記憶の彼方
(8)
部屋の空気はエアコンで冷やされていて、風呂上がりにかいた汗もきれいに引いた。その代わりに、机の上に乗っている缶ビールたちが汗をかいている。すでにひとつは空だ。平次が一気に飲み干してしまったから。
平次は座布団に座って足を投げ出し、入り口わきの本棚に寄りかかっていた。天井まで届くそれは部屋の壁の半分を占めている。いつの間にか増えてしまった小説や、事件の捜査に役立ちそうな書物たち。
『父さんのも持っているんだな』
この部屋に入った記憶をなくした新一が、コナンの頃とまったく同じことを言ったのは、昨日だった。
それが遠い昔のことのように思えて、平次は苦笑した。
新一は記憶を取り戻した。
コナンの頃のことを思い出してくれた。
だが、記憶を失っていたときには見せなかった、透き通るような笑みを見せるようになってしまった。
夢の中で見たあの微笑を現実の彼が浮かべるたびに、平次はぞっとする。
夢が、正夢に変わりそうで。
あのあと、夜の道を二人並んでのんびりと歩いて帰った。
話題はつきなかった。
勉強のこと、進学のこと、事件のこと。果ては互いの失敗談まで。
家までの道があれほど短いと感じたことはなかった。
新一が例の微笑を浮かべたのは、進学の話をしているとき。
東京の大学も受けるつもりだと平次が告げたときのことだった。
「なんでわざわざ?」
「ものは試しや」
怪訝な顔をしている新一に平次はあっさりと答えた。
「おまえのせいで落ちるやつもいるんだぜ?」
「お! 受かると思うてくれとるんや」
「……おまえを簡単に落とすような大学はそうざらにないだろ」
「おおきに!」
笑った平次に冷たい視線が返ってくる。
「褒めた気はねぇぞ。けど、おまえの場合、とんでもないミスで落ちそうだよな。受験会場に行く途中に事件に巻き込まれるとか。答案用紙に名前を書き忘れるとか」
「あほ! せやけど、事件の方はしゃれにならんなぁ。それは工藤にも当てはまる。ちゅうか、危険度はおまえの方が高いんやないか?」
「うるせぇよ。けど、いいのかよ。西の探偵まで東に出てきて」
「大阪の探偵は俺ひとりやないんやし」
「まぁな」
新一が肩をすくめる。投げやりな彼に平次は絡んだ。
「……なんや? 俺が上京するとまずいことでもあるんか?」
「いや、そんなことはないよ」
そう言って新一は、微笑したのだ。
記憶を取り戻していない頃に見せていた、寂しげな笑みとは違う。
泣きそうなあの表情にも不安をかき立てられたが、今見せる儚い笑みの方が平次にとっては怖い。
平次は棚の仕切に頭をもたせかけた。背中がごつごつするが、慣れているので気にならない。
なんで、あんな顔するんや。
記憶を取り戻して嬉しくはないのだろうか。
やはり忘れたいことがあって、記憶を封じ込めていたのだろうか。
その新一は今、風呂に入っている。
先に入るように声をかけたのだが、荷物の整理をするからと断られたのだ。もうそろそろあがって平次の部屋に来るだろう。酒を飲む約束を取り付けてあるのだから。
聞き出せるようなら、聞き出したいんやけどな。
平次は半ばあきらめつつ思った。
新一はそう簡単に自分の胸の内を明かさない。コナンの頃からそうだ。昨夜は例外中の例外だろう。
平次はこみ上げてきたあくびをかみ殺した。
寝不足にUSJでの疲れが重なって、普段ならただの水分補給になるビールのアルコールが回ってしまったようだ。
平次は重くなった瞼をこすった。だが、眠気でぼやけた視界は元に戻らない。
工藤が来たら起こしてくれるやろ。
平次は睡魔の誘惑に負けて、目を閉じた。
新一はそっと平次の部屋のふすまを開けた。エアコンの涼しい風が頬をなでる。
外から声をかけても応えがなかったので、部屋には誰もいないのかと思ったのだ。
だが、部屋の主はいた。ほぼ目の前に。
出入り口脇の大きな本棚に寄りかかって眠り込んでいる。
「服部……?」
新一は小声で呼んでみたが、反応はない。そのまま部屋に滑り込んで、後ろ手にふすまを閉める。
新一は気配を殺して平次の横に膝をついた。
座布団に座り足を畳の上に投げ出し、今にも崩れ落ちてきそうなほど本の詰まった本棚を背もたれにして、平次は寝にくそうな格好で眠っている。腹の上に緩く組んだ腕。本棚に預けるようにして傾いた頭。わずかに開いた唇からは安らかな寝息がこぼれていた。
