記憶の彼方

(7)






 連休の中日も、晴れすぎるほどに晴れていた。
 髪の毛が焦げるような気がするほど日差しが強い。残暑と言うには暑すぎる。だが、というか、やはりというか、USJは混んでいた。

 蘭と和葉はどうやら昨日のうちに綿密な計画を立てていたらしい。開園と同時に入場し、エキスプレスパスをもらい、その時間がくるまで他のアトラクションを攻略する。まわる順番までしっかり決まっているようで、彼女たちの動きに迷いはない。結果、平次と新一は彼女たちに引きずり回されていた。
 現在は、早めの昼食を終え、ジュラシック・パークに並んでいるところだ。待ち時間はあと十分ぐらいだろうか。

 平次は口を押さえてうつむいた。こみ上げてきたあくびをかみ殺すためだ。今日は朝から眠気が去らない。コーヒーを飲んでも効き目はなく、あくびが止まる気配もない。
 前に並んでいる和葉たちは気がつかなかったようだが、隣の新一には気づかれてしまった。
「昨日は付き合わせちまったから」
 すまなさそうに小声で謝られる。
「工藤のせいちゃうって。妙な夢のせいで寝不足になっただけや」
 平次は目尻に浮かんでしまった涙をぬぐった。
「妙な夢?」
「よく覚えとらんのやけど、目が覚めてもうてなぁ。そのせいや」
 新一はとりあえず納得してくれたようだ。心配そうな視線が平次から外れる。
 平次は内心で大きく息をついた。
 説明の半分は嘘だ。
 夢の内容は、今でもしっかり覚えている。




 昨夜は、なかなか寝付けなかった。
 自分が新一にしようとした行為が、どうしてもわからなくて。
 慰めようと抱きしめたのは、百歩譲ってよしとするにしても、その後だ。
 キスを、しようと、した。
 どう考えても、普通じゃない。
 泣きそうだった新一に保護欲を刺激されたにしてもだ。
 おかしい。
 なぜ、そんな気になったのか。
 理由がどうしても思い当たらなかった。
 そんなことを考えながら布団の中を転々として、ようやく眠ることが出来た明け方。
 うつらうつらしながら見た浅い夢は、奇妙な現実感があった。


 目の前に、新一が佇んでいた。
 彼は平次を見つめていた。たじろぐほど真っ直ぐに。
 そして、彼はゆっくりと瞳を伏せ、透き通るような笑みを浮かべたのだ。
 平次は思わず新一に向かって手を伸ばした。

 伸ばそうとした。
 だが、身体が言うことを利かない。
 手も足も動かない。
 声すら、出なかった。

 焦る平次の目の前で、新一の唇が動いた。
 音は聞こえない、だが、確かにそれは感謝の言葉だった。
 もう一度笑んだ彼は、平次に背を向けた。

 離れていく新一を金縛りにあったような身体のままで平次は見送るしかなかった。
 こわばる喉を叱咤して、平次は必死になって叫んだ。
 このまま新一を行かせたら、二度と会えないような気がしたから。
 『……く、くど、う、くどう』
 新一の背中は遠ざかっていく。

 また失うのか? 彼を。
 新一に忘れられてしまったと知ったときの衝撃を、未だ生々しく覚えているというのに。
 せっかく友人としてやり直せそうな、このときに。
 失えない。
 手放して、たまるものか。

「……く、工藤っ!」

 そして、平次は、自分の声で目が覚めた。
 ダッシュでもした後のような動悸と息づかい。とても寝ていたとは思えない。
 平次は胸を押さえて、大きく息をついた。
「……なんや、夢かい」
 言葉にして、現実を確認して、やっと安堵できた。
 それぐらい、怖かった。
 恐ろしい夢だった。




 内心ため息をついて、平次は隣をうかがった。
 自分の意志で遊びに来たわけではないが、それでも新一は一応楽しんでいるらしい。時折物珍しそうに辺りを見回している。

 今朝起きたときには、新一は宣言通り元に戻っていた。
 平成のホームズ、高校生探偵、工藤新一に。
 昨夜の不安定さが夢だったように、動揺のかけらも彼は見せない。
 その代わり、平次がおかしくなった。
 眠れなくなるほど考えても答えの出なかった問題と、奇妙な夢のせいだろう、平次は新一から目が離せなくなったのだ。
 ふと気がつくと、彼の姿を目で追っている。
 自分の家で。駅までの道で。混み合う電車の中で。そして、ここで。
 新一にはとっくに気づかれている。当たり前だ。たびたび目が合うのだから。

