記憶の彼方
(6)
信じられない結論に達し、どれぐらい時間が経ったのだろうか。
畳の上に座り込み呆然としていた新一の耳を、くぐもった音が打った。すぐ脇の、入り口のふすまが叩かれているのだ。
「工藤、入ってもええか?」
平次の声も聞こえる。
新一はのろのろと顔を上げた。
話を聞きたいと思っていた相手。願ってもない訪問だった。
「……おう」
だが、返事は重苦しい。
まだ混乱が収まっていない。
何をどう平次に話して良いか解らない。
だが、解っていることが一つだけある。
がっかりするよな……。
自分はまだ記憶を取り戻したわけではないのだから。
ふすまがすらりと開いて、スポーツドリンクのペットボトルとグラスを持った平次が部屋の中をのぞき込んできた。脇の柱に寄りかかっている新一を見つけて、彼は声をあげた。
「工藤! どないした? やっぱり具合が悪いんか?」
隣に膝をついた平次に新一は小さく首を振った。
「いや、そうじゃない」
「せやけど、ちょお顔色悪いんちゃうか? さっき廊下で座り込んどったって、おかんもゆうてたし。疲れとるんやったら……」
「違うって」
心配そうにまくし立てる平次を新一は遮った。
「別に具合が悪い訳じゃない。ただちょっと……、服部に確認したいことがあるんだ」
「確認したいこと? なんやねん。って、話をするんなら畳の上に座っとらんと」
平次がほっとしたように笑いながら立ち上がった。
「テーブルもあるんやし、飲みながらにしようや」
ホンマはビールのほうがええんやけどなぁ……、と平次はぶつぶつ言っている。客間の隅に寄せられていたテーブルについて、勧められるままに平次の隣の座布団に座った新一は、平次がグラスにスポーツドリンクを注ぐのを見つめていた。
「で、なんや?」
平次が、ペットボトルのフタを閉めながら訊いてきた。
「江戸川コナンって、俺だったんだな」
平次の手からフタが落ちた。
白いそれが木目のテーブルの上をカラカラと軽い音を立てて転がる。
振り返った平次の顔に浮かんだ本当に嬉しそうな表情を見て、新一は胸が絞られるような苦しさを覚えた。
「工藤!!」
明るい声を振り切るように強く頭を振る。
「違う! 違うんだ」
曇る平次の顔を見たくなくて、新一は顔を逸らした。
だが、これではっきりした。
やはり自分はコナンだったのだ。
「悪い、まだ思いだしてない……。思いだしたわけじゃないんだ。悪い、服部」
呟いた新一の視界の中に、グラスが差し出された。
顔を上げると、苦笑している平次の顔があった。
「工藤」
平次の声は深く優しい。
「これでも飲み。少しは気ぃも落ち着くやろ。話はそれからでええから」
ほれ、と勧められて新一はグラスを手に取った。
そのまま一気に飲み干す。興奮していたのか、ずいぶんと喉が渇いていたようだ。
平次が空いた新一のグラスをまた満たし、今度はしっかりフタをした。
「……記憶が戻ったわけやないんやな」
「あぁ」
新一はため息と共に返事をした。
「したら、何で?」
「推理した結果だ」
あー、と平次が片手で顔を覆った。
「根っからの探偵やなぁ、工藤は……。計算違いをしてもうたわ」
「計算違い?」
訊くと平次が決まり悪そうに笑った。
「コナンやったって気ぃついたら、記憶も戻るんやないかって考えとったんや。甘かったわぁ」
しもたなぁ、と言いながらも平次は笑っている。
期待を裏切ったというのに、彼は責めない。
責めないどころか、自分のミスだと笑う。
新一は平次から目を逸らした。
罪悪感と情けなさが入り交じって、居たたまれなくなる。
不意に肩を抱かれた。
驚いて顔を上げると、平次が咎めるような目で新一を見ていた。
「そないな顔すんなやって、昼間もゆうたやろ」
肩を宥めるように叩かれる。
暖かい腕と、瞳。
包み込むようにして、新一を癒そうとしてくれる、それら。
なんで、俺は、この男のことを忘れたんだ。
これまでに得てきた友人たちとはどこかが違う。
新一は平次をじっと見つめた。
「男前やろ、俺」
にっと平次が笑う。
「ばーろ」
反射的に新一は突っ込んだ。
「それに、なんなんだよ、この腕は! 抱きつくような真似は二度としないって言わなかったか? 大阪城で」
