記憶の彼方

(4)






 新幹線を降りた途端、新一は眩暈を起こしそうになった。
 彼を出迎えた大阪の空気は重たいほどに暑く、冷えすぎていた車内との気温差がひどい。
 先にホームに降りていた幼なじみの心配そうな視線に気が付いて、新一は苦笑いを浮かべた。
「話に聞いていた以上に暑いな」

 昼過ぎの高い太陽が、ホームの上にくっきりと濃い屋根の影を落としている。
 そこを改札に向けて人が流れていた。スーツ姿のサラリーマンより、子供連れが多いのは、今日が三連休の初日だからだろう。新一と蘭もこの休みを使って大阪を観光するために東京から出てきたのだ。

「和葉ちゃんと服部君が、改札まで迎えに来てくれてるはずよ」
 前を歩く蘭が振り返って言う。
 何度も聞く科白に、新一は軽く片手を上げて返事の代わりにした。そして、彼女の目が無くなると、ため息をついた。
 蘭の提案で訪れることになった、大阪。
 友人だったという男、服部平次の地元。

 蘭は、あいつが俺の記憶を取り戻すきっかけになると考えている……。

 新一もそれには同意見だった。
 だから、行方不明の期間を穴埋めするための追試や課題を一時棚上げしてまで大阪に来たのだ。
 気になるのだ。
 あの高校生探偵が。
 ふとした瞬間に、彼のことを思い出す。
 そして、罪悪感と――焦燥感のようなものに襲われるのだ。

 罪悪感は、まだ解る。
 しかし、なぜ、心が落ち着かなくなってしまうのだろう。

 自分自身が抱え込んでしまった謎を解くために、新一は平次に会いに来たのだ。



 改札の手前で、蘭がいきなり手を振った。
 彼女の視線の先に目をやった新一は、平次とポニーテールの女の子の姿を見つけた。
 女の子の方はこちらに向かって大きく手を振っている。
 その隣、ジーンズのポケットに指を引っかけている平次と目があった途端、新一は息苦しくなった。

 平次の目はまっすぐに新一を捉えていた。
 痛みを感じるほど強い視線。
 探偵の目だ、と新一は思った。
 謎に向かうときの目。
 獲物を狩るときの獣のような目。
 新一を釘付けにしていた平次の視線が、不意に緩んで笑みに変わった。

 平次が笑いながら片手を上げた。
「よう」と言っているのが、離れていても解る。
 新一はぎこちなく手を振り返し、蘭に続いて改札を抜けた。




「あ、来たで」
 和葉につられて視線を投げた平次は、改札に向かってくる人波の向こうに新一と蘭の姿を見つけた。
 手を振っている蘭の少し後ろ。
 新一が平次を見た。

 初対面の時の視線だった。
 敵対心をむき出しにしていた自分に向けられた、目。
 親しみのこもらない、だが、仲間意識の感じられる目。
 
 記憶の中の新一とは違う目を、今の彼はしている。
 初対面の頃から築き上げてきたすべてが、無くなってしまった目だ。

 いや、と平次は息を吐き出した。
 新一の中には、コナンのときに得たものが残っているらしいと哀が云っていた。
 彼はすべてを忘れ、以前の彼に戻ってしまったわけではないのだ。
 きっかけさえあれば、彼はきっと思いだしてくれる。

 平次はたたずむ彼に笑いかけ、手を上げた。
 聞こえないことを承知で「よう!」と声を掛けると、口元だけで笑った新一が同じように手を振り返してきた。
 勝負はこの二泊三日。
 平次は改札を抜ける彼らを見ながら、気合いを入れた。



「久しぶりー!」
 蘭が和葉の元に駆け寄ってきた。
 その後ろから新一が歩み寄ってくる。
 彼は健康そうに見えた。色の白さは相変わらずだったが、やつれた様子はなくて、平次は少し安堵した。