 また平次の視線を感じたらしく、新一が平次を振り返って苦笑した。
「なに見てるんだよ?」
 もう大丈夫だって言っているだろうが、と新一が前の和葉たちに聞こえないように声を潜める。
 肩を寄せてきた新一に、平次はどきりとした。
「あ、や、なんでも、ないねん」
「そうか?」
 昨夜取り乱したせいで平次が気遣ってくれているのだ、とでも思っているのだろう。それ以上追求せずに、新一は離れてくれた。
 平次はそっと胸をなで下ろした。
 
 絶対俺、おかしいわ。
 
 並んでいる列が動いた。
 平次はさりげなく新一の斜め後ろに立った。
 昨夜あれだけ彼のことを抱きしめたというのに、今では触れることすらためらってしまう。
 キスの衝動の余波がまだ平次の中に残っていて、またいつあの感情に駆られるかと思うと、うかつに近寄ることさえ出来ない。なのに、目を離せない。
 平次は自分の抱えた矛盾に頭を悩ました。
 解決の糸口はすぐそこにあるような気がするのに、眠気を引きずった頭では見いだすことが出来ない。
 レインコートがどうこうと蘭たちと話している新一を見ながら、平次はため息をついた。

 あかん。いっぺん寝てからやないと、頭働かんわ。


 結局、ジュラシックパークで水をかぶっても、平次の眠気は去ってくれなかった。




 日は暮れたが、代わりにネオンがきらめいて、パーク内は昼間とはまた違った姿を見せていた。
 そんな中、スヌーピースタジオの土産物屋の前に平次と新一は立っていた。子供向けのファンシーな世界から、男二人連れは浮いているような気が平次はしていた。店内は帰りがけに土産を買おうとする客が押し寄せていて、とてもじゃないが入る気にはならない。ほとんど土産物争奪戦の戦場だ。
 その戦場へ、彼らの幼なじみたちは乗り込んでいったきり帰ってこないのだ。
「なにしとるんや、あの二人は」
 ゆうに三十分は経っている。
 どうなっているのか見てみようと店の中を覗いても、彼女たちの姿すら確認できないのだ。人混みのせいで。
「さぁな」
 平次の隣に立っている新一の声も疲れ切っている。だが、置いてあるベンチはすでにやはり疲れ切っているお父さん方や眠り込んでいる子供に占領されている。
 寝不足の平次もいい加減体力の限界がきていた。ベンチに座ったが最後、爆睡しそうだ。
「つくづく女のタフさには感心するわ」
 和葉たちの計画によれば、この後あるハリウッドマジックを見るのだそうだ。それを見てから帰るとなると、帰りの電車がどういう状態になるのか、平次はあまり考えたくなかった。
「どっから出てくるんや、あのパワー」
 店中の客の大半は女性だ。大きな荷物を抱えて出てくるのもたいがいそう。
「さぁ、俺も不思議に思うよ」
 新一が同感とうなずく。そして、口の中でつぶやいた。
「あー、やっぱり、いるかなぁ……」
 彼の視線の先には、スヌーピーのぬいぐるみを抱えて嬉しそうにはしゃいでいる小さな女の子。
「……悪い、服部。俺もちょっと買ってくる」
「おい」
 平次の声に振り向きもせず、新一はするりと店内に入っていってしまった。平次もすぐ追ったが、出てくる人に押されてたたらを踏んでしまい、入り口からのぞき込んだときには、すでに彼の姿は人混みに紛れていた。
 平次はため息をつくと、先ほどの場所に戻った。ちょうど目の前のベンチに座っていた家族連れがどいたので、平次はそこにへたり込んだ。背もたれに寄りかかり、腕を組んで目を閉じる。
 誰か戻ってきたら起こしてくれるやろ。
 都合のいいことを考えて、平次はあっさりと寝入った。