取った言質を突きつける。
平次の笑顔がにやりと質の悪いものに変わった。
「“人前で”が抜けとるよ、工藤。ここには俺らの他に誰もおらんのやから、約束を違えたことにはならんで」
「……呆れた野郎だ」
新一は盛大にため息をついた。
だが、平次の腕を払いのけるような真似はしなかった。
肩に乗る重みと温みを、手放したいとは思わなかったから。
抱いていた肩から力が抜けるのが解った。
それでも平次は、新一の肩から腕を外そうとは思わなかった。
ただなんとなく、このまま触れていたかった。
引き寄せたらそのまま自分の腕の中に収まってしまいそうな、新一の細い肩。
彼はこの姿に戻ってから、まだ一ヶ月も経っていないのだ。
「工藤。今日、きつかったんやないか?」
「いや、そんなことはなかったぜ」
答えは笑顔で返ってきた。それでも少し顔色が悪いように見えるのは平次の気のせいだろうか。
「しかし、本当に俺、小学生をやっていたのか?」
信じ切れていないのか、新一が真顔で訊く。
「やっとったよ。見事にな。工藤新一やって知っとる人間の前では、素に戻っとったけどな。……なんで気づいた?」
新一が苦笑してタネを明かした。
新一の推理に平次は舌を巻いた。
「既視感の視点とコナンの行動かぁ。さすがやな」
「おまえもヒントをくれたしな」
肩に回したままの平次の腕をどけようともせずに、新一が柔らかく笑う。
思わず抱き寄せそうになり、平次は慌てて腕から力を抜いた。
なにしとるんや!? 俺!
慌ててテーブルの上に載せたままのグラスを一気にあおる。
「で、なんで俺は子供になっていたんだ?」
新一は平次の動揺には気が付かなかったようだ。
安堵しつつ、平次は自分が知る限りの事実を伝えた。
組織のこと。
薬のこと。
灰原哀のこと。
少年探偵団のこと。
二人で解いた事件のこと。
コナンの頃に合わせていた口裏も、もう一度確認した。
「わかった。話題には気を付けるよ。……少年探偵団の連中にもなんかフォローしとかないとまずいかも知れねぇなぁ。哀ちゃんにでも相談してみるか」
聞き慣れない呼び方に平次は思わず笑ってしまった。考え込んでいた新一がちらりと平次を睨む。
「なんだよ?」
「いや、いっつも灰原て呼び捨てにしとったからな」
「そうなのか? どうも子供の格好をしているもんだから、ついな。しかし、おまえもよくコナンが俺だって分かったよな」
「元々妙な子供やて思っとたよ。決定打は、さっきもゆうた通り二回目に会うたとき。おまえが俺を眠らせて俺の声でしゃべっとるんを見たとき、や……」
そこまで言って、平次は吹き出した。
そのときの新一――コナンの様子を思いだしたからだ。
「なんだよ、気色の悪い笑い方をしやがって」
新一が怪訝な顔で睨んでいるのは分かっていたが、思い出が連鎖反応を起こして笑いが止まらない。
「あ、いやな、そん時の、おまえがやった、俺の関西弁の真似を、思いだしてもうてな……」
そこまで言って、平次はまた吹き出した。
アレは傑作だった。
「てめぇ……」
新一の声が剣呑な響きを帯びる。
趣味が悪いと分かっていても、こみ上げてくる笑いはどうやっても堪えられない。
新一が平次の腕を払いのけて、正面から睨みつけてきた。
「俺が何をしたんだよ?」
「け、けったいな、関西弁を使ったんよ。そらもう、寝たふりしとるのが辛いくらいの」
堪忍、と新一に片手拝みに謝って、平次は必死になって平静に戻ろうとした。その顔に新一の拳が飛んでくる。平次はそれを掌で受けた。
「……なんか、すげぇくやしいぞ。おまえが俺の失敗談を知っているのに、俺がおまえの話を忘れているって言うのは!」
「俺の話て……」
思い当たることが多くて、平次は言葉に詰まった。失敗というか、彼に心配を掛けたことならありすぎるほどにある。
豪華客船から海に落ちたり。
崖から落ちかけたり。
新一の文化祭に新一に変装して行ったとき――確か、「俺の振りをする気ならせめて標準語を話してくれ!」と言われた――は、失敗談に入るかも知れない。
現金にもすっかり思い出し笑いの退いた顔に、今度は取り繕うような笑顔を浮かべて平次は言いきった。
「それは、思いださんでええよ」
