楽 園


― 頸動脈の上に消えないキスマークを ―

(3)


 


 夜、家に帰り着くと、窓に灯りがともっていることが多くなった。
 外食が減った。
 食事の時間が楽しくなった。
 酒が美味しいと思えるようになった。
 腹が痛くなるほど笑うようになった。

 淋しいという感情を思い出した……。




 久々に一人で事件を片づけて帰宅した新一が、何をするというわけでもなくソファに座り込んでいると、目の前にマグカップが差しだされた。見上げると、平次が受け取れと言う。両手で受け取ったカップには、ホットミルク。新一の斜め前に腰掛けた平次の手にはコーヒーカップがおさまっている。
「おまえだけコーヒーか?」
 文句を言うと、自分のブラックコーヒーに口を付けていた平次が顔を上げた。
「自分、ココアの方が良かったか?」
 新一はそれに応えず、ミルクを口に運んだ。ほんのりとした甘さが口の中に広がる。砂糖の量まで新一の好みだ。
 事件を解いた後の疲労を癒すには、甘い物がいい。
 以前、新一は平次にそう言った。
 平次は律儀にそのことを覚えていて、事件の後には必ずと言っていいほど、甘い物を新一に出してくる。チョコレートやキャンディのときもあれば、ココアのときもある。新一がホットミルクを飲みたがるときは、精神的な疲れがひどいときだ。
 だが、今回はまだ何も事件のことは話していない。

 呼び出されて赴いた先で待っていたのは、嫌な事件だった。
 両親が、自分たちの子どもを事故に見せかけて殺した事件。
 保険金目当てに、五歳の女の子が殺された。
 金が欲しかった理由は、ギャンブルで出来た借金の穴埋めのため。
 仕方がなかったのだと叫ぶ容疑者たちの醜悪さが、目を逸らしたくなるほどの自己中心的な行いが、新一を暗澹たる気持ちにさせる。

 新一はマグカップを降ろしてため息をついた。
 目を上げると、平次の深い色をした瞳とぶつかった。
「……美味い」
「そら良かった」
 明るい笑顔を見せる平次に、新一は心のしこりがほぐれるのを感じた。ミルクの温かさが、胸の奥に沁みる。手のひらで包み込んだぬくもりは、確かに自分を暖めてくれる。
 今は事件の詳細を話す気になれない。
 そのことを、たぶん、彼は感じていてくれている。
 居間に落ちた沈黙が、やけに優しくて、新一はそれを味わうように瞳を閉じてミルクを飲んだ。

 安らぎというモノを確かに手に入れたと思っていた。




 目を開けると、部屋は夕闇に沈んでいた。
 寝起きのぼんやりした新一の頭を水枕の感触が完全に覚まさせた。
 現実に引き戻されて、新一は唇をかみしめる。
 過去の夢は、あまりにも、優しく懐かしい。
 二度と取り戻すことは出来ない、安らぎ。
 マッチの火の中に見えた暖かい幻のように、あの光景は、自分の願いが見せた幻想だったのだろうか。
 以前なら、きっと、違うと言い切れた。
 なのに。
 なんで……、なんでおまえは……。
 新一の呟きは音にならず、冷えてしまった心の上を滑り落ちた。
 寒い……。
 夢の名残を追いかけるように、新一はもう一度目を閉じた。


 




 夜七時をまわった。
 だが、平次は帰ってこなかった。連絡もない。
 新一はカーディガンを羽織ってリビングに降りた。暗い人気のないそこは、見慣れているはずなのに、ひどく寂しい光景に見える。まるで氷漬けにされているようだ。
 新一はその幻影を追い払うために電気をつけ、暖房をつけたが、暖まりはしなかった。
 熱の引いた身体を冷たいソファに落ち着けると、テーブルの籐のかごからリンゴを手に取った。赤くしっとりとした果実。それはあの日、平次が買ってきた物だった。



「見てみぃ、工藤!」
 呼ばれてキッチンに顔を出すと、平次が満面の笑みを浮かべて両手を捧げていた。そこには細く綺麗に剥かれたリンゴの皮がかかっている。
「すごいやろ? 切れんと剥けたで」
 新一は半ばあきれながら笑った。
「見かけに寄らず器用なヤツ」
「一言多いわ。褒めるときはもっと素直に褒めや」
「素直な感想なんだけど?」