「あれ? 工藤君」
 かけられた声に振り返ると、和葉がいた。手にはすでに土産物の袋を抱えている。
「買い物、終わった?」
「あたしはね。まだ蘭ちゃんがレジに並んどるよ。お金払うまで十分以上かかったわ」
 和葉の視線の先には行列がある。だが、蘭の姿は見えなかった。
「工藤君もなんか買うて帰るん?」
「どうしようかと思っていたんだけど、隣の阿笠博士と子供たちの分だけでも買って帰ろうかと思ってさ。博士はともかく、子供たちには何がいいか……」
 新一はキャラクターグッズの前で途方に暮れていたのだ。男の子と女の子で別々にするのはいいとしても、歩美と哀の二人には同じ物がいいだろう。だが、精神年齢の違いすぎるあの二人が、同じように喜ぶ物がわからない。
「それやったら、お菓子がええんちゃうかな。子供は甘いもん好きやし。来てみ、工藤君」
 和葉が新一を先導するように人混みを縫って歩き出す。新一は彼女のポニーテールを見失わないように追いかけた。
 案内された先は、缶入りのお菓子のコーナーだった。
「ありがとう、助かったよ」
 早速菓子缶に手を伸ばした新一に、和葉が言った。
「あんな、工藤君」
 声に含まれた切実さに、新一は彼女を振り返った。和葉はすがるような目で新一を見ていた。
「こんなお願い出来る立場ちゃうんやけど、けどな、あたし、工藤君に記憶取り戻してほしいねん」
「遠山さん?」
「工藤君。平次のことだけは思い出してやってくれへん?」
 そこまで言うと、和葉はいったん大きく息をついた。
「あんな。平次は工藤君に会うてからずっと、工藤が工藤がゆうて、工藤君のことばっかり話しとったんや。学校でもやったから、工藤ゆうんは東京に出来た服部の彼女に違いない、なんて噂も飛んだぐらい」
 新一は思わず額を押さえた。平次の同級生には出来るだけ会いたくない。
「平次と一緒に事件を追うことが出来るような人、今までおらんかったん。工藤君が初めてやねん。せやから、平次のことだけでも思い出してやってほしいんや。平次、工藤君のこと、ほんま嬉しそうに話しとったから」
 和葉がいきなり頭を下げた。
「ごめんなさい。工藤君のためやのうて、あたしのわがままやから……。あ、でも、あたしがこんなことゆうてたなんて、平次には言わんといてな?」
 赤くなった顔で頼まれて、新一はほほえんだ。胸の奥の方が痛むのは、たぶん罪悪感。
「言わないよ。けど、服部もいい幼なじみを持ったよな」
 蘭もこうやって自分の知らないところでフォローをしてくれていたのだろうか。
 新一の目の前で、和葉が耳まで赤くなった。
 新一はくすくすと笑った。
「遠山さんって、蘭よりかわいいな」
「なっ! なにゆうてんの!」
「服部のやつ、絶対誰かに恨まれてるぜ」
「そんなはずないやん! それに、だいたい、平次はあたしのことなんとも思うてないし」
 和葉が赤いままの顔を逸らす。
 確かに昨夜、平次は和葉のことを彼女ではないと力説していたが、それはただの照れ隠しだと新一は思っていた。想いを素直に表に出せないというのは、よくわかる。だが、和葉のつぶやきで、平次の言葉が真実だったのだとわかった。
「幼なじみ以上には見れへんって前にゆわれてもうたんや」
 和葉の横顔に影が差した、が、すぐさま顔を上げて彼女は言い繕った。
「あ、こんなこと、話す気なかってん。今のなしや、今のなし!」
 和葉が出てしまった言葉を消すように手を振る。
 彼女の慌てぶりが、可笑しいような哀しいような気がして、新一はとっておきの微笑を浮かべた。胸の奥がやはり痛む。
「わかったよ。忘れるって。だいたい、俺も似たような立場だし」
 なぜ、あれほど想っていた蘭のことが過去のこととして心の中で片づいているのか、その理由はわからなかったけれど、幼なじみから恋人になれなかったのは確かなのだから。
「工藤君……」
 和葉の表情が曇る。
「俺の場合はしょうがないんだけどな。なんかすげー蘭に心配かけてたみたいだしさ」
 新一はあえて笑った。
「昨日さ、服部からいろいろ聞いたんだ。俺がいなかった間のこと。いろいろあったらしいな。……それで遠山さん、後で服部の失敗談があったら教えてほしいんだ」
 いたずらでも持ちかけるように新一は言った。
「平次の失敗談?」
「そう。あいつばっかり俺の失敗談を知っているのが悔しいんだよな」
「工藤君に失敗談があるゆうんはあんま信じられへんのやけど……。平次のなら、そら山のように知っとるで。いっくらでも教えてあげるわ」
 和葉が楽しそうに笑って付け加えた。
「平次が格好ええんは、事件の時だけやから」
「……俺も昔、蘭にそんなことを言われたような気がする」
「似とるんやねぇ、二人は。あ、工藤君は、普段でも格好ええよ」
 苦笑して否定しようとした新一を和葉が見上げた。
「はよ記憶が戻るとええね」
 真剣な目をした和葉に、新一は小さくうなずいた。