新一は、もう一度――今度は思いっきり――平次に向かって拳を繰り出した。
「バーロー!! なに都合の良いこといってんだよ!」
拳はまたしてもあっさり掌で受け止められてしまったけれど、怯まずに攻撃を繰り返す。立っているのなら、とっくに蹴り飛ばしているところだ。
「堪忍やって、堪忍!」
「ぜってー、思いだしてやる!」
「無理はせんでええって」
「ふざけるな!」
防戦一方にまわりながら、平次はそれでも笑っている。楽しそうに。
不意に、新一の心の中に、得体の知れないモノがこみ上げた。
既視感など及びもつかない、胸苦しくなるモノ。
……懐かしい。
とても、とても、懐かしくてたまらない。
俺は以前、こんな風にして、この男に感情をぶつけていたのだろうか。
突然動きの止まった新一を、平次が不思議そうな顔で見ている。
「工藤……?」
気遣うような言葉に……、いや、彼の自分を気遣う雰囲気に、また懐かしさがこみ上げる。
新一の振り上げていた手が、ぱたりと膝の上に落ちた。
「工藤、どないした?」
心配そうな平次の顔が滲んで見えて、新一は顔を逸らした。涙を悟られないように、前髪をかき上げる。
「なんでも、ない」
「工藤」
静かで低い平次の声は、それでもとても力強いもので、新一は促されるように彼を見た。
平次は、真っ直ぐに新一のことを見ていた。
「どないした?」
深い色をした瞳が新一の心を包み込む。
新一は淡く笑った。
「おまえが、懐かしいよ」
次の瞬間、新一は平次に抱き込まれていた。
力強く暖かい腕が、懐かしさと安心をもたらす。新一は彼にしがみついた。
「懐かしい……。こんなに懐かしいのに、なんで俺はおまえを忘れたんだ?」
平次の肩に額を押し当て、新一は情けなさに泣きそうになった。
「ちくしょう! なんで、なんで……」
「工藤」
平次の手が優しく新一の背中を叩く。
新一は唇を噛みしめた。
もう、言葉も出てこない。
口を開いたら嗚咽が漏れてしまいそうだった。
「工藤」
ささやくような呼びかけにも、だから新一は応えられなかった。
「俺は、おまえがそう思うてくれるだけで嬉しいわ。俺はおまえに忘れられたわけやないんやな。おまえの心の中に、ちゃんと居るんやな」
何も言わない新一を気にも留めないように平次が言葉を紡ぐ。
「今は、ちょおコナンの頃の記憶が入った引き出しが、錆びついてもうてるんよ、きっと。開きにくくなっとるから、思い出せへんだけやで。なんかの切っ掛けでちゃんと開くようになるて。大丈夫や、大丈夫」
優しくされると、かえって泣きたくなる。
新一は声が震えないようにめいっぱい自制して返事をした。
「気休めだな」
「ちゃうって!」
「けど」
平次の抗議を無視して、彼からゆっくりと身体を離す。
「けど、楽になった」
サンキュ、と言った途端に、新一はまた平次に抱きしめられた。
「服部!」
「工藤……。頼むから黙っといて」
懇願に新一は抵抗を止めた。
平次はひたすらに、新一にしがみつくようにしている。
エアコンの効いた客間。
それでも男二人が密着していれば、暑い。
「服部、暑くないか?」
「暑いな。……俺のせいやけど」
「分かっているなら、いい加減放せよ」
それでも新一は平次の腕をふりほどこうとは思わなかった。平次も動かない。
「誰かに見られたら、絶対誤解を招くぞ。おまえ。遠山さんに恨まれるのは嫌だからな、俺」
「なんでそこで和葉が出てくるん?」
「彼女だろ?」
「ちゃうわ!」
いきなり平次が離れた。
「ただの幼なじみや」
新一は目をすがめた。平次の焦りが誤魔化しに見える。
「俺にまで隠すことないだろ?」
「ちゃう!! ホンマにただの幼なじみやって! あいつを女とは思えんわ、近すぎて。家族に近いねん、ホンマに」
熱弁をふるう平次を新一はまじまじと見つめた。嘘を吐いているようには見えなかった。
必死な顔をしている平次は面白い。新一は顔がほころぶのを抑えられなかった。
「本当か?」
からかうと、平次が憮然とした表情になる。
「ホンマやって、信じろや」
新一は笑って、了解と頷いた。
「和葉で思いだしたんやけど、明日はどないする? なんか、USJに行きたいとかゆうてるんや」