平次の向こう側にあるテーブルの上には缶ビールが六本乗っていた。そのうちひとつはすでにプルトップが引き上げられている。
それを目の端に見て、新一はちいさく笑った。
ひとりで飲んで、寝ちまったのかよ。
朝から彼は眠そうだった。
夢見が悪かったなどと、彼らしくもないことを言っていた。
そうでもないか。前にもあったな。
新一は懐かしい思い出に目を細めた。
初めて平次の呼び出されて大阪に来たとき。
あのとき彼が自分を招いた理由が、やはり夢だった。
俺が刺される夢なんて、縁起でもねぇ夢を見やがって。
実際あのとき死にかけたのは、おまえのほうだったじゃねぇか。
「服部」
わずかに近寄り、ささやきかける。
眠る彼を起こさないように細心の注意を払って。
新一は彼の額にかかる髪をかき上げてやろうとして、手を止めた。
触れてしまったら、彼は起きてしまうかもしれない。
普段なら気配には敏感なはずなのだ。
自室で、しかも、近づく相手が自分だから。
だから、目覚めないのだろう。
少しうぬぼれて、新一は苦笑した。
伸ばした腕を彼の後ろの本棚につく。
そのまま平次の顔をのぞき込んだ。
整った、浅黒く精悍な顔。
豊かな表情の裏に、探偵の鋭い目を隠し持つ。
自分をライバルと呼んではばからず、それを自分に認めさせた男。
もう一度、新一は彼に手を伸ばした。
決して触れないように、手を彼の頬に沿わせる。
ぬくもりがわずかに伝わってくる。
こいつ、体温高いよな。
平次の腕の中を思い出して、新一は唇をかんだ。
もう二度と、彼に抱きしめられるようなことはないだろう。
少なくとも、自分から触れることは出来ない。昨夜のように。
すべてを思い出してしまった今はもう。
彼への想いを思い出してしまった今はもう。
いったいいつから抱え込んでしまった想いなのか、新一は覚えていない。
気がついたときには、平次のことが気になっていた。
頼りになる相棒に対して恋愛感情を持っていると自覚したのは、蘭が自分から離れていったときだった。
想いを自覚した瞬間から、新一には結末が見えていた。
常識に外れた想いは、隠し通すしかない。
平次のそばにいたいのなら。
報われない想いが胸を焼き、苦しくて苦しくてしょうがなかった。
出会わなければ、こんな思いもしなくてすんだのにと。
忘れてしまえば、楽になれると。
心の底から思っていた。
結局、忘れたままではいられなかったけどな。
新一は平次を見つめた。
彼はまだ無防備な寝顔を新一の前にさらしている。
新一は指先を平次の唇に近づけた。
遠山さんを見ると心が苦しくなったのも。
おまえを懐かしいと思ったのも。
全部、閉じこめきれなかった想いの名残だったわけだ。
自らの意志で封印した記憶を、結局自ら解き放った。
そして今また、同性の友人に対しての想いに苦しめられている。
指先にかかる吐息だけで、心臓が痛くなるほど。
触れてしまいたい。
唇にも。黒髪にも。さらけだされている首筋にも。
自分の指で。唇で。
新一は固く目を閉じて、平次から身を遠ざけた。
これ以上そばにいると、自制が利かなくなってしまいそうだ。
新一は大きく深呼吸をした。吐き出す息がふるえて、苦笑する。心臓がまだうるさいほど鳴っている。そのせいだろう。
机の上の缶ビールが視界に入って、新一は喉の渇きを思い出した。平次の足をまたぎ越え、まだ充分冷たい缶を手に取る。
もし、と新一は思った。
ここにあるビールをすべてひとりで飲み干して、酔った振りをして平次に絡んだらどうなるか。
目の前の優しい男は、昨夜と同じように笑って受け入れてくれるかもしれない。
明日、東京へ帰れば、今度いつ会えるかわからない。
彼の東京の大学を受けるという話も、いつ立ち消えになるかわからない。
こうして二人きりでいられる時間など、この先どれぐらいあるのかわからない。
だが。
そんなことをすれば、よけい苦しくなる。
彼に対する渇きが、ひどくなるだけのこと。
もしかすると、麻薬の常習性に似ているかもしれない。
これで最後、これで最後と何度もそう思いながら、手を伸ばさずにはいられなくて、いつか必ず身の破滅を招く。
未来が見えているのなら、初めから手を出さなければいいのだ。
