記憶の彼方

(5)






 新一は手すりの上に肘をついて、組んだ手の上にあごを乗せた。
 安全のためのネット越しに見える大阪の風景。
 眼下の公園には、夕方だというのに衰えない日差しの中を歩いている人たちが小さく見える。休日だからだろう、その数は多い。観光客なのか、地元の人の散策なのか、遠目からではよく分からないが。

 新一と平次は、大阪城に来ていた。
 平次に連れられるまま、エレベーターで展望台まで上がり、新一はまた大阪の景色を眺めていた。高いところにいるせいか、風は幾分ある。下にいるときよりは、まだ涼しい。

「全然ダメだ。なんにも見た記憶がねぇよ」
「ここで最後やったんやけどなぁ……」
 平次も手すりに寄りかかった。
 記憶を失う前に新一が来ているという場所を、平次は回ってくれたのだ。
 道々、以前の話も聞いた。
 だが、何も新一の心には引っかからない。
 二人は同時に息を吐き出して、視線を交わした。
「そんなら、ここにおってもしゃあないし、帰ろか」
「そうだな……」
 通天閣での強烈な既視感。
 アレを追いかけていけば、無くした記憶を取り戻せるか、それでなくても糸口ぐらいは見つけられると思っていたのだが。

 考えが甘かったか……。

 思わずため息をついた新一の頭を、平次が軽くこづいた。
「なぁに辛気くさい顔しとんねん」
 新一は頭を押さえて、恨みがましい視線を送った。平次はそれを笑顔で受け止めている。
「そない簡単に思い出せるようなもんやったら、わざわざ大阪に来んでもええはずやろ」
「……確かにな」
 新一は外に視線を戻した。
 明暗くっきりと分ける日差しが長く影を伸ばしている。いくら気温が高くても、真夏を過ぎた夕方なのだ。
「なぁ、服部」
 新一はぼそりと訊いた。
 気になっていたことを。
「俺、人を殺しているのか?」
 閉館時間が近いが、展望台は混んでいる。だが、その声は平次以外には届かなかった。
「……容疑者を自殺させてもうたって、聞いた。殺したようなもんやって、自分を責めとったんも確かや。けど……」
「それが、原因なのか……?」
 忘れたかったのだろうか、自分の犯した罪を。
「けどな」
 遮られた言葉を平次が続ける。
「同じ間違いを二度とせんようにしとった。その人の死を、無駄にはせんように」
 振り返ると、真剣な目をした平次が居た。
 睨まれているのかと思うほどの視線に、なぜか嬉しくなる。
「そうか、俺は逃げていたわけじゃないんだ」
 罪は罪として、受け止めていたのだ。
 ならば、原因である可能性は低いだろう。
 新一は軽く息をついた。




 平次は心なしか安堵した新一を見て、笑った。
「工藤は逃げへんゆうより、逃げ方を知らんのやろ。なんでもかんでも正面から受け止めてまう」
 不器用だと、そう思った。
 だが、そこが惹かれた理由の一つでもあることは確かだ。
 そして、記憶を失った今も、新一は以前のまま、逃げることをしようとしない。
 顔をあげて、前を見つめている。

「せやからきっと、今回のことは緊急避難なんやろ、心の」
 新一が神妙な顔で平次を見ている。
「受け止めきれないようなショックを受けたのか、俺は」
「さぁな。俺にはわからん」
 ちらっと見た腕時計の針は、閉館時間が間もないことを告げている。
 平次は新一を促してエレベーターへと向かった。

「なんでこないなことになったのか、俺もしりたいんよ」
「おまえにとって俺は何だったんだ? どうしてここまでしてくれるんだ?」
「前にもゆうたやん、ライバルで相棒やったって。おまえに会って、いろんな事を知ったし、経験もした。せやから、出来れば思い出して欲しいわけや」
 新一が押し黙る。平次はその肩を叩いた。
「けど、思い出すことが出来へんでもええんよ。そしたら、もう一回初めっからやり直しにすればいいだけやから」

 今まで積み重ねてきたことをすべて失うのは惜しい。
 しかし、新一がいるのなら、これからまた積み上げていくことが出来るはずだ。
「また相棒として認めて貰うわ」
 にっと笑うと、新一が呆れたような顔をした。
「自信満々だな。自信過剰とかいわれねぇ?」
「それが俺の取り柄の一つやねん」
 おどけた平次に、新一が声をあげて笑う。
 平次も笑いながら、彼と一緒にエレベーターに乗り込んだ。

