記憶の彼方

(3)






 忌々しいほど晴れた夏空。
 しかも、風は凪いでいて、開け放した窓も意味がない。直接日が当たらないのが救いと言えば救いだ。

「はぁ」
 平次は重いため息をついた。
 ホームルームも終わり、クラスメートたちは帰りはじめている。眼下の昇降口にも帰宅する生徒たちの姿がある。
 がやがやとうるさい教室の中で、平次は自分の席で頬杖をついたままぼんやりと外を眺めていた。

 昨日の夜、電話があった。
 灰原哀からのものだった。

***

「工藤になんかあったんか?」
 電話の相手を第一声だけで判断した平次は、哀が何も言わないうちに新一のことを訊いた。
『……彼は元気よ。身体はね』
 ため息に苦笑が混じっているような声が返ってきた。
「相変わらずなんか」
『そういうことよ』

 新一の記憶が戻ったわけではなかった。
 脱力した平次は、胡座をかいて自室の壁により掛かった。網戸越しにわずかながら夜風が流れ込んでくる。今夜も熱帯夜になりそうだった。

「で、どないした?」
『工藤君のご両親に連絡がついたわ』
「やっとか。で、いつ日本に帰ってくるん?」

 両親に早く新一の状態を伝えないと、と阿笠博士が手を尽くしていたのだが、多忙な彼らにはなかなか連絡がつかなかったのだ。
 新一が薬を飲んだのは夏休み中であったというのに、二学期が始まってからやっと、工藤夫妻が捕まったらしい。
 工藤新一が記憶を失ってから、すでに十日が過ぎている。

『帰国はもうしばらく無理らしいわ』
「そか……。そんなら俺らはどないしたらええんや?」

 新一に対して。
 記憶をなくしている新一に、彼がコナンであったことを告げるべきか、否か。
 思い出させるようにした方がいいのか。
 それとも触れないようにするべきなのか。
 どうするのが、新一にとって一番良いのか。
 対処に悩んだ平次たち三人は、その判断を両親に任せたのだ。

『自然にまかせるそうよ。身体が健康ならば、いずれ思い出すだろうって』
「ひとまずは教えるなっちゅうことか?」
『そういうことね。でも、普通の人は信じないわよ。自分が子供の姿になっていただなんて、いきなり言われても』
「そうやろな」

 まず、自分なら信じない。
 だいたい、初めに江戸川コナンと工藤新一が同一人物の可能性を思いついたときには、その考えのあまりの馬鹿らしさにあっさり一蹴したぐらいだ。その後、証拠を突きつけ脅かして、本人から聞き出すまでは、正直言って半信半疑だった。

 自分たち関係者の証言だけでは、あの工藤新一は納得しないだろう。
 しかし、証拠は何一つ残っていないのだ。
 証明することが出来ないのだ。
 江戸川コナンが工藤新一だったと。

『私自身が証拠みたいなものだけど、中身が大人だと証明することは無理だわ。でも、どうも工藤君、江戸川コナンに興味を持っているみたいなのよ』
 沈みかけていた平次の気分を哀の言葉が引き上げた。
『今は居ない、自分によく似た子供の話を、博士のところに聞きに来たわ。さすが探偵と言うべきかしら?』
「目の前に謎があったら無条件に追いかけてまうんやろ」

 どこまでも、どんなときも、彼は探偵なのだ。
 小さい身体というハンデをものともせずにいた新一を思いだして、平次は口元に笑みを浮かべた。だが、思い出が喪失感をあおって、淡いそれはすぐに消えた。

『そうみたいね。そういうところは、まったく変わらない……』
 不自然に哀が言葉を切った。

「おい、なんか、あったんか?」
『え、えぇ、ちょっと気になった事を思い出したのよ。鈴木園子さんって貴方知っているわよね?』
「おう。工藤たちのクラスメートやろ? 茶髪の」
『彼女が工藤君に向かって言っていたのよ。どこかが変わったって』
「どこか?」
『そう。以前の彼とは少し違うらしいわ』
「昔と違う言われてもなぁ……」
 平次は、コナンになる以前の新一を知らない。哀もそれは同様で、違いなど気づきようがない。
「阿笠のじぃさんはなんちゅうとるんや? どっか違うゆうてるか?」
 彼なら子供の頃からの新一を知っている。ならば違いにも気が付くだろう。
 そう思って尋ねた平次に返ってきたのは、不可解な答えだった。

『博士は、以前の彼そのものに戻ったわけではないようだと云っているわ』

「……どういう意味や?」
 慎重な言葉遣いで哀が言った。
『たぶん、コナンとして生活していたことによる変化が、今の工藤君の中にも残っているという事じゃないかしら』
 平次は眉を寄せた。
 矛盾する。
 コナンであった記憶を失いながら、コナンの頃体験したものが彼の中に残っているということか?
「そんな事あるんか?」
『解らないわ。専門家ではないし』
 彼女は医者ではなかったと、平次は遅まきながら気が付いた。
 だが、小さな科学者は続けた。

『思うに彼、意識的に忘れたいことがあったんじゃないかしら』

「意識的に、忘れたい、こと?」
 平次の声がかすれた。

 何を忘れたかったのか。
 それは、平次にもずっと気に掛かっていたことだった。

 コナンであったこと自体が忘れたかったのか。
 それとも、コナンとして体験した、何かを忘れたかったのか。
 関わった事件か?
 命がけで潰した、黒の組織のことか?
 まさか。
 灰原哀を。
 自分を。
 忘れたかったとでも言うのだろうか……。