新一は平次の寝顔を見つめて、そっと微笑んだ。
平次の恐れる、透明な微笑だった。
結局一本だけビールを空けた新一は、もう一度平次のそばに寄った。
起こすのがかわいそうなほど彼はよく眠っている。
新一は腕を組んでいる平次の指先に手を伸ばした。
殴りかかった新一の拳を軽く受け止めた掌。
剣道をしているせいか、彼の指は節が目立つ。爪がきれいに揃えられているのも、武道家らしい。
細く白い自分の指と比べると、彼の指は無骨に見える。
だが、新一にはそれがいとおしく思えた。
『手を見ればその人の職業がわかる』
ホームズがそういうように、手にはその人の歴史が出るのだ。
二十年も生きていないが、それでもそこにはそれなりの生き様が出る。
今は見えない彼の右手の甲には、幼なじみが彼のためにつけた傷がある。新一が平次のことをあきらめようと思った一因にもなっている傷。男の自分よりも、平次のことを本当に大事に思っている和葉とのほうが、彼は幸せになれると思ったから。
だが、その彼女を平次は振ってしまったらしい。
だからといって、平次が自分を振り返ってくれるとは、絶対に考えられない。平次がノーマルであることはよく知っている。
新一は平次の顔を見つめながら、そっと彼の手を取った。
起きないことを祈りながら、指先にキスを落とす。
服部。
俺は好きになった相手を間違えたと思ったことはない。
だけど、おまえをこの想いの中に引き込む気はないから。
だからせめて、抱え続けることだけは許してくれ。
平次の手を下ろして、新一は彼の肩を揺すった。起きてもらうために。
揺さぶられて、平次はぼんやりと目を開けた。
焦点の合わない視界でも、目の前に新一の顔があることだけはわかった。
新一がふわりと笑う。
透き通るような、儚い笑顔。
また、あの夢や。捕まえんと、工藤が消えてまう。
平次はとっさに彼に向かって腕を伸ばした。
「工藤!」
目の前の身体は消えることなく腕の中に収まった。
平次は彼をきつく抱きしめた。
「どこへも行かんといて」
新一が暴れ、腕から逃れようとする。だが、平次はそれを許さなかった。
放したら、消えてまう。
「服部、苦しい!」
「消えんてゆうて」
平次は新一の肩に顔を埋めて頼んだ。
「黙って俺の前から消えんて」
「……服部」
新一の抵抗がやんだ。彼のささやきがかすかに聞こえる。
「消えたりしねぇよ。もう、逃げようとは思わねぇよ」
「置いて行かれるのはもう耐えられへん。どこへ行こうとかまわんけど、そんときは俺にも声をかけてや。追いかけて行くさかい」
新一が身じろぐ。平次は抱きしめる腕をゆるめた。だが、放そうとは思わなかった。
「服部。今回のことは本当に悪かった」
平次はやっと新一の肩から顔を上げた。
視界が広がり、周りを見る余裕が出来る。
見慣れた自分の部屋。
あまりにも実感のありすぎる新一の身体。
赤くなった彼からはアルコールと石けんの香りがしている。
平次は唖然として目を瞬かせた。
「……これ、夢、ちゃうん?」
目の前の新一の顔がこれ以上はないぐらい赤くなった。
「てっきりまた工藤の消えてまう夢かと」
「夢って、おまえ……!」
新一が絶句する。
至近距離で見つめ合って、二人はしばらく固まっていた。
新一が平次から顔を逸らした。
「おまえのやることは突拍子がなくて予測が出来ねぇ」
放せと騒ぐこともなく、新一がつぶやく。
彼の白いうなじが平次の目に飛び込んできた。
内からにじむようにほんのりと赤く染まった細い首。
柔らかそうな耳朶。
そして、Tシャツの首周りからのぞいている鎖骨の影。
平次の心臓が突然自己主張を始めた。
言葉をなくしている平次を不審に思ったのか、新一が振り返る。
流れるような眼差し。
瞬くまつげ。
呼びかけるために動く唇。
すべてが、平次の目にはスローモーションに見えた。そして、細切れされ、焼き付く。
触れたい。
ただ、そう思った。
唇を自分の唇で塞いで、思う存分味わって。
首筋に舌をはわせて、耳朶を甘噛みして。
白い肌の上に、緋色の痣を花のように散らしてみたい。
自分の腕の中で、彼はどんな声を上げてくれるだろう。
「はっとり?」
新一の声で平次は我に返った。
腕の中にいるのは、友人。
大事な親友だ。
なに考えてとるんや、俺は……!
