楽 園


― 頸動脈の上に消えないキスマークを ―

(4)


 


 新一がキッチンに入ると、食事の支度をしようとしていたらしい平次が振り返った。彼は新一の手にしているナイフを見て、一瞬目を見張り、そして、言った。
「ホンマに治ったんやな」
 声に動揺はない。
 歩み寄ってくるのを新一は信じられない思いで見ていた。
 諦め? 安堵? それとも……?
 新一はナイフを握りしめて、正面に立ち止まった平次を睨んだ。真っ直ぐ腕を伸ばし、切っ先を彼の首筋に当てる。確かめずとも分かる頸動脈の位置。どちらかが半歩でも近づけば、ナイフはあっさりと平次の喉を貫く。
 目は逸らさない。逸らさせない。
 白けたように明るいキッチンで、新一は目を少し細め、平次の瞳を見つめた。そこには怯えもない、恐怖もない。落ち着き払った平次の態度に、新一の心がざわめく。

 なぜ……?

 全てが知りたい。
 否、知る権利がある。
 知らなければならない。

「はよ、殺りや」
 平次が一歩踏み出した。
 新一はとっさに腕を引いたが、彼の首には朱線が残った。そこから生き物のように首筋を這い降りる血。
 赤い流れから、新一は目が離せなかった。
 見慣れてしまっているはずの鮮血に喉を締めつけられる。
 
 死。
 消えていくぬくもり。
 返らない応え。
 ……存在の、消滅。

「……まだだ」
 新一はようやく声を絞り出した。ナイフを降ろし、平次の瞳に視線を戻す。
「なんで……、あんな事をした?」
 真実を知るのは平次だけだ。聞きだしておかねば……殺すこともできない。解けない謎を抱え込むのはどんなことであろうと嫌だった。
「こないな時まで謎解きか? よくよく探偵やな、自分」
「はぐらかすな、答えろ!」
 怒鳴ると、平次が唇の端をつり上げるようにして、嗤った。

「……おまえが、嫌いやから」

 親友だと思っていた男からの、思いがけない言葉に、新一は固まった。
「いっつも俺の先を行く。いつか負かしてやりたい思うてたんや。その冷静な顔をゆがめさせてみたかった。屈服させたかったんよ。
 さすがのおまえも男はしらんようやったしな」
 平次が新一の屈辱を煽る。
 あからさまな嘲笑を浮かべて。
 新一は息を詰めて、動揺を押さえつけた。
「納得したか? 工藤」
 嘲り一色だった平次の瞳が一瞬翳った。

 違う。
 彼は、偽っている。

 直感だった。
 新一は平次の瞳を睨み付けるように見つめた。
 瞳には心が映る。
 親しくなればなるほど、それを読むのは容易くなる。
 だが、新一にはそれが出来なかった。平次の言葉で頭に血が上ったからではない。平次の顔に張り付いた嘲笑の仮面がそれを許さないのだ。
 読まれたくないのか? 本心を。

 『アイツんとこには行かせん』『行くな』

 あの時、瞳の中には昏い激情と、……哀しみがあったように思う。
 アレが真実ならば、今隠されている心は?

 思い出せ。
 冷静に。
 いつものように。
 断片をかき集めて。
 それらの語る言葉に耳を澄ませ。

 『――工藤……』
 血を吐くような苦しげな声。
 泣きそうな顔。

 傷ひとつ残っていなかった、身体。
 看護してくれたとき見せた、涙。
 階段から落ちかけたとき支えてくれた、腕。

 大きく息を吸い、吐く。
 ゆっくり、ゆっくり、それを繰り返す。
 徐々に澄んでいく思考と研ぎ澄まされてゆく感覚。
 熱と怒りで曇っていた瞳が、晴れ上がる。

 絡められた舌を食いちぎらなかったのは、なぜ?
 キスマークの残らない身体を見てショックを受けたのは、なぜ?
 自分以外の人間に向けられた笑顔を見ていられなかったのは、なぜ?
 平次の流す血が心を締めつけてくるのは、なぜ?

 彼が自分を抱いた理由が知りたかったのは、なぜ?

 ばらばらだったピースが、あるべき所におさまる。
 それはいっそ小気味よいほどのスピードで。
 壊されたはずの楽園の絵。
 それが今また新一の目の前に組み上がってゆく。
 前とは違った絵柄で……。

 あぁ、俺は、何て馬鹿だったんだろう。
 答えはここにあったのに。
 ずっとずっとあったのに。

 新一は平次の瞳を見据えた。
 自分が導き出した答えを確かめるために。

「……嘘が下手だな、おまえ」
「なんや? ずっと見抜けんかった負け惜しみか」
 歪んだ笑み。平次に似合わない嘲りの表情。
 だが、それは見事な仮面。
 新一は息を整え、平次の仮面に一撃をあたえた。