「あれ? 新一は?」
 後ろから声をかけられて、平次は目を覚ました。蘭が大きな袋を抱えて横に立っている。平次は大きくのびをした。腕の関節がぱきぱきと鳴る。
「なんや買うもんがあるゆうて入ったきり出てこんのや」
「レジ、すっごい混んでるから時間かかるわよ、きっと」
 席を詰めて蘭が座るスペースをあける。荷物を足下に置いた彼女が平次を振り返った。
「服部君。昨日、新一に何かあった?」
「……まぁ、ちょおな」
 確かに、あった。
 蘭たちには話せない内容だが。
「今日の新一、なんか吹っ切れたような顔をしているのよ。すっきりしたって言うか、落ち着いたって言うか」
 上手く言えない、と蘭が首をひねる。
「……さすが、幼なじみやな」
「そんなことないって。でも、やっぱり新一を服部君に会わせたのは正解だったかなって思ってる」
 蘭が少し寂しそうに笑う。
「私じゃ、新一は変えられなかったもん。行方不明の時だって、私より服部君の方が新一の事情を知っていたし……」
「ややこしくて危ない事件やったから」
 平次は口を挟んだ。
 口裏を合わせていない部分だからよけいなことは言えないが、それでも新一が彼女を蔑ろにしていたわけでないことだけは、伝えておきたかった。
「話してもうて巻き込むわけにはいかんかったんよ。誰も。俺は自分から首を突っ込んだから、工藤も遠慮せぇへんかっただけや」
「でも」
「工藤はほんま蘭ちゃんのことを大事にしとったから。俺はそれをよお知っとるし。せやからあいつを責めんといてやってや」
「……うん。でも、もうその事件は終わったんだよね?」
「終わったで。せやから工藤も帰ってきたんや。まぁ、記憶喪失になってもうとるけど」
「どんな事件だったの?」
 ひたと蘭に見つめられて、平次は言葉に詰まった。
「俺からはよう話せん。工藤の記憶が戻ったら訊いてみ」
 平次は逃げを打った。しかし、蘭は突っ込んではこなかった。
「そう。じゃ、新一を問いつめてみようかしら。記憶が戻ったら」
 蘭が目を落とす。
「なんで忘れちゃったのかなぁ」
「工藤もそれが知りたいゆうてたよ」
「思い出してほしいな」
「せやな。今晩またいろいろ話してみるわ。思い出すきっかけになりそうなこと」
 平次は顔を上げた蘭に向かって笑って見せた。
「制限時間いっぱいまで使わしてもらうわ」
「よろしくね」
 やっと蘭が笑った。





 きらびやかなハリウッドマジックは見応えがあった。
 ショーを見てから帰途につく人波が、ライトアップされ昼間と印象を変えたハリウッドエリアを埋め尽くしている。
 その中へ流されるように入っていこうとしたとき、新一が立ち止まった。
 隣にいた彼の姿を探して平次が振り返ったときには、彼は五メートルほど後ろで横を向いていた。新一は信じられない物を見るような目をして、何かを見ていた。
「工藤! どないした?」
 雑踏の音に紛れないように声をかける。弾かれたように新一が振り返った。
「悪い、先に出ておいてくれ! すぐ行くから」
 それだけ言うと新一はさっき見ていた方へ、人波をかき分けるように走っていってしまった。立ち止まった平次を迷惑そうに他の客がよけていく。
「なんや。トイレか?」
「ちゃうやろ」
 いつの間にか平次の横にいた和葉が横を指した。そこにはトイレを示す標識。
「……やだ」
 蘭の声がした。
 振り返ると口元に手をやった彼女が、新一の消えた方を見つめて固まっている。
「どないした、蘭ちゃん」
 和葉が蘭をのぞき込む。
「新一がいなくなったときと似てたの、今。トロピカルランドでもさっきみたいに走っていっちゃって、それっきり……」
「二人とも、そのへんで待っとれ!」
 蘭の言葉をすべて聞かずに平次は走り出した。
 朝見たあの夢が、頭の中をよぎる。
 立ち去る彼を見送るしかなかった、夢の中。
 追いかけることの出来ない足を、伸ばせない腕を、どれほど呪ったことか。
 今は違う。
 走ることも、捕まえることも、声をかけることだって出来る。
 あの夢を正夢にはさせない。
 現実世界でもう二度と彼を失いたくないのだ。
 平次は人垣の向こうにちらりと見えた新一の背中を追いかけて、彼の消えた建物の陰に駆け寄った。