平次はとっさに新一を突き放した。
畳の上に放り出され、危うくふすまにぶつかりそうになった新一が、驚いた顔で平次を見た。
「なんだよ、いきなり」
「あ、いや、す、すまん」
平次は新一から距離をとろうと本棚に背中を押しつける。
頭がくらくらして、心臓が爆発しそうだ。
嘘やろ! しっかりせい、俺!
「突然抱き寄せるし、放すときは突き飛ばすし。まだ寝ぼけているのか?」
新一が立て膝をして平次の横に寄ってきた。
それだけで、息が止まりそうになる。
「ちゃう!」
「そうはいうけど、おまえ顔赤いし……。湯冷めして風邪でも引き込んだか?」
新一の手が平次の額に伸びる。それを平次はたたき落とした。
「服部!」
平次を見下ろす新一の眼差しがきつくなる。
真剣なそれに平次は吸い込まれそうな錯覚を起こした。
あかん! このままやったら、俺……!
平次は必死に笑って見せた。自分でも上手く笑えたようには思えなかったが。
「そ、そうやねん。ちょ、ちょお、熱あるみたいや。移すとあかんから、今日はもう部屋に戻り、工藤」
うわずる声を押さえつけて、平次はどうにか言葉を紡いだ。
心配げだった新一の表情が、怒りにすり替わる。
「嘘をつくな、服部。おまえはただでさえ嘘が下手なんだぞ。そんなやつが思いつきでつく嘘が俺に通じるとでも思っているのか?」
低い声。
新一が本気で怒っているのだ。
平次は泣きたくなった。
新一の目は、偽りを見抜く。
誰よりもそれを自分は知っていた。
だが、彼の瞳がこんな形で自分の首を絞めることになろうとは。
新一に見抜かれないような嘘をつきとおすか。
真実を明かすか。
二つに一つ。
平次をにらみ据えたまま、新一が平次のほうへ身を屈める。
「寄るな、工藤」
新一が平次を見る。拒絶の言葉なのに彼の目から幾分怒りが薄れたのは、平次の目の中に偽りがなかったからだろう。
「それ以上、俺に近寄ったらあかん」
「……なんだよ、それ」
驚いたように新一の瞳が揺れる。
哀しそうな、自嘲ともとれる笑みをうっすらと口元に刷いて、新一がゆっくりと平次から離れた。
彼に向かって伸ばしそうになる手を握りしめることで押さえつける。
「俺、今、ちょおおかしいねん。せやから、もう今日は寝ようや」
息を整えて平次は言った。
一晩おいて頭を冷やせば、収まるかもしれない。
この、同性の友人を抱きたいという衝動が。
「……俺も昨日はおかしかった。でも、おまえは相手をしてくれたじゃないか。悩んでいるおまえに俺はなにもしてやれないのか?」
新一の真剣で哀しそうな瞳がかえって平次の熱を上げる。
「ちゃう! ちゃうねん。今は一緒におったらあかんねん。おまえのためなんや、わかってくれや」
「それじゃわかんねぇよ」
新一が首を振る。
「服部!」
訴えかけてくる瞳が声が、平次を追いつめる。
抱きたい相手がすぐそばに、腕を伸ばせば届くところにいる。
理性が焼き切れそうだ。
「服部」
新一が平次の腕をつかんだ。
平次はたまらず叫んだ。
「工藤! 離れてや、頼む。そばにおったら俺、おまえを襲ってまうで!」
新一が目を見張り、固まった。平次の腕から彼の手が落ちる。
平次はやりきれない気持ちで新一の驚いた顔を見つめた。
「……はよ、離れてや。俺はおまえを傷つけたくないんや。このままやったら、ほんまやばいんよ」
せやから。
そう言いかけた平次を新一が遮った。
「なんで、そんな風に……」
新一は平次から目を離してくれない。
見つめ合っているだけで、臨界点を越えてしまいそうだというのに。
「そんなん! そんなん、おまえに惚れてもうてるからに決まってるやないか」
昨日、キスをしたい衝動に駆られた、あのときから。
いや、たぶん、それ以前から。