 降りていく表示を見ながら、平次は隣に立つ新一のことを考えていた。
 落ち込んでいるのを見ると、笑わせたくなる。
 笑っている顔を見ると、嬉しくなる。

 なんか、ええな。工藤とおるのは。

 はっきり言って楽しい。
 なぜ新一が大阪に来ているのか、もちろん、そのことを忘れているわけではないけれど。
 何気ない会話のテンポも、話し方も、内容も。
 息が合うというか、心地よい。
 新一がすべてを思い出してくれるのが、最良だ。
 だが、もし、思い出すことが出来なかったとしても、この新一――コナンになる以前の新一とは違う彼――となら、また上手くやっていけそうだ。

 止まるごとに混み合うエレベーターで、押された新一が体勢を崩した。よろけた彼の腕を取り、引き寄せる。
「大丈夫か?」
「あ、サンキュ」
 驚いたように顔を上げ、照れ隠しにか視線を外す。
 その新一の様子に平次は口元に浮かんだ笑みを押さえ込むのに苦労した。
 良く動く表情は、コナンの頃よりも彼を子供っぽく見せる。

 コナンんときは、突っ張ってたんやろな。
 気ぃの抜けへん生活やったやろうし。

 新一に戻った彼は、どこか柔らかくなったように思う。
 記憶がないせいで不安げな表情を見せるのも、そう思う一因かも知れないが。
 階数表示を見上げる横顔は、贔屓目でなくとも整っていて人目を惹くものだ。華があるというのかも知れない。
 そこに浮かぶ、笑み。
 まだ以前のような親しさはないけれど、それでも。

 ええなぁ、やっぱ。

 もう少し二人でいたいが、夕食は家で摂ると伝えてあるのだ。
 事件でもないのにドタキャンなどしようものなら、あの母のこと、あとが怖い。
 下に着き、扉が開く。
 平次は新一の腕を取ったまま、エレベーターから降りた。


 城の外に出て、一息つく。
 強烈な西日が足下の影を伸ばしているが、気温はいっこうに下がっていない。
「大阪って本当に暑いな」
 手で庇を作って、新一が眩しげに公園を行き交う人を眺めている。
「そない違うか? 東京と」
「気のせいかも知れないけど、湿度が高いような気がする……」
 力無い笑顔に、罪悪感を感じる。
 体調が万全ではない彼を、炎天下連れ回したのだから。
 視界の端に売店がある。

「なんか飲むか? 買ってきたるよ。何がええ?」
「あ、いや、別にいらねぇ」
「俺が飲みたいねん。工藤は何?」
 笑うと、新一が困ったように苦笑して、カフェオレと答えた。
「よっしゃ、ほんなら日陰に入って待っといて。どっか適当に座っといてくれてもええし」
 ひらひらと手を振り、平次は新一を石垣の前に置いて、売店へと向かった。


 缶コーヒー二つを手に平次が戻ってくると、そこに新一の姿はなかった。
 言ったとおりに日陰のベンチにでもいるかと思って、ぐるりと見回しても見あたらない。探しつつ石垣を曲がったところに、新一は居た。
 女の子三人に囲まれている。

 なんやねん。ちょお目ぇ離すとこれかい。

 平次はつかつかとナンパされている新一に近づいた。
「待ったか?」
 声を掛けると、新一がほっとしたような顔をした。
 新一の表情に、ちょっと平次の機嫌が直る。
「あ、したら、この人も一緒に!」
 帽子を目深に被った子が言う。三人とも顔もスタイルも悪くない。
 だが、今、新一との間を邪魔するような人間はいらない。
 大事な時間なのだ、他の人にかまっている余裕などない。
「俺ら遊びに来とるわけやないんよ。よそあたってや」
 いつものように軽く断ろうとしたのに、つい邪険になってしまった。鼻白んだ女の子たちに平次は、「すまんなぁ」と本心からそう思っているように笑って見せる。

「服部」
 渋々と離れていく彼女たちを見送っていると、後ろから声が掛かった。
 振り返れば、彼は城を見上げていた。
 つられて上を見た平次は、新一が何を言おうとしているのか理解した。
 そこは、忘れもしない、事件のあった場所。
「見覚えがあるんやな?」
 確認を取ると、新一が天守閣から視線を逸らしもせずに、あぁと答える。