 ふと、横を向いたら、胸騒ぎがした。
 身体の内側に鳥肌が立つような感覚。
 パーク内の建物と建物の隙間に、なぜか見覚えがある。
 頭では、絶対に初めて来るこの場所に既視感を感じる方がおかしいとわかっている。だが、感情が言うことを聞かない。強烈に主張するのだ、知っている、と。
 新一の様子に気がついて声をかけてきた平次も、幼なじみもおいて、新一は自分の感覚を確かめるために走ったのだ。

 隙間の前には「関係者以外立ち入り禁止」と日本語と英語で書かれていたが、新一はそれを無視した。慎重に中をのぞき込む。
 細長い通路のようなところ。なぜか舗装されていない。もちろん誰もいなかった。通路の向こう側は開けているようだ。外灯の光が差し込んできている。
 胸騒ぎは収まらない。
 それどころか、ますますひどくなった。

 ここを抜けたところに、何か、ある……!

 歩を進めるごとに、その思いは強まった。
 首筋がちりちりするような、緊張感。無意識に握りしめた掌にはじっとりと汗をかいている。
 だんだんと歩くのが速くなる。
 最後には駆け足になって、新一は通路を抜け、建物の裏を覗いた。

 あるはずのモノが、なかった。

「な……?」
 くらりと眩暈がして、膝をつく。
 よろけて手が地面に触れたとたん、新一の脳裏にフラッシュバックが起きた。

 黒い服。
 金。
 頭に走った激痛。
 薬。

 湿った土の香りと、青臭い草。

 新一は両手を地面についたまま、目を見開いた。

 思い出した。
 思い出した、すべて。
 何を忘れていたのか。
 何を忘れようとしていたのか。

「工藤!!」
 後ろからかかった声に、新一はびくりと肩をふるわせた。




 新一の消えた通路をのぞき込んだとき、奥に人影が見えた。
 外灯に照らされたその姿は、間違いなく新一のもの。
 そして、彼は、うずくまってるように見えた。
「工藤!!」
 声をかけて駆け寄る。
 四つん這いに近い格好をしていた彼が、のろのろとした動作で立ち上がった。緩慢な動作で手に着いた土を払う。
「どないした? また、なんかあったんか?」
 新一はうつむいたまま、平次と目を合わせようとしない。
「工藤」
 肩に伸ばした手はかわされた。行き場を失った指を固く握りしめて、平次はもう一度声をかけた。
「工藤」
「悪い」
 応えた彼は、やはり平次から目をそらしている。
 平次は強引に彼の肩をつかみ、顔を自分の方へ向かせた。
「工藤」
 やっと新一が顔を上げた。そこにつらそうな表情が浮かんでいるのを見て、平次は彼の肩から手を離した。
「ちょっと収拾がつかない。時間をくれ」
「わかった」
 落ち着けば、話してくれるかもしれない。ここで何を視たのか。
 平次は新一を促して、通路の出口へ向かった。
 そこには、心配してきてしまったのだろう。蘭と和葉の姿があった。




 蘭と和葉とは電車内で別れ、新一と平次は夜道をのんびりと歩いていた。
 幾分風が出てきて、すごしやすくなってきている。
 平次は隣を歩く新一の様子をそっと窺った。
 USJでの一件の後、新一の口数が減った。蘭や和葉の前では普段通りの顔を見せているのだが、平次と二人っきりになったとたん、最低限の受け答えしかしなくなってしまったのだ。考え事をしているのか、うつむき加減の表情はどこか硬い。
「そういや、誰に土産を買うたん?」
 新一はしっかり土産物の袋を抱えている。
「博士と少年探偵団に」
 必要なことだけ答えて、また新一が口を噤む。