「俺は今まで女にしか惚れたことはないわ。けど、男やってわかっとるのに、おまえが欲しい思うとる。一晩寝て頭冷やしたら、ましになるかもしれへん……。頼むから、はよ部屋へ帰ってくれへんか」
新一が動いた。
部屋に帰るためではなく、平次のそばに寄るために。
立て膝をした彼が、座り込む平次の横に来た。
平次は固く目を閉じて、新一から顔を逸らした。
「くんなや!」
「はっとり」
叫んだ平次の声と静かな新一の声が重なった。
「服部。目を開けて、俺を見てくれ」
「いやや!」
見たら、囚われる。
親友を襲って自分のものにしてしまいたいという衝動に。
「服部、頼むから。俺がおまえを嫌うことはないから。だから、目を開けろ」
平次がおそるおそる目を開くと、微笑んでいる新一の顔があった。
柔らかな光をたたえた瞳が真っ直ぐに平次を見つめている。
平次は、新一に見惚れた。
頭の中で警鐘が鳴っている。
だが、もう、目が逸らせなかった。
「なぁ、頭を冷やさなくていいと言ったら、おまえどうする?」
新一の手が平次の頬に触れた。そこが火で炙られたように熱くなる。喉がひどく渇く。
「おまえの気持ちが嬉しいと言ったら、どうする?」
ささやきとともに新一の手が平次の首に回る。
平次の身体の中をぞくぞくとした快感が駆け抜ける。腕が勝手に新一の腰に回った。
「……記憶をなくしたのはおまえのせいだって言ったら、どうする?」
「なんやて?」
平次はかすれた声で聞き返した。
新一の微笑に、自嘲の影が差す。
「親友に惚れてしまった自分を忘れたかったのだとしたら?」
平次は力一杯新一の身体を抱き寄せた。崩れるように新一が平次の腕の中に落ちてくる。
「工藤!」
「忘れたかったのに……。おまえから逃げようとしたのに、逃げ切れなかった」
「追うてやる。どこまででも」
腕に力を込め、頬を彼の頬に押し当てる。首筋から立ち上る新一のにおいに誘われて、平次はそこに唇を落とした。びくりと新一の身体が震えた。
「工藤」
耳元でささやく。
キスがしたかった。たまらなく。
「好きや、工藤」
腕をゆるめて新一の顔をのぞき込む。
新一が平次を見た。
霞がかったような瞳。
普段の鋭さがなりを潜めて、それはとても艶やかだった。
平次はたまらず新一の唇に自分のそれを押しつけた。
柔らかな感触だけで、下肢に痺れが走る。
平次がうながす前に新一が平次の舌を受け入れた。
舌先がふれあい、頭に血が上る。
覚えていたテクニックも忘れ、平次は夢中で新一の唇をむさぼった。
新一の指が平次の髪をまさぐり、背中の手が爪を立てる。
もっと深くと角度を変えた口づけの合間に、新一の細い声が上がった。
甘いそれに貫かれて、平次は情欲のままに新一を畳の上に押し倒した。
次の瞬間、大きな音が深夜の服部邸に響いた。
新一は驚いて目を開いた。
覆い被さっている平次と視線を交わす。
二人して音源を探して、固まった。
部屋のふすまが一枚はずれている。
倒れてこそいなかったが、傾いて廊下が見えている。ということは、逆に部屋の中も外から見えると言うことで。
押し倒された拍子に新一は何かを蹴ってしまったのだが、どうやらそれは入り口のふすまだったらしい。
「……おい」
ぱたぱたと廊下をこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
新一の身体を支配していた熱が一気に引く。
「おかんや!」
「どけ!!」
新一は平次を押しのけて居住まいを正し、平次はふすまを直しに立ち上がった。
「平次! なにしてますのや? 話し声だけや思うてたら、大きな音までさせて……」
凛とした静華の声がした。
外れたふすまの向こう側に静華の着物が見えている。だが、新一は彼女の膝より上に視線を上げられなかった。