「元気やった? 蘭ちゃん」
 和葉の問いに蘭が笑って頷く。
「二人とも元気そうね。新一、こっちが……」
 蘭が大阪の二人を紹介しようとするのを、新一が制した。
「服部と、遠山和葉さん、だね?」
 平次に向けて苦笑した後、新一が和葉ににっこりと笑いかけた。
 和葉が驚いたように新一を見上げ、ちらりと平次を窺った。
「何で……?」
「俺は夏休み中に工藤に会うとるんや」
 細かいことはすべて端折って説明する。
 平次と視線を交わした新一がそれを受けた。
「そうなんだ。それで、遠山さんとは俺一回会っているんだって?」
 困ったような笑顔を浮かべている新一に、和葉が少し悲しそうに頷いた。
「文化祭の蘭ちゃんの劇を見に行った時にな。あんま話をしたりはしてへんのやけど。信じられへんかったけど、ホンマに……」
「ごめん」

 新一から謝罪の言葉を貰った和葉が慌てているのを笑っていた平次は、視線を感じて蘭に目をやった。
 彼女はすがるような目をして平次を見ていた。

 この旅行は、蘭ちゃんの発案やったな。

 蘭は平次に賭けている。
 小さいときから一緒にいた自分よりも、ライバルとして友人として新一と共にあった平次に。
 それをひしひしと感じて平次は小さく、力強く頷いて見せた。

「ここにいつまでもおってもしゃーないし、移動しようや」
 新一と蘭の荷物は途中のコインロッカーに預けるとして、ともかく行動を開始しないと。
 時間は限られている。
 声を掛けた平次に蘭が尋ねた。
「まず、どこに行くの?」
「蘭ちゃんには悪いんやけど、まずは……」
 平次は言葉を切り、新一に向かって笑いかけた。

「通天閣や」




 通天閣の展望台に着いて、新一はまっすぐ窓に近寄った。
 想像していた以上に眺めが良い。
 隣では蘭が手すりにもたれかかるようにして、やはり景色を見ている。
「今回どうやって移動するのか、ちょっとドキドキしちゃったよ」
 蘭がくすくすと笑いながら、新一に話しかけてきた。
「今回は? 前回は電車じゃなかったのか?」
 今日は地下鉄でここまで移動してきたのだ。
「さすがに今回は、前みたいなあほなことはよう出来んかったようやで」
 後ろから声が掛かった。
 振り返ると和葉が呆れた顔で平次を睨んでいる。
「和葉かて、途中からちゃっかり一緒に乗っとったやんか。同罪や、同罪」
 平次が新一の隣に並びながら言い返す。
「で、結局どうやって移動していたんだ?」
「「パトカー」」
 蘭と和葉が声を揃えた。
「覆面のやないで。白黒の、あのパトカーや!」
「そんなものを使って観光していたのか?」
 一緒にいなくて良かったと新一は心底思った。
 いくら乗り慣れているからとはいえ、パトカーで観光はしたくない。
「平次のあほが府警から借り出してな! 運転手付きで」
 和葉の文句が途中から勢いを無くした。
「そしたら、あんな事件起きてまうし……」
 彼女の声が沈んだ。
 蘭は目を伏せ、平次は遠くの景色を睨むようにして見ている。
 その事件がパトカーの絡む後味のあまり良くないものだったのだと、新一は察した。
「……服部が解いたのか?」
 横顔に問いかけると、平次がゆっくりと振り返った。
「一応な」
 知っていたはずなのに、と平次の目は言っているようだった。
「聞きたいんか?」
 沈んでいる女の子の二人が気がかりだったが、新一は頷いた。
「出来れば」



 遠くの山並みではなく、眼下のごちゃごちゃした街並みを見ながら、新一は平次の話を聞いていた。道を歩く人が小さく小さく見える。車もちゃちなミニカーのようだ。
 親しくしていた刑事が起こした事件を語る平次は、ほとんど新一の方を見ようとはしなかった。
 だから、新一も平次の方は見ないでいた。
 だが。

「撃たれたのか?」
 犯人を追いつめたところまで聞いた新一は、思わず声を上げていた。平次の腕を掴んで、問いつめる。
「どこを? 後遺症とかないのか?」
「撃たれたんは腹やけど、とっくに治っとるよ。かなり前の話やしな」
 平次が新一の勢いに押されたように、笑いながら身を退く。

「お守りがなかったからやで、きっと」
 一緒に話を聞いていた和葉が淋しそうに言った。
「せやけど、アレをあの時、く、……あの坊主に持たせとかなんだら、あいつが死んどったやろうが」
 和葉をたしなめるような平次の声に、蘭が答えた。
「うん、そうだよね。あのお守りのおかげでコナン君が助かったんだもん」
「ホンマやったね。あの子、無茶しよる子やったもんな」
 和葉は平次に反論もせずに、蘭に同意した。