 雨の夜。屋根の上で、突然燃え上がった男。転げ落ちてきた彼に一番最初に駆け寄ったのは、自分とコナン――新一だった。

「ここで俺は何を見た?」
「燃えて転がり落ちてくる男」
 端的に答えると、新一が振り返る。
「殺人事件だったわけだな? 解決はしたのか?」
「もちろん」
「それに、俺は絡んだのか?」
 見つめられて平次は答えに詰まった。
 コナンは確かに絡んだ。だが、それをどう答えて良いものだろう。一瞬考えて、平次は口を開いた。
「公の記録には残っとらんし、俺以外の人間はしらんけど、絡んだのは確かや」
 平次の言葉をどう捉えて良いのか解らないのだろう。新一が軽く目を瞬かせる。
 その顔の前に、平次は缶コーヒーをかざした。
「ほれ、ご注文のカフェオレやで。ぬるくならんうちに飲もうや」

 平次は新一を日陰のベンチへ誘い、腰掛けた。
 カフェオレを飲みながらも、新一は城を見上げている。
 それを横目で窺いながら、平次はブラックコーヒーでため息を飲み込んだ。
 どこまで、どうやって、話したらいいのか解らない。

「でかくて危険な事件だったんだろ? 俺が手がけていたのは」
 いつの間にか、新一が平次を見ていた。
「ここで起きた事件も、俺の事件の一環だったわけか?」
 平次は真っ直ぐな視線を受け止めて、唸った。
「あー……。なんてゆうたらええんかな」
 平次はコーヒーで口を潤し、軽く息をついて話し出した。
「工藤が追っていたんは、でかい裏の組織やったんよ。それに関わってもうたせいで、工藤は身を隠さんとならん事態になったわけや。見つかったら最後、殺されるんはたしかやったからな」
「それで行方不明か」
 新一が皮肉な笑みを浮かべる。
「逃げていたわけちゃうで?」
 平次は新一の考えていそうなことを否定した。

「否応なしやったんよ。行方不明は。けど、そんな状況でもおまえは組織の情報を集めるために動いとった。なにせ、組織は国際的なもんやったし、手広く色々やっとったし……。どんな事件が組織に繋がるかわからんかってん。せやから、おまえは表に出んようにしながら、事件の謎を解いとったわけや」
「……で、その組織は?」
「壊滅した。俺たちだけの力やなかったけど、息の根を止めることが出来たわ。せやから、今、工藤はここに居る」

 新一が目を落とす。呟いた声は自嘲気味だった。
「そんなすげぇことをしておいて、そのことを忘れるなんてな」
「精神的にも、肉体的にも、工藤は無理をしとったんやろな。そのつけが出たんやと思うで」
 平次の励ましに新一が顔を上げ、頼りなげな笑みを浮かべる。
 見ている方まで切なくなるような笑みに、平次は思わず彼の頭に手を伸ばした。

「あー、そないな顔すんなや! 忘れてもうてても、おまえがやった事実は消えへんのや。例え、それを知っとる人間が限られておってもな。めっちゃすごいヤツなんやで、工藤は。せやから、堂々としとったらええ。そない、情けない顔せんと!」

 まくし立てて、新一の髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回す。自分の科白の照れ隠しだ。
「うわっ、服部、てめぇ、やめろ!」
 叫んだ新一が平次の手をはねのける。
 平次を睨みながら手櫛で髪を整えている新一に、平次は肩を揺らして笑った。

 新一が憤然と立ち上がる。
「行くぞ」
 迷わず駅の方へ向かって歩き出す新一の背を、平次は慌てて追いかけた。
「行くぞ、ゆうても、俺の家わからんくせに……」
 独り言は聞こえなかったようで、新一は振り返らない。

 並びかけた平次を見ようともせず、新一が小さな声で言った。
「……サンキュ」
 歩きながらのぞき込んだ新一の顔は心なしか赤い。
 平次は思わず嬉しくなって、また新一の頭に手を伸ばしかけ、彼に叩き落とされた。
「ひとの頭で遊ぶな!」
 鼻先に指を突きつけられる。