「あー、ちょお遊んどったら、ぶつかってもうて……。なぁ、工藤」
平次は苦しい言い訳をしている。
「え、ええ。そうなんです。お騒がせしてすみません」
口元をぬぐいそうになる手を押さえこみ、新一は気合いを入れて静華を見上げた。ばっちりと彼女と目が合う。何をしていたのか見抜かれそうで、思わず新一は身を縮めた。
「いったい何をしとったらふすまがはずれるんや? 平次」
「え……、あ、プロレスごっこを……」
「ほんまですか? 工藤さん」
静華に聞かれて、新一は思いっきり首を縦に振った。
「そうなんです。ちょっとふざけてたら……。なぁ、服部」
「そうや。そうそう。ふすまはちゃんと俺が直しとくし。せやから、おかんはもう寝てくれや」
平次が母親を新一の視界の外へ追いやろうとする。
「僕もすぐ部屋に帰りますし。どうぞ休んでください」
「工藤さんもそういわはるんやったら……。二人とも明日起きるの早いんですやろ? 今日ははよ寝んとあきませんよ」
朝起きる時間をもう一度確かめてから、静華は自分の部屋に戻っていった。
新一と平次は安堵して脱力した。
ふと新一は正座をしている自分に気がついた。かなり慌てていたらしい。そんな自分に笑いがこみ上げてくる。両手で口を押さえ身体を折り曲げて笑い声を押さえる。
廊下側からふすまをはめた平次が部屋に戻ってきたが、顔を上げられなかった。
「……くどう。なにわろてんねん」
心なしか平次の声はすねているように聞こえる。
「い、いや、なんか……くくく……」
言葉が出ない。呼吸すら苦しくて涙が出てきた。一度堰を切ると止まらなくて、新一はあふれる涙を手でぬぐった
「泣くほど笑うことないやろ?」
平次が新一のそばにしゃがみ込んだ。
顔を上げてみると、やはり彼はすねていた。
「や、やばかったって、いうか、なんて、いうか。俺たち、すげー、間抜けだったよな」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、新一は笑った。
平次の腕が伸びてきて、新一の頭を抱き寄せた。
「……泣きなや」
「わり。涙腺、ぶっこわれたみてぇ」
滑稽で。
嬉しくて。
涙が止まらない。
何も言わずに新一の背中をなでていた平次が、やがてぽつりと言った。
「工藤」
「なんだ?」
新一はどうにか止まった涙をぬぐって顔を上げた。
「俺、東京の大学へ行く。一緒に住もうや。そしたら、さっきみたいに邪魔がはいることもないやろし」
にやりと平次が笑う。
「こっそりと同棲するってか?」
「いんや、正々堂々と同棲や! 結婚は法律上ちょお無理やろうからなぁ。あ、海外ならいけるんか?」
飄々ととんでもないこと言った平次に新一は目を丸くした。
「おいおい、正々堂々って、おまえ……」
「工藤はいやなんか?」
不安そうな顔になった平次に新一は思わず首を振った。それだけで平次の顔が輝く。
「おまえは、その、世間体とか気にしないのかよ?」
想いが通じ合って舞い上がっているとはいえ、平次はあまりにもあっけらかんとしている。
絶対に叶うことがないと思っていただけでなく、後ろ指さされるような恋だからこそ、忘れてしまいたかったというのに。
「そんなんがどうしたっちゅうねん」
平次がきっぱりと言った。
見惚れるほど強い瞳をして。
「俺は工藤のことが好きやし、工藤も俺のこと好きなんやろ?」
「お、おう」
勢いで答えて、新一は照れた。
「なら、ええやんか」
嬉しそうに笑って平次が新一を抱き寄せる。
「ま、言いふらしたりはせんけど、隠すこともないやろ。気になるんやったら、公私ともにパートナーやっちゅうことにしといたらええ。俺の親は、職業柄いろんな世界を見とるし、ちゃんと話したら納得してくれると思うんや」
