスって訳じゃないんだろ。あ、もしかしてそうなのか、だったら、よけいさせろ」

 もう一度と腕を伸ばしてくる新一を平次は掛け布団でくるんだ。
「あほ、ちゃうわ! ええから、もう寝ろ」
 頭まですっぽりと覆って、暴れる彼が起きあがってこないように押さえ込む。
「けちだな。減るもんじゃないだろ」
 くぐもった新一の抗議の声は無視だ。
「寝ろ、寝てまえ」
 叫ぶようにそういって、平次は新一の寝息が聞こえてくるまで、ひたすら布団を押さえていた。





 新一が眠っているのを用心深く確かめ、息が苦しくならないように顔だけは布団から出しておく。そしてそのままそっと平次は寝室を出た。
 学生の多いマンションの一室が平次の部屋だ。2Kの間取りはひとり暮らしにはちょうど良い。ひとつを居間に、ひとつを寝室に分けて使っている。
 慌てて部屋を出たため、つけっぱなしだったテレビを消し、まだ開けたままだった玄関の鍵を閉めに行く。
 やることだけやって、平次はようやく居間のローソファに腰を下ろした。ぐったりと疲れている。

 ――まさか工藤が酔うとキス魔になるとはなぁ。
 泣き上戸笑い上戸、いきなり説教をし出す奴、突然寝る奴。いろいろな酔っぱらいを見たが、キス魔に遭遇したのは初めてだった。
 まだ心臓がどきどきしている。
 いつにない笑みと声。
 まるで別人のようになっていた新一。
 まさか飲み会の席でも、と考えかけて平次は首を振った。瑛祐はここに来るまで酔っているようには見えなかったと言っていた。それに新一がキス魔になっていたとしたら、まずそのことを口にしただろう。大騒ぎになることは確実なのだから。
 ――俺しか知らんのか。
 それならばいい。
 平次はわけなく安堵した。
 その夜、平次はローソファを簡易の寝床に設えて、眠った。





 目が覚めると、身体が痛かった。
 平次は首を回して、ようやく昨夜のことを思いだした。
 時計を見やると、いつもの起床時間。体内時計は正確だ。
 平次は起きあがって大きくのびをした。あちこちの関節が鳴る。窮屈な姿勢で眠ったせいだろう。
 自分は二限目からの講義だが、新一の方はどうなのか。

 平次が乗っ取られた寝室を覗くと、彼はまだ眠っていた。足音を忍ばせて枕元により、寝顔をのぞき込む。
「工藤。起きろや。朝やで」
 軽く肩を揺すってやると、新一が目を開けた。
「はっとり? なんでいるんだ」
「それはここが俺の部屋やからや」
 新一の目が大きく開く。起きあがって周りを見回した彼は首を傾げた。
「なんで、服部のところいるんだ。俺」
「覚えとらんの?」
 あれだけ酔っていたのだから、別に不思議はないかと平次は苦笑した。キス魔となって自分にキスを迫った記憶が残っているのか、その辺は少し気になる。
「ま、とにかく起きろ。朝飯にしようや」
 わかった、と新一がベッドを出る。寝間着代わりになった彼の服は見事にシワになっていた。それを嘆く新一を平次は笑った。





「本堂の車でここまで来たのか」
「その辺から記憶がないんか」
 平次の用意したトーストとスクランブルエッグの朝食を取りながら、昨夜の話を聞いていた新一が頭を抱えている。二日酔いはないらしいので、精神的な頭痛だろう。
 二杯目のコーヒーを彼の前に押しやって、平次は続けた。
 新一もまた二限目からの講義ということで、ふたりはくつろいだ朝の時間を過ごしていた。

「自分の家に送ってもらおうとして、車に乗ったのは覚えているんだけど。なんで服部の家にナビしたのか、わかんねぇ」
「そんで記憶はほんまにまったくないんやな?」
 平次は重ねて確認を取った。
「ないよ。なんだよ。俺、なんかしたのか」
 不安そうな新一に首を振る。
 男にキスを迫ったことなど、別に教えることもないだろう。噂としても聞こえてこないのだから、昨夜が初めてだったに違いない。

「別になんも。けど、そこまで飲むなや。下手したら週刊誌沙汰やで、おまえの場合」
「今更なるかよ。この格好に戻ってから、派手なことはしてないぜ」
 元の姿を取り戻してからの彼は、事件に関わっても表舞台に出ることを避けるようになった。稀に新聞に名前が出るぐらいだ。とはいえ、有名人であることには変わりない。
「せやけどや。人前で酔うまで飲むのはやめとけ」
 いつまたキス魔になるかと思うと心配だ。
 わかったと頷く新一に平次は胸をなで下ろす。

「そや。おまえ、好きな奴出来たんやってな。どんな子や? 俺の知っとる子か」
 平次の問い掛けに新一が笑い声を立てた。
「本堂から聞いたな? それは嘘だ。ここのところあんまり周りがうるさいんで、牽制することにしたんだ。これで訳のわからねぇ自称彼女とかも出てこなくなると思ってさ」
 にやりとしながら、新一はコーヒーカップに手を伸ばす。
 つられて平次もコーヒーをすすった。
「そうなんか。けど、すぐばれるんちゃうか、そんな嘘」
「おまえが協力してくれれば、真実味が増すと思うんだ。うまいことやってくれ」
「わかった。工藤のためや。しゃあない。佐藤刑事あたりをモデルにして、手の届かない年上の女性に惚れた工藤の悩み、ぐらいを作っておくわ」
「本当に佐藤刑事の名前を出したりするなよ。高木刑事はもちろん、警察関係者を敵に回したくはないからな」
 真剣にとどめた新一に、平次は笑った。




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