 たわいのない軽口の応酬。
 甘酸っぱい白い果実は、美味しかった。
 ほんの二日前の出来事だというのに、ひどく昔の記憶のようだ。
 新一はそっとリンゴに頬を寄せた。
 さわやかで甘い香りは安眠を誘うという。
 だが、新一が見たのは悪夢だった。
 赤い、血の色の悪夢。
 
 リンゴは――禁断の果実。
 蛇に唆されてリンゴを食べたアダムとイブは楽園を追放された。
 罪に手を伸ばしたのが彼ならば、唆した蛇は誰なんだ?
 新一は熱が冷めて戻ってきた理性で感情を押さえつけながら、あの夜を思い出そうとした。
 酒は、かなり飲んでいた。ピッチの早い新一を平次はなだめていたように思う。それがまた気にくわなかった。



「……でさ、高尾の家にこの間のワールドカップの全試合のビデオテープがあるんだってさ。で、今度マンションに泊まりがけで見に来いって」
 流し込んだ水割りの氷が口に入ってくる。新一は少し朦朧としながらそれをかみ砕いた。
「やめとき、やめとき」
 ソファに座る新一の隣に腰掛けた平次は、全く取りあってくれていないように見えた。
「いいじゃん。一緒に見ようって誘われたんだよ」
「借りてきてここで見ればええやんか」
「宝物らしくてさ、持ち出し厳禁なんだって。なぁ、いいだろ? 別に一晩ぐらい家を空けたって。おまえ居るから留守も安心だし」
 平次は無言で水割りを飲んでいる。
 高尾と平次の仲があまり良くないことを新一は知っていた。二人はよく新一のそばに居たが、彼らが二人きりで居るところ見たことがないし、特に高尾は新一が平次と同居していることを何かにつけて持ち出しては、嫌がる素振りを見せていた。平次を追い出せとはさすがに言わなかったが。
「どうしてだめなんだよ。高尾の家だからか?」
 人なつこく友人の多い平次がなぜ高尾を毛嫌いしているのか、新一には理解できなかった。平次と同じように地方から東京の大学に進んだ高尾もなかなか気さくで友人の多い男なのに。
 平次はやはり答えない。水割りを見つめる横顔が暗い。
「なんだよ。なんか言えよ。
 おまえら二人の間に何があったか知らないけどな、俺には関係ないだろ?」
 何も言わない平次に新一はだんだんと腹が立ってきた。音をたててテーブルの上にグラスを置く。
「そうだよ、関係ないんだよ。だいたいなんでおまえの許可を取って友達の家に泊まらなきゃいけないんだ?」
 酒で口が滑る。
「工藤……」
「勝手にさせてもらうからな。次の週末、留守番頼む」
「だめや」
 平次が新一を正面から見つめて言った。何か痛みをこらえるようなその表情に気が付かなかったわけではない。
「行くと言ったら、行く。文句あるなら、理由を言えよ、理由を!」
「工藤……」
 そう言ったきり口をつぐんだ平次の瞳を、怖いと新一は思った。だから、親友に怯えた自分を奮い立たせるように、叫んだ。
「ほらみろ、理由なんてねぇんだろ。だったら止めるんじゃねぇよ。
 ごちゃごちゃうるせーこと言ってやがると、しばらくここで留守番させてやる。俺だって泊めてくれるような友達には苦労はしてねぇんだ。高尾は何日泊まっていっても良いって言ってくれたしな」
 平次がグラスをテーブルに置いた。
 硬い小さな音だったが、新一の口を閉ざさせるには十分すぎた。
 平次が、表情を消していたのだ。
「……だめや」
 声にも感情がひとかけらとして滲んでいない。新一は凍りついたように平次を見返した。
「アイツんとこには行かせん」
「はっとり……?」
「だめや……」
 肩を掴まれる。
 平次の瞳が見たことがないほど昏い色をたたえている。
「行くな」
 首筋をとらえられて、逃げるまもなく唇を奪われた。



 新一は頭を振り、それに続く記憶を追いやった。
 わけ、わかんねぇよ。
 ちらりと時計を見る。もう八時近い。だが未だに平次からの電話はない。
 彼に何かあれば、警察から連絡が来るはずだから、ただ単に事件自体が長引いているのだろう。
 ふと彼を心配している自分に気が付いて、新一は奥歯をかみしめた。
 シャワーを浴びてすっきりしようと、新一は勢いをつけてソファから立ち上がった。









