楽 園
― 頸動脈の上に消えないキスマークを ―
(2)
新一が浴室から出てみると、脱衣場にはいつものように下着とパジャマが置かれていた。平次の仕業だ。新一はそれを冷たく見ると、バスタオルで手早く体を拭いた。大きな鏡にはふだんと変わらぬ全裸の自分の姿が映っている。今までこの細い身体にコンプレックスを感じたことはなかった。
役立たず……!
新一はそれから目を背けると、用意されていた服を身につけた。濡れた髪を乱暴に拭くと目眩がしたが、新一はそれを無視した。ドライヤーで髪を乾かしながら鏡に映る自分の顔を無感動に見つめる。小さい頃から綺麗だといわれた線の細い中性的な顔。
男からも告白されたことのある顔。
これが元凶か?
青ざめた、表情を無くした顔がそこにある。目が、瞳が、ひどく暗いのに気がついて、新一は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
新一がのどを潤そうとキッチンに入ると、リビングに平次の姿が見えた。彼に逃げる気はないらしい。自分の言ったことを本気にしていないのかと新一は腹立たしく思った。
消してしまえ。
この忌まわしい記憶ごと、すべて。
冷蔵庫の中のミネラルウォーターをコップに注いで、一気にあおる。滑り落ちてゆく冷たい感覚が湯上がりの身体に心地よくて笑いたくなる。昏い殺意を抱いても、感覚だけは以前のまま。それが妙におかしかった。
それらをテーブルの上に置いたまま、新一は自分の部屋に行こうと階段に向かった。平次と顔を合わせたくない。まだ身体もだるい。夕方というにはまだ早い時間だけれども、しっかり扉に鍵を掛けて、もう一度眠ろう。後ろから平次の声がかかったが、聞こえないふりをする。階段を途中まで昇ったところで、平次が追いついてきた。
「工藤」
心配げな声が煩わしい。
うるさい! と叫んで振り返った新一をひどいめまいが襲った。身体のバランスが崩れ、足場が無くなる。すがろうとした手すりには指先がかすっただけ。ふわりと身体が浮いた。
落ちる!
固く目を閉じた新一の身体は、しかし途中で止まった。
「危ないやんか!」
新一は背を預ける格好で平次の胸に抱き留められていた。新一を抱く左腕。二人分の体重を支えた、手すりを掴む右腕。力強い男の腕だ。新一の身体がすくんだ。
「大丈夫か?」
後ろから耳に落ちたのは、ずっとなじんでいた優しい声。振り返ると、いつもの、昔の心配げな目をした平次が居た。このままではいけないと冷えた心が叫ぶ。新一は身をよじって平次の腕から逃れた。が、膝が崩れて階段に座り込んでしまう。差した影にはっとして上げた顔に平次の腕が伸びてきた。背けた額に平次の冷たい手が触れる。
「やっぱり……、ひどい熱やで、自分」
熱?
疑問に思う前に無造作に抱き上げられた。
「なっ、離せ! 降ろせよ!」
「黙っとり」
新一の抵抗を気に留める様子もなく、平次は新一の部屋に向かって歩き出した。
「……なんの、つもりだ?」
低い新一の問いに平次は答えなかった。
ふと、目が覚めた。
見慣れた自分の部屋。壁掛け時計がまだ宵の口であることを告げている。しばらく新一はそのままぼんやりと天井を眺めていた。熱っぽい瞼が重い。
まだ引いてねぇな……。
新一の視界の端に、ベッドサイドのテーブルに置かれたミネラルウォーターのペットボトルが映った。渇きを覚えて首を回すと枕が揺れた。知らぬ間に水枕をしている。その脇には湿ったタオルが落ちていた。
なんのつもりだ? あの男。
罪滅ぼしのつもりなら、お笑いだ。
ペットボトルに手を伸ばそうとして、新一は平次の存在に気がついた。彼は床に座り込み、新一のベッドに突っ伏すようにして眠っていた。わずかに見える目頭に光るモノを見つけて、新一の心にきしむような負荷がかかった。
……なんで?
なんで、こいつが泣くんだよ。
泣くのは自分の方だろうが、と思った新一は気がついた。まったく涙を流していない自分に。平次に無理矢理抱かれて泣き叫んだ、あの時が最後。あれ以来、あの悪夢から覚めて以来、新一は泣いていなかった。
枯れたか?
心が冷えて……凍ったか?
どっちでもいい。所詮、涙なんてなんの役にも立たないのだから。
実際に自分の涙は平次を止められなかった。だから。
だからな、服部。おまえの涙も俺を止められないんだ。
新一はベッドからだるい身体を伸ばすようにしてペットボトルを掴んだ。盆の上には伏せたコップが置いてある。直飲みするのが苦手な新一に平次はいつも笑いながらコップを差しだしていた。その優しい笑顔を新一は固く目を閉じて追い払った。
消えろ、消えてしまえ……!
想い出なんか、要らない!