穏やかな声で現実的なことを話す平次に、新一の心も前を向く。
どうにかなりそうな気がした。
「俺の親も海外生活長いから理解はあると思う」
「せやったら、大丈夫そうやな」
新一の肩口で少し笑い、平次は言った。
「なぁ、工藤。信じて欲しい思うてる相手にさえ信じてもらえれば、それでええんちゃうかな。世間一般には認められへんでも」
新一は大きく息を吐き出した。
すこし、笑えてくる。
自分がぐだぐだと悩んでいたことを、彼はあっさり吹き飛ばす。
「おまえって……。前々から思ってたけど、とんでもないやつだな」
「惚れ直したか?」
「あきれかえっているだけだ」
そういいながらも新一は平次の背中をきつく抱き返した。
暴走してしまわないように触れるだけのキスを交わして、新一は平次から離れた。
すっかり忘れ去られていた缶ビールがテーブルの上に水たまりを作っている。きっともうぬるくて飲めた物ではないだろう。
「せっかく工藤と飲もうと思とったのになぁ」
結局飲んだのは各自一本ずつ。
「また機会があるだろ」
新一は立ち上がった。そろそろ寝ないとさすがにまずい。名残惜しげにビールを見ていた平次も立ち上がる。
「せやな。次飲むときは工藤の家がええかな」
にっと笑った平次を新一はにらんだ。
「合格するまで来るんじゃねぇぞ」
受験よりも以前に、新一には高校卒業するための課題と試験がある。それが脳裏をよぎって、新一はため息をついた。
「なんでぇ。おあずけはひどいやんか」
「ニンジンはゴールしてから食うもんだ」
「ほんまなら今からでも食わしてほしいわ。工藤を」
新一はにんまりしている平次を蹴り上げた。
「俺はニンジンじゃねぇ! 同棲がニンジンだろうが! だいたい、なんでおまえが食うほうって決まっているんだよ? 俺がてめぇを食ったってかまわねぇだろ?」
少なくとも自分の方が長く彼のことを想っていたはずだ。
先ほどはつい流されてしまったとはいえ、自分が抱く側に回ってもおかしくはない。
下になることをまるっきり考えてもいなかったらしい平次を新一はもう一度蹴った。
「痛いって、工藤! せやかて、さっき下やったやんか! それに結構感じとったみたいやったし……」
新一は無言で蹴りつけた。今度は思いっきり。
さすがの平次も堪えたらしく、低くうめいて畳に沈んだ。
平次を上から見下ろして、新一は冷ややかに言った。
「そう簡単に抱かれてなんかやらねぇからな。俺も男だ。好きな相手を抱きたいと思うのは当然だろうが」
「好きゆうてくれるんは、嬉しいんやけど……。どうせ欲しがってくれるんやったら、やらせてくれてもええやんか」
畳の上でぶつぶつと平次がつぶやいている。
もう一回蹴ってやろうかと、新一は凶悪に考えた。
連休最終日もいやになるほど晴れていた。
まだ昼前だが、それでも新大阪駅の新幹線ホームは混んでいる。上りのホームの方が人影が多いのは、新一たちと同じように大阪観光に来ていた関東の人間が多かったと言うことだろう。
「いろいろとありがとう!」
蘭が平次と和葉に向かって笑った。
朝、新一の記憶が戻ったと聞いたときには涙ぐんでいたが、もうすっかり普段の彼女に戻っているようだ。
「ほんと、服部君に新一を会わせたのは正解だったわ」
「工藤のことならまかしといてや!」
平次がへらりと笑って応えると、蘭の横にいた新一が片眉をつり上げていやそうな顔をした。
結局昨夜の時点ではどちらが“下”になるかの決着はつかず、勝負は平次の上京後に持ち越しとなった。
相思相愛になった後の当然の成り行きなのに、お互い譲れないのでは仕方がない。しかし、平次は負ける気などなかった。
受験勉強だけやのうて、男の抱き方も勉強しとかな。
絶対、俺が、上や! いっくら工藤が相手でも負けへんで!
