楽 園
― 頸動脈の上に消えないキスマークを ―
(1)
工藤。
工藤。
工藤……。
荒い息を吐いて新一は目を覚ました。
さっきまで眠っていたとは思えないほど、心臓がうるさい。新一は妙な動悸が静まるのを待ちながら、深呼吸を繰り返した。
怖ろしい夢を見た。
自分の信じていた世界が崩壊する夢だった。
親友の笑顔が崩れ落ち、立っていた場所が口を開けた。底なしの暗闇の中に限りなく墜ちて行く。助けて欲しいと伸ばした手は平次の腕に触れたのに、それがいっそう新一を闇の中に突き落とした。
――工藤。
彼の狂おしい声が耳にこびりついている。
普段なら明るく響く声音が、嗚咽が混じっているような声で自分の名を囁いている。
新一は心の奥が痛くなるような夢の記憶から耳をふさごうとして、腕が上手く挙がらない事に気が付いた。重労働をした後のような、澱のようなモノが身体に残っている。妙に身体が重い。ふと見回せば、自分の部屋ではない。遮光カーテンの隙間からは、すでに高くなった光が射し込んでいる。
なんで服部の部屋に……?
しかも、昼過ぎまで、寝て……。
俺、どうして……。
そこまで考えて、新一の頭から音をたてて血の気が引いた。慌てて起きあがった身体を鈍い腰痛が襲う。それにかまわず身体を覆っていた毛布を引き剥がした。冬の冷たい空気が肌を刺す。
何も身につけていない自分。
身体に残る、違和感と痛み。
記憶は簡単に甦った。
――夢は、現実だったのだ。
新一は両手で口を押さえた。そうしないと叫びだしてしまいそうだったから。指先が震えている。情けないそれに新一はかみついた。それでも、身体が小刻みに震える。寒さでは、なく。
お、れ、は、……。
俺は……!
かたく閉じた瞼の裏が、赤く染まる。
やめろ!!
なんで……!
ふざけるな、離せ!
離せよ! 服部!!
……てめぇ、絶対……、絶対……!!
口の中に血の味が広がる頃、控えめなノックの音がした。
新一は口元から手を放すと、扉を睨み付けた。この家には新一以外の人間は彼しか居ない。
昨日までの親友。
昨日までの同居人。
服部平次。
新一を暗闇の中に突き落とした張本人。
返事をしないままで居ると、扉がゆっくりと開いて平次が顔をのぞかせた。
起きていた新一に、平次は一瞬驚いたように目を見張り、少し俯いた。
「……なんのようだ」
絞り出した声は震えていたが、それが怒りのためなのか恐怖のためなのかは、新一にも分からなかった。全裸の身体を近づいてくる彼の目から隠すように毛布を巻き付ける。
「フロ沸いとるから呼びに来た」
平次の声は静かだった。
「入った方がええ思うて」
「へぇぇ。優しいんだな?」
睨み付けたまま皮肉を込めてそう言えば、平次がわずかに伏せていた目を上げた。新一の怒りを受け止めた瞳は、声と同じで静かだった。
「俺が言ったこと、覚えているよな?」
新一は動揺させたくて言葉を紡いだ。
「絶対、……殺してやるって」
「覚えとるよ」
答えは淡々と返ってきた。
「動けるか?」
伸ばされた腕を新一は払いのけようとしたが、それは失敗に終わった。身体がこわばっている。平次の腕が躊躇いなく新一の身体を抱き上げた。
「触るんじゃねぇ!」
殴りつけようとした腕が毛布に絡まった。暴れることもできない。新一は舌打ちをした。
平次のまとう清潔な石鹸の香りが新一の吐き気を誘う。
「……俺は、逃げへんよ」
新一を抱えたまま部屋の外へ出ながら平次が言った。
「いい度胸じゃねぇか。謝らねぇのか?」
許す気はねぇけどな。
「許してもらえるなんて、はなから考えとらんわ」
呟く声に彼の瞳を覗き込めば、底なしの闇が其処に在った。
新一は洗い場の椅子の上に降ろされた。身体にまとわりつく毛布を平次が丁寧に剥がしてゆく。壊れ物のような扱いに新一は唇をかみしめた。
「……てめぇ、なんのつもりだ?」
押し殺した声が浴室に響く。
平次は答えない。
新一は毛布を抱える彼を見上げた。だが、平次は新一の裸体から目を逸らしている。
新一の存在それ自体が平次の罪であるかのように。
新一の胸に得体の知れないモノがわき上がった。
「出て行け……!」
新一の低い声が湯気の立つ暖かな浴室の空気を冷やした。平次は小さくあぁと答えると、静かに出ていった。音もなく閉まった扉に背を向け、新一は自らの歯形の残る左手の指を見つめた。滲む血と鈍い痛み。
許さねぇ……!
新一はシャワーから必要以上に大量の湯を出し、叩き付けるような熱めのそれを頭から浴びた。つづいてタオルで力一杯肌をこする。石鹸も緩衝剤にはなってくれない。
いっそ表皮一枚剥がれてしまえばいいのに、と新一は考えた。
脱ぎ捨てるのだ、平次と接触したモノ全て。
そうすれば……。
俺は、元に、戻れる……?
新一は泡を流した身体を湯船に浸けた。湯が滲みて全身がひりひりと痛むが、きしむような痛みを訴えていた筋肉はほぐれていく。新一はゆっくりと手足を伸ばした。
事の発端がなんだったのか、新一ははっきりとは覚えていなかった。それがいつものように二人で酌み交わしていた酒のせいなのか、それともその後起きた衝撃のせいなのか、それすらも分からない。ただはっきりと分かってることは。
俺が全てを無くしたって事だ。
最も信頼していた相手から裏切られ、男としてのプライドも無くした。体格の差こそあれ、まともな抵抗が出来なかった自分の身体が厭わしい。筋力の差をまざまざと見せつけられ、恐怖した自分が許せない。だから。
死ねと叫んだ。
殺してやると喚いた。
温まっていく身体と反比例して、心の芯が冷えてゆく。
許せない、許さない。
居なくなってしまえばいいのだ、あの男。
消えてしまえ、消してしまえ……!
新一は唇の端を吊り上げた。
――必ず、殺してやる。
こんな記憶、抱えるのは自分一人で十分だ。他の誰にも知られてはいけない。知っている人間は生かしておけない。
新一はくくくと肩をふるわせて笑った。
何人もの犯罪者に接しても、彼らの心情は全く理解できなかった。したくなかったというのが正解かも知れない。だが、今、自分の中で蠢いているモノは、殺意だ。こんな化け物が自分の中にもいるなんて、昨日までは知らなかった。
服部、おまえが突き落としてくれた闇の底には、こんなモノが棲んでいたようだぜ?
新一はこみ上げてくる哄笑に身を任せた。