「足掻くな。みっともないぜ? 服部。
 工藤新一をそんな出任せで欺けると思うな。見損なって貰っちゃ困るな」

 顎を上げて、不敵に笑ってみせる。自信に満ちた顔は探偵としての仮面。この表情だけで、容疑者の心理に揺さぶりを掛けるのだ。
 工藤新一に解けない謎はない。見抜けない真実など無い。
 誰もがそう思い、そう言う。
 最もそばに居た平次が、それを一番よく知っている。
 案の定、平次の仮面にわずかなひびが入った。瞳が、すこし揺らぐ。
「確かに、今まで気が付いていなかった俺もかなりの馬鹿だけどな」
 新一の中に荒れ狂っていた嵐はもう過ぎ去った。今あるのは、突き抜けるような青い空。
「あの時、おまえは俺を高尾の元にやりたくなかった」
 割れた仮面の隙間に爪を差し入れ、力まかせに引き剥がしにかかる。


「俺がおまえのそばを離れていくのが嫌だったんだろ?」
 ――あれが、独占欲なら。
    ――――なぜ、俺の身体に所有の烙印を押さなかった?

「そして、俺を無理矢理抱いたことを後悔している」
 ――その感情の起因するモノは?
    ――――おまえが消えれば、何もかもが消える。

「だから逃げもせずここにいて、ナイフの前に身をさらしているんだ」
 ――何を隠している?
    ――――完全犯罪を成し遂げる気なのか?

「俺に殺されることを望んでいる」
 ――真実を見せろ。
    ――――逃がさない。

「心にもないことを言って怒らせてまで」
 ――見せろ! 服部!
    ――――なぜなら、俺は……!


「何故だ? 服部」

 平次の仮面はすでに大きくひび割れている。
 新一は浮かび上がってくる笑みを押さえられなかった。
 出した答えはきっと正しい。
 最後に平次に突きつける言葉は、諸刃の剣だ。
 だが、新一は躊躇わなかった。

「俺に……」

 新一は平次の揺れる瞳を視線で貫いた。


「惚れてるって言えよ」


 平次の仮面が、砕けて、落ちた。
 現れた素顔は、笑うのに失敗したような情けない顔だった。
「……かなんな。ホンマに」
 苦笑と共に吐き出された言葉は穏やかなものだった。平次が新一の目を覗き込むようにして、小さく笑う。瞳の中に愛おしげな光があるのを新一ははっきりと見て取った。

「惚れとるよ、工藤」

 新一は、身体から力を抜いた。
「ずっと前から惚れとったよ。
 叶うわけないと思とったけど、そばに居りたかったんや。友達としてだけでも、隣に居りたかった」
 けど、と平次がため息をついた。
「俺がしてもうたことは、謝って済むようなこととちゃう。
 もう一緒に居ることが出来へんのやったら、いっそのこと殺されたい思うたんや。おまえにやったら殺されてもええ。俺の机の上に遺書がある。それ使えばおまえのことや、自殺にみせかけんのは簡単やろ?」
 平次の目が下に降りた。新一はその視線を追って、自分の握るナイフを思い出した。
 殺意はすでに、ない。
 新一はナイフをシンクに放った。金属同士の立てる賑やかな音が、平次の驚いた顔によく似合う。
「工藤?」
「今日、どこを怪我した?」
 尋ねる平次を無視して新一は訊いた。見えるところには何もない。歩く姿に無理はない。考えられるのは上半身、服の下。怪訝な顔をしながらも平次が答えた。
「右の、腕」
「見せろ」
 袖をまくると、肘と手首の中間に包帯が巻かれていた。新一はそれに指を這わせた。褐色の肌に白のコントラストが痛々しい。
「なんで怪我した?」
「あ、いや、逆上した容疑者がガラスの花瓶で高木さんに殴りかかったんや。あの人ちょうど後ろ向いとって、とっさに腕で受けてもうた」
「切ったのか?」
 平次が見つめているのを知りながら新一は包帯を撫でた。
「いや、割れんかったし……。ただの打撲や。骨にひびもはいっとらん。念のためゆうてレントゲン撮られたんで帰りが遅なったんや」
 新一は平次の目を正面からとらえた。
「殺すって、俺が言ったのを、おまえ忘れていたのか?」
 平次が首を振る。
「けど」
「仕方ないことだったって言いたいんだろ。確かにそうだけどな、服部」
 新一は言葉を切った。