「コナンが何かしたのか?」
 新一は二人に訊いた。
 平次の話にそんなことは含まれていなかったから。
 平次と別れた後、コナンたちは逃走中の指名手配犯の逮捕に協力したとだけしか。

「コナン君な、犯人から蘭ちゃんを守るために、ナイフの前に飛び出したんや。そんで、その刃があの子の胸に刺さったんやけど、平次のお守りに刃先が引っかかって小さな傷ですんだんや」
 新一は和葉の言葉を聞きながら、平次の方を見た。
 彼は、面白くなさそうに手すりに寄りかかっている。
「怪我はしたけど、俺は生きとる。せやけど、アレがなかったら、あの坊主は死んどった。結果オーライやろが」
「悪運が強いんやね、平次は」
「やかましい」

「そういえば、あの時、救急車の中で服部君はなんか言っていなかった? 人殺しと一緒だとか……」
 蘭が首を傾げつつ言った。
「あー、ゆうとったな。どっかのあほがゆうとった、って」
 蘭と和葉が平次を見る。彼は、小さな声ではっきりと言った。

「推理で犯人を追いつめて自殺させてまうような探偵は、人殺しと変わらん」

 平次の目は新一を見つめていた。
 その言葉が新一のものであると告げるように。
「俺が、そんなことを言ったのか……?」
 戸惑った新一に、平次が明るく笑った。
「そうや。どっかのあほっちゅうのは、工藤のことや」
「失礼なやっちゃな。工藤君に向かってあほやなんて!」
 和葉の咎める声を受けても平次は平然としている。
「日本広しといえど、工藤をあほ呼ばわり出来るんは俺ぐらいや」
「あんたはドアホやからな! ごめんなぁ、工藤君。平次の言うことは気にせんといて」
 和葉の取りなしに新一はとりあえず頷いた。
 あほと言われたことよりも、自分が昔平次に云ったという科白の方が気に掛かった。

 無くしてしまった時間の中で、自分はいったい何をしたのだろう?
 何を経験したのだろう?
 犯人を自殺に追い込んでしまったのだろうか、自分は。
 そうでなければ、あんな言葉を平次に云うはずがない。

 妙な焦燥感が胸を灼く。
 思い出したい。
 自分がいったい何をしていたのか。

 隣では大阪の二人がテンポの良いやりとりをしている。
 漫才をしているのかような言い争い。
 頭に流れ込んでくるそれが、新一の心を揺さぶる。
 うるさいと苛立つのではなく、居たたまれないような気分になるのだ。

 ――此処に居てはいけない。

 心をよぎったのは、確かに自分の声。
 新一は思わず額を抑えた。
「新一?」
 蘭の声に振り返ると、彼女が心配そうな顔で新一を見ていた。
「顔色が悪いよ? 大丈夫?」
 言われた途端、ふっと目の前が暗くなり、膝から力が抜けた。

「新一!」
「工藤?」
「工藤君?」
「あ、悪い。ちょっと貧血みたいだ……」
 床に片膝を付いて、新一は三人を見上げた。
 そして、そのまま、目を見開いた。



 ――知っている。

 知っている。
 この景色は知っている。

 見たことが、ある。


「工藤」
 平次が新一に腕を差しのばした。
 褐色の大きな手。
 目の前のそれに、また既視感がある。


 どこで?
 どこで見た?
 俺は、この手を、知っている。

 新一は、その手に自分の手を伸ばし、めまいに襲われた。

 視界に入った自分の指。
 それが引き起こす、ひどい違和感。

 違う。
 この手は違う。

 完成された絵の中に落ちた場違いな色のようだ。
 この、自分の手は。



「新一?」
 信じられないもののように自分の手を見つめていた新一は、蘭の声で我に返った。

 かがみ込んだ蘭に大丈夫だと笑ってみせ、新一は立ち上がった。
 そうすると、既視感は夢のように消えた。

「具合悪いんか?」
「降りてどっかで休んだほうがええんちゃう?」
「もう平気なの?」
 話しかけてくる三人の顔を新一はぐるりと眺めた。
 強烈な既視感はもう無い。
 新一は軽く頭を振った。
「大丈夫。軽い貧血だったみたいだから」