「俺は別にかまわねぇよ。今日でコナンのときに行った場所は全部まわったんだろ? だったら、明日は別にどこへ行っても良いぜ」
連休中だ。どこへ行っても混んでいることだけは間違いない。
「わかった、あとでメールでも送っとくわ」
「それにしても」
新一はため息をついた。
「今日は悪かったな。色々連れて行ってくれたのに結局思い出せなかったし」
「無駄やなかったやん。コナンやったって理解してもろただけでも、俺としては一歩前進やって思うで。コナンの頃の思い出話でもしとったら、ひょっこり記憶が戻るかもしれへんで?」
「じゃ、聞かせてくれよ」
新一はテーブルの上に手を組んだ。
「どこからがええかな」
「そうだな。まず、馴れ初めからいこうか、俺たちの」
新一の科白に平次が笑い、そして話し出した。
平次が新一を捜して初めて上京したときのことを。
新一は聞き上手だった。
平次の話を促し、質問を挟む。平次がボケればちゃんと突っ込んでくる。
平次はスポーツドリンクで喉を潤しながら、覚えている限りの話をした。
それを聞きながら、新一がどこか淋しげに笑うのが気になってしょうがなかった。
「で、その剣道の試合はどうなったんだよ?」
「負けた。やっぱ大将の俺が居らんとダメやったらしいわ」
「しょうがねぇやつ! あとで袋だたきにされなかったか?」
「俺が事件を最優先させるんはみんな知っとったからな」
笑ってみせるとため息が返ってきた。
「おまえかてそうやろ?」
突っ込むと、新一が言葉に詰まる。
笑いながらふと時計を見た平次は、驚いた。平次の視線を追って時計を見た新一も固まっている。
「な、もう、二時過ぎとるやん! 寝んとまずいわ。この話の続きは明日の夜にでもな」
空になったペットボトルとグラスを持って立ち上がる。
新一も立ち上がった。
「じゃ、明日な」
平次のためにふすまを開けてくれた新一が、呟くように言った。
「コナンって結構幸せだったみたいじゃないか。なのに、なんで俺、そのときの記憶を無くしたんだろうな。てっきり何か忘れたい辛いことでもあったのかと思っていたのに……」
横顔が淋しい。
目を伏せて、口元に淡い笑みを浮かべている。新一が礼を言った、あの時と同じ表情。
平次はまた抱きしめたい衝動に駆られた。だが、両手がふさがっていて、出来ない。
「さっき話したんは、俺が見たコナンや。実際おまえがどう思って生活しとったんか、それはわからん」
「いや、幸せだったと思うよ。だからきっと、おまえのことが懐かしいんだ」
新一は笑っていた。
何かの拍子に泣き顔に変わってしまいそうな笑顔だった。
「工藤。また、そないな顔を……」
平次が無理に腕を伸ばす前に、新一が平次の肩に顔を伏せた。その背をグラスを落とさないように抱き寄せる。
「悪い。今夜はちょっとおかしいらしい。朝には元に戻っているから、蘭たちには何も言うなよ?」
「あたりまえや。今日はゆっくりやすみ。もう遅いから、はよ寝たほうがええ」
新一のついたため息が、平次の胸を流れた。
「本当に俺、なんでおまえのことを忘れたんだろうな」
平次は腕に力を込めた。
「さっきもゆうたやろ。工藤はなんも忘れてへん、思いだせへんだけや。大丈夫や。記憶はちゃんとおまえの中に残っとる」
「……そうだな」
ささやかれて平次は、新一の髪に唇を寄せた。
口づけを落とそうとして、はっとする。
俺は、今、なにを……!?
「じゃぁ、もう寝るから」
新一が肩から顔を上げる。平次は慌てて腕を放した。
「お、おう。おやすみ」
「おやすみ」
応えて新一がふすまの向こうに消えた。
平次はゆっくりと台所へ向かって歩き出した。
グラスを片づけて、ペットボトルを処分しておかないといけない。
頭の片隅でそんなことを考えながら、のろのろと歩く。
頭の中のほとんどは、今、空白だ。
思考力が無くなっていることを、平次は自覚していた。
先刻の自分の行動が理解できない。
平次はたどり着いた台所で蛇口をひねった。
迸る水でグラスを洗い、ペットボトルを濯ぐ。
身体が覚えている習慣は何も考えずに出来るのが良い。
俺は、いったい……。
冷たい水が顔にかかっても、平次の平常心は戻ってこなかった。