昨日ちらっと聞いた工藤のあの声、くせになりそうやったもんなぁ……。
そんな平次の内心を読んだように挑戦的な笑みを浮かべていた新一が、平次の隣の和葉に視線を移した。
「遠山さん、スヌーピースタジオでの件、頼むよ」
「え? もう思い出したからええんちゃうの?」
平次は和葉を見下ろした。その平次を彼女はちらりと見上げ、新一に言う。
「そら、別にええけど……。山ほどあるし」
「じゃ、よろしく」
自分には見せてくれないような笑顔を和葉に向けている新一に、平次は恨みがましい視線を送った。
「……工藤。なに考えとる?」
「いろいろ」
「勝負はフェアにいこうや」
「あったりめーだ。別にアンフェアなことをしようっていうんじゃないぜ。敵を知り己を知ればってやつだな」
「必勝を期すってゆうんか?」
新一が口元だけで笑う。
「俺も負ける気はあらへんからな」
平次はにやりと笑ってみせた。
「新一、完璧に戻ったみたいね」
蘭のあきれたような声が二人の間に割って入った。
「服部君も、なんだか初めてお父さんの事務所に来た時みたいになっているし」
「仲がええんか悪いんか……。ちゅうか、仲がよすぎるんやな」
和葉までため息をつく。
「そら、俺らはらぶらぶやからな! なぁ、工藤」
満面の笑みで言い切った平次に対する新一からの返事は、すね目掛けての蹴りだった。
大阪城で蹴られた場所を蹴られるのはこれで二度目。一日一回蹴られたことになる。さすがに声もなくホームにうずくまった平次の耳にアナウンスが聞こえた。
足を押さえながら立ち上がった平次と、らぶらぶの意味を捉え損ねて怪訝な顔をしている和葉に見送られて、東京の二人組は新幹線に乗り込んだ。
「受験が終わったら今度はうちに遊びにおいでよ。和葉ちゃん」
「俺の部屋、準備しといてな!」
「あたし、ディズニーシーへ行ってみたいわぁ」
「合格してからな」
目の前の扉が閉まった。
新一はホームへ残った平次と和葉に軽く手を挙げた。蘭は胸の前で小さく手を振っている。手を振り返してくる彼らの姿は、新幹線が加速し始めるとすぐに見えなくなってしまった。
新一は下に置いていた荷物を拾い上げ、蘭を促して席へ向かった。
窓際を蘭に譲り、新一は荷物を棚に上げてから席に落ち着いた。
リクライニングを調節して一息つく。
「ほんと、良かったね、新一」
「蘭のおかげだな。サンキュ」
穏やかな顔で微笑んでいる幼なじみに新一は感謝した。
彼女が強引に大阪に連れ出してくれなかったら、記憶を取り戻すこともなかったかもしれない。
帰ったら阿笠博士の家へ真っ先に行こう。
大阪に滞在中、博士と哀には電話すらしていないのだ。きっと心配していることだろう。あの二人にも本当に迷惑をかけた。
「あのね、ひとつ訊きたいことがあるんだ」
蘭が新一に向き直る。
「新一。行方不明の間、どこでなにをやってたの?」
「え?」
新一は頬を引きつらせた。
「行方不明の時に手がけていた事件が終わったから、新一は戻ってきたのよね? なら、もう話してくれてもいいと思うの」
「あ、いや、それはだな……」
「服部君が、新一が記憶を取り戻したら話してくれるだろうって」
あのやろう……!
新一の内心を知るよしもない蘭が詰め寄る。
「話せる部分だけでいいから、話してよ。新一」
「ええっとー……」
「しんいち?」
思わず視線を泳がせた新一の目に、流れ去っていく大阪の景色が映った。
終