「ほんなら、まずここから出ようか」
 平次が女の子二人を促す。
 彼女たちの後ろについて歩き出した新一に、平次がそっとささやいた。
「どないした? もしかして、なんか思い出したんか?」
 新一はゆっくりと首をねじった。
 身長はさして変わらないから、横を向くだけで平次と目が合う。
「思い出したわけじゃない。ただ……」
 平次が視線で先を促す。
 新一は大きくため息をついて、平次にささやいた。
「俺、ここに来るの、初めてじゃないな?」
 疑問形のそれに、平次が嬉しそうに笑う。

 自分の既視感は間違いでない。

 新一は口元に手をやった。
 その腕を、平次が引く。
 先を歩く蘭たちには絶対聞こえないように、平次が新一の耳元に口を寄せた。

「せやけど、このことは俺しか知らん」
 新一は平次を見た。
 彼は真剣な顔をして新一を見つめていた。
「あの二人には、絶対に、ゆうたらあかん」

「なんで?」
「記憶が戻れば、すべてわかる」

 硬い声に新一は足を止めた。
 今度は新一が平次の腕を引く。

「俺が失った記憶は何だ? なんで忘れたんだ?」
「それは……、俺も知りたい」

「俺が何を忘れたのか、おまえは知っているんだろう?」
 腕を掴んだまま、詰め寄る。
「教えてくれ。行方不明の間、俺は何をやっていたんだ?」
「……俺が教えても、意味無いんや。おまえが自分で探し出さんことには」
 わずかに細められた目で見つめ返される。
 平次のその辛そうな表情に新一は罪悪感をあおられた。

 思わず平次から目を逸らした新一は、彼に肩を叩かれ顔を上げた。
 平次は笑っていた。
 さっきの曇った表情などどこにもない明るい顔で。
「大丈夫や。おまえにはそれが出来る」
「……そんなこと、よく断言できるな」
 脳天気な言葉に低い声を返すと、平次がまた笑った。そして彼は、挑むような目で新一を見た。
「俺の知っとる工藤なら、絶対に出来る」
「信用していたんだな、俺のこと」
「今でも信用しとるよ」
「おまえのこと、覚えていない俺でもか?」
 平次がくつくつと肩を揺らす。
「おまえはおまえや。記憶を取り戻すために大阪に来たんやろ? その行動自体が、おまえが俺の相棒やっとった工藤と変わらんっていう証明みたいなもんやで」

 俺の知っとる工藤の取る行動や。
 笑いを収めた平次が言いきった。

「俺は本気でおまえに記憶を取り戻して貰いたい。それがおまえにとってええ事かどうかわからんけどな」
「なんだと?」
「忘れたんにはきっと理由がある」
 結果があるのなら、その原因が必ずあるはずだ。

 忘れたのは、危険な事件を解いた過労のせいではないのか?
 それとも、忘れたいものがあったのと言うのだろうか、自分に……。

「服部。俺は……」
 新一は言いかけた。
 が、新一の耳に平次を呼ぶ和葉の声が届いた。
 彼女たちはエレベータの前で新一たちを待っている。
 平次が応えて手を上げた。
 彼に背中を押されて、新一は歩き出した。

「もう少し二人で話せないか?」
 蘭たちには伏せて置いた方がいいという話を、じっくりとしたい。 
 平次がちらりと新一を見た。
「せやな。和葉たちと別行動するか」
 答えた彼の横顔は探偵のもの。
「大阪に居るうちに、おまえの記憶を取り戻そうな」
 新一が無言のまましっかり頷くと、平次が明るく笑った。
「任しとき、工藤。いっくらでも協力したる。俺がおるんやから、絶対大丈夫やで」
 安請け合いをする彼を新一は軽く睨んだ。
 それをものともしない、平次の笑顔。

 それが、新一の不安を癒してくれる。
 焦りをなだめてくれる。
 大丈夫なのだと思わしてくれる。

 なぜか、安心する。

 新一はこっそりと息を吐き出し、肩の力を抜いた。

 なぜ自分が彼を相棒にしていたのか、少し解ったような気がした。






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