「おまえを殺していいのは、俺だけだ。
 おまえが死ぬのは、俺が手を下したときだけだ」

 包帯越しに腕を掴む。
 平次が眉を寄せる。痛みのせいなのか新一の言葉のせいなのか。
「だから、勝手に死ぬのは許さない。
 俺の手の届かないところへ行くのも、許さない」
 そばから離れることは、許さない。
 大きく目を見張った平次が、ゆっくりゆっくり微笑みを浮かべた。いつもの少年めいた明るいものではなく、困ったような柔らかい笑み。
「……ええように取るで?」
「好きにしろよ」
 新一は伸ばされる平次の腕を逃げずに待った。それが何を意味するのか、そんなことはどうでも良かった。無くしたはずのモノが形こそ違えど確かに復活したのだから。
「……俺、ホンマにここに居ってもええんやな?
 おまえのそばに居ってもええんやな?」
 平次が新一の肩に顔を埋めて囁く。
「しつこい奴だな」
「せやかて……」
 平次の声が震えている。
「いいか。此処はおまえの監獄。俺は死刑の執行人。
 覚悟しとけよ」
 返事がない代わりに、抱きしめる力が強くなった。すがりついてくる平次に新一は苦笑した。
「バーロ。泣くなよ」
「泣いて、へんよ……。
 なんや、嬉しゅうて、言葉がよう、出てけぇへんだけ、や」
 涙声になっているのに否定する平次に、新一は更に笑みを深めた。

 親友もライバルも、友情も信頼も。
 なくしたと、あの時思ったモノが、姿を変えて還ってきた。
 いつの間にか、指の傷は痛まなくなっていた。

「馬鹿だな、おまえ」
「ホンマやな……。
 けど、工藤もあほや、お人好しやで。なんで許すん?」
「許してねぇよ。一生かけて償って貰うんだ。そう簡単に許すか」
「……ホンマのホンマに、おまえにはかなわんわ」
 平次がくすくすと笑い出す。新一もつられたように微笑んだ。先ほどまでの重い気分が嘘のようだ。
 優しい抱擁を受けながら、新一は平次の首の傷を見た。縫うほどではないにしても、さすがにまだ血が完全に止まっていない。
「傷、消毒しないといけないな。痕が残らなきゃ良いけど」
「ええよ。残ったほうが」
 平次が新一の肩口で笑う。
「あほなことしてもうた俺には似合いの烙印や」
 新一は軽くため息をついて、残る疑問を訊いてみた。
「なぁ、なんでおまえ高尾のことが嫌いなんだ? アイツのこと出すと機嫌悪くなるだろ?」
 一気に脱力した平次の体重を受けて新一は少しよろけた。
「なんだよ?」
「……あんなぁ。
 アイツも、おまえに気があるんよ」
 新一は驚いて平次の顔を覗き込んだ。少し瞳を潤ませたままの平次がいったん新一の身体を離し、肩を掴んで言った。
「アイツは俺とおまえがデキとるもんやと思とって、前に宣戦布告されたんや。“おまえから新一を奪ったる”ゆうてな。もちろん、俺の死んだ後に工藤がアイツの魔の手に落ちんように、それを書いた手紙も一応用意しとったんやで」
 声の出ない新一に、平次は更に少し笑って言った。
「やっぱ気ぃついとらんかったんやな。
 だから、どうしてもおまえをアイツのとこにやりたくなかったんよ。けど、そのことゆうには俺も告白せなならんし、告白なんてしてもうたら、おまえに嫌われそうでな。怖くて出来んかった」
 寂しく言う。
「なのに、おまえは絶対行くゆうし……。頭ン中、真っ白になってもうて」
 苦笑する平次に新一は小さくかぶりを振った。
「気が付かなかった。おまえの気持ち」
「そらそやろ。必死になって隠しとったもん。工藤が奥手やったのも幸いしたわ」
 平次は本調子を取り戻しつつあるらしい。
 新一はむっとしながら彼を見た。それに平次が笑いかける。
「惚れとるよ。工藤。
 おまえしか見えんほどにな」
 先ほどとは違い、不意打ちになる告白に新一は頬が熱くなるのを感じた。少しでも誤魔化そうと思い切り不機嫌を装って笑顔の平次に言い放つ。
「忘れるな。離れたら許さないって事」
 嫉妬や執着が愛情からだけ発生するモノではないと、数々の事件を通して知っているから、これが愛情なのか解らない。
 ただ、彼という存在は手放せない。
 彼だけが、自分に安らぎというモノをくれる。
 そばにいて欲しいと、そばにいたいと、そう想う気持ちだけは紛れもなく真実。
「忘れるかい」
 平次の手がそうっと新一の頬を撫でた。覗き込んでくる瞳の中に読みきれないほどの想いが詰まっている。新一は平次の背に腕を回し、目を閉じた。ゆっくり近づいてくる平次を受け入れるために。
 彼が欲しいと思うのも、確かに真実。

 
 求めてくる平次に応えながら、新一は頬を伝うものに気がついた。
 凍りついていたはずの涙が、平次の熱で溶かされてゆく。
 それを拭う平次の指が暖かくて、更に涙がこぼれる。
 ――バーロォ……。


 平次を突き動かした、独占欲。
 新一の中に確かに在った、殺意。
 今までは人ごとであった昏い激情を知ってしまったから、もう以前の関係には戻れない。
 楽園には帰れない。

 それでも、二人で迎える朝は、きっと明るい。

 

 


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