 話しかけない方がいいかもしれないと平次が思いかけたとき、大きく息をついて新一が口を開いた。
「おまえは何も買わなくて良かったのか?」
「近いしな。また行く機会もあるやろ」
 驚きつつ、答える。そして、無性に嬉しくなった。新一はどうやら思考の世界から帰ってきたらしい。
「まぁ、これがディズニーランドやったら、なんか買うとるやろうな」
 平次の口から軽口が滑り出る。
 それに新一が含み笑った。その表情もまた、昼間の彼のもの。
「おまえの部屋にミッキーマウスのぬいぐるみとかあったら、異様だろうな」
「そないなもんは頼まれても買わんわ!」
 新一が肩を揺らして笑っている。
 静かな住宅街なので、声が少し響く。
「そういえば、部屋にはなかったな、アレ」
「アレ?」
 新一の言葉が何を指しているのかわからず、平次は彼の顔を見た。
 夜の闇にも紛れてしまわない白い顔に、彼は照れたような笑みを浮かべていた。

「K3の事件の時の、サッカーボール。下手くそなリフティングはあれから少しは上手くなったか?」

 平次は思わず立ち止まった。
 新一も立ち止まった。
 新一が頭をかいて、平次から目をそらす。
「……帰る間際の、あのとき、思い出したんだ。ちょっと混乱してて、話し出せなくて」
「工藤!!」
 平次は思いっきり新一を抱きしめた。
「思い出してくれたんか!」
 感無量状態の平次に抱えている土産ごと抱き潰されそうになった新一が叫んだ。
「抱きつくなって言っただろうがっ!」
 次の瞬間炸裂した新一の蹴りが、平次のすねに──大阪城で蹴られた同じ場所に──決まった。
「痛ーーっ! 抱きつくぐらいええやん! めでたいんやし。それにそこ、痣になっとるんやで!」
 平次はすねを抱えて座り込んだ。
「だったら一回で懲りろよ。だいたいあのとき二度と人前でしないって言っただろうが!」
 新一は平次の前で仁王立ちになっている。
 その顔は夜目にもわかるほど真っ赤だ。
「ええやん、別に外でも誰もおらんのやし」
 夜道を見渡して、平次はとっさに口を押さえた。見上げれば新一も焦った顔をしている。
 静かな静かな住宅街で男二人が叫んでいたのだ。しかも、聞きようによってはアヤシイ内容になる言葉を。
 平次と新一は顔を見合わせ、そこから脱兎のごとく逃げ出した。



 二区画分ほど走って、ようやく歩調を戻す。
「焦った……」
 平次は息を整えてつぶやいた。
 それを新一が横目でにらんできた。
「状況を考えろよな」
「叫んだんは、工藤やろ?」
「叫ばせるようなことしたのは誰だ?」
「……しゃあないやん。嬉しかったんやし」
 そう言うと、新一が恥ずかしそうに頬をかいた。
「今回のことは、悪かった。迷惑かけたし……、心配もさせちまったみたいだし」
 平次は新一の肩をたたいた。昼間抱えていた矛盾がどこかへ吹っ飛んでしまうほど嬉しくて、平次はにやけた。
「もうええって。思い出してくれたんなら、それで全部チャラや。ほんま良かったわ! なんで思い出せたん?」
「コナンになったきっかけを話したことがあったよな? それとよく似た景色を見たとたん、いきなり記憶が戻った」
「そんであんときおかしかったんか」
 あの薄暗い建物の陰で、新一は平次の顔を見ようとしなかった。
 新一が薄く笑ってうなずいた。
「なぁ、ひとつ訊いてもええか?」
 平次は新一の顔を覗いた。
「……なんで、忘れたん? コナンのこと」
「わかんねぇ」
 答えはたった一言だった。
 やはり、解毒薬のショックか過労のせいだったのだろうか、と平次は思った。
「なんにしても良かった! 今夜は飲もうな。祝い酒や!」
「……酒好きだな、まったく」
 そうあきれたようにつぶやいた新一は、なぜか透き通るような笑みを浮かべていた。




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