 新一が一度きつく平次を睨んでから、目を逸らした。
「励ます気なら、別の方法をとりやがれ、バーロー!」
 見間違えようもなく、新一の顔は赤かった。
 妙に可愛らしい新一にいたずら心を誘われた平次は、目の前の彼をいきなり抱きしめ、ぽんぽんと背中を叩いた。
「これならええか?」
 棒のように固まっている新一の身体を離して、平次はにんまりと笑った。

「な、な、なっ……!」
 硬直が解けた途端、新一の蹴りが平次のすねに炸裂した。
「なにしやがる! バーロー!! 変な真似をするんじゃねぇ!」
 思わず足を抱えて座り込んだ平次の顔面に向かって、空き缶が飛んでくる。あやうく受け止めて目を上げたときには、新一は平次を置いてどんどん歩き出していた。

「ちょお、待ってや、工藤! 冗談やって、冗談」
 手近のゴミ箱に缶を二人分放り込み、平次は足を引きずりながら、人波に飲まれて見失いそうな新一の背中を追いかけた。





 エアコンで冷やされた部屋の空気は心地よい。
 新一は、服部家の客間の布団の上に寝転がっていた。普段使っているベッドとは微妙に違う寝心地が新鮮だ。
 東京の自室とはもちろん違う天井。
 新一はそれを眉を寄せて睨んでいた。

 見たことがある。

 枕に乗せた首を回して、部屋を見る。
 その景色にも、見覚えがあった。
 通天閣で感じたものと同じ、あの既視感だ。
 新一は身体を起こして布団の上に座り込み、口元に手をやった。

 俺は、この家に、以前来ている。

 確信だった。


 人の大勢居る大阪城公園で抱きついてきた平次とは、駅までの道中で和解し――二度としないと言質を取った――、新一は彼に連れられて寝屋川にある服部家に着いた。そして、彼の母親お手製の夕飯をごちそうになり、珍しく早く帰宅した父親である大阪府警本部長の晩酌に平次と共に付き合ったのである。

 平次の両親と話をしていて、分かった事実が一つある。
 それは、工藤新一が服部家に来るのは初めてだということ。

 でも、俺は、ここに来るのは初めてじゃない。

 新一は、きりと唇をかんだ。
 一番最初、それに気が付いたのは、トイレの位置だった。
 来たこともない家の、しかもそれと分かるような物が何もなかったのにもかかわらず、新一は正確にトイレの場所が分かったのだ。
 そのことに戸惑った新一を見て、平次が苦笑していた。彼はそれが不自然なことではないと思っていたらしい。

 そして、既視感は続いた。
 食事をしている最中。
 通された客間で荷物の整理をしているとき。
 風呂の中。
 平次の部屋。

 来ているはずなのに、どうして服部の両親はそれを知らないんだ?

 忙しい父親はともかく、必ず客の対応をするであろう母親まで、新一が来たことを知らないなんて。こっそり連れてこられたのだろうか、平次に。
 いや違う、と新一は首を振る。

 服部の部屋やトイレの位置ならばともかく、ちょっと遊びに来ただけで、風呂の中や客間の記憶が残っているはずがない。
 以前来たときも、たぶん泊まっている。

 泊まりがけならば、母親に気が付かれないはずがない。
 新一は大きく息を吐いて肩から力を抜いた。
 そろそろ平次が風呂から出る頃だ。
 彼と寝る前にもう一度話しをしておこうと、新一は立ち上がった。

 また、だ。
 また、既視感が消えた。

 廊下に出るためのふすまを睨みながら、腰を落とす。
 そうすると、また、既視感に襲われる。
 新一は布団の上に片膝を付いたまま、目を閉じた。

 確か、通天閣でのときも、立ち上がると既視感は消えた。
 大阪城での既視感は、城を見上げたときに襲われた。
 そして、この家での既視感も、座ると感じ、立ち上がると消える。

 新一は立ち上がると廊下に出た。
 ここではまだ一度も既視感を感じていない。
 新一はぐるりと周りを見回し、見た記憶がないこと確かめてから、磨き上げられた板敷きの廊下に膝をついた。
 ――見覚えが、あった。
 くらりとめまいを感じて、床に手を付く。

 やっぱり。
 やっぱりそうだ。

 視点だ。

 新一は額を押さえた。

 視点を下げると……、何かを見上げると、既視感が起きる。

 ということは……。
 ということは!