コップとボトルを抱えるようにして、新一は身体を起こした。背筋をゾクゾクとした感覚がはい上がる。ひどい寒気だが、のどの渇きは耐えようがなくてキャップに手を掛け、そっと開ける。無意識のうちにベッドを揺らさないようにしている自分に気がついて、新一は愕然とした。
なに、しているんだ、俺……。
ここにいるのは親友じゃない。
強姦の、いや傷害の被害者と加害者。そして、復讐を誓う者とその獲物。
気を使う必要なんて無い相手だ。
新一は苛立ちでくらくらする頭を我慢しながら水を飲み、乱暴にコップとボトルをテーブルに戻した。ベッドが揺れて平次が目を覚まし、顔を上げた。瞳を少し潤ませたまま、心配そうな表情を浮かべている。
「どや? 熱は」
新一は答えず布団を被った。その様子に平次が少し目を伏せた。
「起きたんなら、なんか食わんか? おまえ今日なんも食べてへんやろ。そのまんまやったら薬も飲めへんし……」
「なんのつもりだ? おまえ」
新一は睨み上げながら訊いた。
「分かってるのか? 治ったら、俺はおまえを殺すって事」
平次が新一を見返し、ゆっくりと頷いた。
「分かっとるよ。
……俺を目の前から消したいんやったら、身体を早よ治すこと考えや」
表情からも声からも、平次の本心は窺えなかった。
「……食う。なんか持ってこい」
分かったと呟いて部屋を出ていく平次の背中を、新一はじっと見つめていた。
粥の入ったどんぶりと一緒に平次は新一の着替えを持って現れた。平次は新一がベッドの上で食事が出来るようにすると、今度は氷の溶けきった水枕を抱えて出て行く。以前新一がひどい風邪を引いたときと同じ行動だった。新一は目の前の盆に乗った粥を覗き込んだ。梅肉のかたまりが浮かんでいる。
『まずは粥や。食欲出てきたら雑炊にしような。で、ベッドから出られるようになったら、消化のええ普通の食事。弱っとる身体に余計な負担を掛けるわけにはいかんやろ?』
粥は嫌いだといった新一に、平次は笑いながらそう答えたものだ。梅の酸味が熱で味覚のおかしくなった口に心地よかった記憶がある。
服部、おまえは何を考えている?
俺にはさっぱり分からねぇよ……。
一番理解しあえている相手だと思っていた。正反対といえるほど表面上の性格が違っても、根本の部分で似たもの同士だったから。
少年の頃から探偵という仕事を持ち、それを誇りとしてきた。だが、事件は少年に大人であることを強いた。いつの間にか周りの友人たちよりも早熟で冷めた感情を抱え込み、それを隠すために笑顔という名のポーカーフェイスを身につけた。周りに溶け込むために。いずれ周りが追いついてくると思っていた。だが、その前に二人は出逢った。親しくなるのに時間はかからなかった。特にコナンの頃にはよく気の回る平次には助けてもらったものだ。
同じ大学に入り、上京してきた平次と同居を始めて早二年。数多くの事件を共に解いてきた。なのに。
結局、おまえのことなんにも理解していなかったんだな。
だけど、それはおまえに言えてるぜ。
俺は、……本気なんだからな。
新一はレンゲで粥を口に運んだ。粥は昔と一緒で美味しかった。
次の日、新一は昼近くに目覚め、平次の作った雑炊を食べていた。熱は薬のおかげかかなり下がっている。ノックがして盆と水枕を持った平次が部屋に入ってきた。
「ちょお出かけてくる。事件や。夕飯までには帰ってくるようにするさかい、これでも食ってまっといて」
盆の上にはリンゴ。
きれいに剥かれラップにくるまれてフォークが添えてある。
「遅なるようやったら連絡するわ」
水枕を置くと平次は新一の答えを待たずに部屋を出ていった。
やがてバイクのエンジン音が聞こえてきて、すぐさま遠ざかって行く。それを新一はどんぶりを見つめながら聞いていた。
『渋滞の多いところやったら車よりバイクやろ。まぁ、雨に降られたらかなわんけどな』
『工藤も中免取らん? タンデムもええけど、二人でツーリングっちゅうんもやってみたいわ』
昔の笑顔がよみがえる。笑っていた、いつも。
あれ以来、服部は笑っていない。
俺が涙を無くしたように、服部は笑顔を無くしたらしい。
無くしたものばかりだ。
親友もライバルも、友情も信頼も。得難いものたちばかり無くしてしまった。
それらを引き替えにしてもいいほど、何が欲しかったんだ?
なぜ……。
なぜアイツは、俺を抱いた?
そういう趣味じゃなかったはずだ。
平次の長身でしなやかな体躯。精悍なくせに笑うと少年めく容貌。場を盛り上げる術をよく知っている明るい性格。それでいて、さりげない気遣いもできる。これでもてないはずはない。女のうわさの絶えない彼を、新一はあきれつつも黙ってみていた。自分の口出しすべき事柄ではないから。
だが、一度訊いたことがあった。
なぜそんなに女を替えるのか、と。
返ってきたのは、苦笑だけ。そしてそれ以上の追求を許さないさりげない態度。
自分に話せないのなら、よほどの理由があるのだろうと勝手に思っていた。
……そう、勝手に。
新一は膜の出来た雑炊を、意味もなくかき回した。