 高熱に浮かされてかいた汗を流し、新一は鏡に目を背けながら身体を拭いていた。自分の貧弱な身体が妙に厭わしい。だが脱衣所の鏡は必要以上に大きく、どうしても目の端には自分の裸体が映ってしまう。そのことを苦々しく思いながら濡れたタオルをカゴに放り込もうとして、新一は顔を上げた。苦労して見ないようにしていた鏡の中の自分を見つめる。
 首、胸、腕。
 反転して、肩越しに、背中。

 どこにも、情事の痕が、ない。

 新一は信じられぬ物を見る目で、もう一度自分の細い身体を眺めた。
 きつく掴まれた手首の痛み。
 肌をすべった、濡れた唇の感触。
 身体は覚えているのに、そこにはなんの形跡も残されていない。
 どうして……?
 アザの出来やすい白い肌から視線を引き剥がし、新一は下着を手に取った。その、何故か震える指先には、自らが施した噛み痕がまだくっきりと残っている。

 なんで……?

 何に向かって問いかけたのか、新一自身にも解らなかった。



 指が痛む。
 忘れていた傷が、うずく。
 ずきずきと脈動する指を持て余しながら、新一はソファに腰掛けた。
 リンゴをひとつ手に取り、それを両手の中で転がす。
 綺麗なリンゴ。
 傷ひとつないリンゴ。
 売られていたときと変わらぬ姿。
 新一は、衝動的にそれにかじりついた。
 赤い皮の下から、白い果肉が表れる。
 口の中に広がる甘さよりも、果実に付いた傷が新一の注意を引いた。
 赤と白のコントラスト。
 もう売りものにならないリンゴ。
 その代わり、自分のモノになったリンゴ。
 ……指が、痛い。








 チャイムが鳴った。
 新一ははっとして顔を上げた。
 バイクの音はしていない。すれば気が付く、どれほど考え事に耽っていても。
 取りあえずリンゴをテーブルに戻すと新一は玄関へと向かった。
 外から鍵を開けて入ってきたのは、平次と高木だった。
「……ただいま」
「こんばんは。工藤君。風邪はもういいのかい?」
「え、ええ……」
 新一は曖昧に頷いた。
「なんで、高木さんが……?」
「僕の不注意で服部君に怪我をさせてしまったんだよ。だからバイクが運転させられなくてね。僕なんてかばう必要なかったのに……」
 すまなそうに高木が言う。車で送ってもらったのならバイクの音はしないはずだ。
「身体が勝手に動いたンやって。気に病まんといてや。
 こんぐらい大丈夫やってゆうとるのに、ホンマ心配性やなぁ。そないなことゆうとると禿げンで?」
 平次が明るく笑う。
 新一は寒くもないのに、カーディガンをかき合わせた。指が、傷が、熱を持ったように熱い。

 笑って、いる。
 彼は笑顔を無くしていなかった。
 自分に対して向けられていた、あの笑顔は、もうないのに。
 他の人には、そうやって以前のように笑いかけるなんて……。

 ふだんと変わらない様子で会話する平次を見ていられなくて、新一は少し俯いた。
「工藤君、大丈夫かい? 寝てたほうが良いんじゃないの?」
 呼びかけられて、新一は慌てて顔を上げた。
「平気です。もう、熱はひいてますから……」
 ならいいけど……、と高木は笑い、取り調べが残っているからと帰っていった。
 閉まった扉を見つめていた新一の脇を平次がすり抜けていく。
「なん、で……?」
 新一の呟きに返事はなく、足音だけが遠ざかっていき、新一が振り返ったときには平次の姿はなかった。


 ぼうっとしながら入ったリビングのテーブルの上には、リンゴ。
 先ほどまでもてあそんでいた、禁断の果実。
 罪の報いは楽園からの追放。
 穏やかな時間の喪失。
 代わりに得たのは、自分の内に生まれ落ちた、殺意。
 理解などしたくなかった復讐の心理。

 キッチンで物音がした。
 新一はゆっくりと音のした方を見た。平次の姿が見える。

 ――治ったら、殺す……。

 新一の視界の端に果物ナイフが映った。

 

 


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