「工藤さん! 工藤さん、どないしはったんです?」
 我に返って顔を上げると、紋紗の着物を涼しく着こなした静華が驚いたように立ちつくしていた。
 今日初めて会ったはずの彼女の顔も、見上げるとやはり見覚えがある。

 この人にも会っているんだ、俺。

 立ち上がろうとしない新一が心配になったのか、静華が裾を捌いて廊下に膝をついた。
「工藤さん、どこぞ具合でも悪くなりはりました?」
 顔をのぞき込まれて、新一は慌てて首を振った。
「あ、いえ、なんでもないんです」
 笑顔を浮かべ、新一はゆっくりと立ち上がった。つられたように静華も立ち上がる。だが、彼女の顔にはまだ心配そうな表情が残っていた。
「東京から来て疲れてはるのに、なんか平次が無理をさせたんとちゃいますか?」
 両手をちいさく振って、新一は彼女の言葉を否定した。

「あの、一つ伺いたいことがあるんですけど」
 はい? と小首を傾げた静華に、新一は何気なさを装って訊いた。
「毛利探偵がここに泊まりに来たことはありますか?」
「えぇ、ありますよ」
「そのとき、蘭と……、コナンって子も一緒でしたか?」
「一緒でしたなぁ。お行儀のええ子でしたわ」

 新一は息を飲んだ。
 動悸が一気に激しくなる。
 あの子が何か? と問い返されるのに、新一は言葉を濁して苦笑した。
 胸が締め付けられて、呼吸が苦しい。

 それを気づかれないように、新一は客間のふすまに手を掛けた。
「じゃ、僕はもうそろそろ休ませていただきます」
「おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
 軽く会釈して、ふすまを引き開ける。冷えた空気が流れ出し、新一の頬を撫でた。

「あの!」
 新一の声に、立ち去りかけていた静華が振り返る。
「あ、あの、大阪城で人が燃えた事件ありましたよね。あれに毛利探偵は……、コナンって子も関わっていたんですか?」
 静華が困ったように笑った。
「平次が巻き込んでもうたんですよ。ホンマ危ない事件やったのに……。あない小さい子を。けど、さすがに毛利さんのところに居るだけの子でしたわ。しっかりした子やったって、うちのひともゆうとりましたよ」
「そうですか……、すみません、呼び止めてしまって。おやすみなさい」
 新一は静華に頭を下げて、客間に入った。

 後ろ手にふすまを閉め、その場に座り込む。
 掌にじっとりと汗をかいている。
 妙な動悸もまだ収まらない。

 自分の引き出した真実に、理性がついていかないのだ。

 既視感は、視点を下げたときにだけ感じる。
 それはつまり、以前見た景色が、今の視点より低い位置からのものだったからに違いない。
 低い視点。
 子供の視点だ。
 工藤新一が来たことがないこの家に、江戸川コナンは来ている。
 工藤新一と初めて会った静華の顔ですら、子供の視点なら見覚えがある。
 大阪城の事件でも、コナンは平次と共に動いている。

『公の記録には残っとらんし、俺以外の人間はしらんけど、絡んだのは確かや』
『否応なしやったんよ。行方不明は』

 否応なしの行方不明。
 その理由を知っていたのは、限られていた人間だけ。
 記憶を失って目覚めた、あの場にいた、阿笠博士と灰原哀と、服部平次。そして、たぶん自分の両親。

 しかし、あり得るのか、そんなことが。

 そう思った新一の脳裏を、哀の醒めた表情が横切った。
 江戸川コナンによく似た目をした、彼女。
 彼女もまた、“そう”だとしたら……?

 新一は硬く握った拳を額に押し当てた。
 目覚めたときそばにあった、赤い蝶ネクタイ。
 江戸川コナンの忘れ物。

『おまえのや、ない。俺はおまえがアレをしとるとこは見たことないわ』

 平次が否定したのは、それが“工藤新一”の物ではなく“江戸川コナン”の物であったから。

 ――出来ない物を除いていって、残った物がたとえどれだけ信じられない物であろうと、それが真実。

 新一は目を見開いて、壁を睨みつけた。
 奥歯を噛みしめる。

 どういう原因でなのか。
 理論的に可能なのか。
 疑問はまだ山ほどあるが、それでも、真実は変わらない。

 新一は声を絞り出した。

「……俺は、江戸川コナンになっていたんだ」


 


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