 平次は、無意識のうちに噛みしめていた唇をこじ開けるようにして、言葉を綴った。
「そないなこと、出来るもんなんか?」
『ひとは、大きなショックを受けたときに、自分の心を守るためにその記憶を封印することがあるわ』
 平次の硬くひび割れた声に、深く染みこむ静かな哀の声。
『以前、殺人を目撃してしまった蘭さんのようにね』
 あのときはさすがにコナンであった新一が、いつになく狼狽えていたことを平次は覚えている。新一は彼らしくもない慌てた、話の見えにくい電話を掛けてきたのだ。

「それは心理的なショックを受けたときやろ?」
『常々忘れたいと願っていたことを、元の身体に戻るときの肉体的なショックで忘れたとしたら?』
 言葉を失った平次の耳に、小さなため息が聞こえた。
『もちろん、私はこういう事に関しては素人だわ。でも、そう考えると納得がいくのよ』
「納得……?」

『江戸川コナンが、工藤新一にとって、過去の汚点だとしたら?』

『自分の油断のせいで世間から身を隠す羽目になり、行動を制限され、蘭さんを欺き続け、結果的に離れていく彼女を引き留めることも出来なかった』
 その記憶に耐えきれなかったのだとしたら……。
 弱くなった語尾に重ねるように、平次は強く言いきった。
「あいつはそんなヤツちゃう」

 辛い記憶を封印してしまうような、そんな男ではなかった。
 どんなに悲劇的な事件でも、彼はその結末から決して目を逸らすことをしなかった。まるで、関わった探偵の義務だといわんばかりに。
「そら、ガキの格好になってもうたのはあいつの油断やろうけど。でも、それから目を逸らすような男やない」
 少なくとも、平次はそう思っている。

 幼い姿を裏切っていた新一の瞳は、ただひたすら前を見ていた。
 確かにそこに苛立ちはあったが、自己嫌悪があったようには見えなかった。
 小さな身体に閉じこめられて、それでも自分の未来を諦めていなかった男だからこそ、平次は力になりたいと思ったのだ。

「そんな情けない男やったら、俺もライバルなんぞと呼ばんし、忘れられたかてこない悩んだりせぇへん。だいたいそんな男にあの組織が潰せるわけないやんか」

 平次は哀が本気で言っているとは思っていない。
 ただ、彼女は、新一を幼児化しそれをまた元の姿に戻した本人だ。
 今回のことに責任を感じているのだろう。
 そして、たぶん、誰かに断罪して欲しいのだろう。
 責められることなく赦されるのが、辛いときもある。
 だからといって平次は彼女を責める気にはなれなかった。
 それが彼女にとっての救いになるものであっても、出来ない。

 残酷かも知れないと思いつつ、平次は敢えて言葉に笑いを含ませた。
「そない煮詰まってもうたら、禿げるで? 良く効くっちゅう噂の毛生え薬は、女が使ったらあかんのやろ?」
『…………やけに詳しいけど、使っているの?』
 肺の中の空気をすべて吐き出すような長いため息が聞こえたあと、哀の呆れた声が返ってきた。
「あほぉ! 俺はふっさふさや! 禿げへん家系やしな。それに、男に髪の毛の話は禁句やで?」
『振ったのは、貴方でしょ?』
「せやった?」
『まったく……』

 呆れた、小さな、それでも確かな笑い声が聞こえて、平次はそっと胸をなで下ろした。
『貴方相手じゃ、深刻な話が出来ないわね』
「本人の居らんところで、二人で悩んどってもしゃあないしな。憶測だけで推理を組み立てるわけにはいかんやろ?」
 わずかな沈黙の後、そうね、と答えがあった。
「工藤の記憶が戻るのを自然にまかすっちゅうことは、刺激を与えるぐらいならかまへんってことやな?」
『たぶん、そういうことになるわね』
「そんなら、やらせてもらうわ」

 忘れたくて忘れたものを、思い出させるのが新一にとって良いことなのかどうかは解らない。だが、彼自身がコナンに興味を持っているのなら、それに便乗してやればいい。
 平次は顔の見えない哀に向かって、不敵な笑みを浮かべて見せた。

「あいつに思い出させたるよ。全部」
『……思い出したら、文句でも言ってやろうかしら』
「せやな。二人でいじめたろうか?」
 二人は物騒なことを言い合い、笑って電話を切った。

***

「はぁぁ」
 もう一度大きくため息を吐きだして、平次は空気が抜けたように机の上に伸びた。
 哀には新一は過去から目を逸らすような男ではないと言い切ったものの、平次は少し悩んでいた。

 意識的に忘れたいことがあったんやろか……。

 それが可能かどうかは別問題として、平次は電話の後からずっとそのことを考えていたのだ。
 あの工藤新一が忘れたいと願ったこと。
 距離的に側に居ることはあまり無かったが、精神的には近い場所にいた自分が気がつけなかった、何か。

 平次は机に突っ伏したまま唸った。
 と、彼は後頭部を殴られて、額を机に打ち付けた。
「いったー!」
 がばっと顔を上げて悪友を見つけた平次は、にやにや笑う彼を下から睨み上げた。
「なにすんねん、ドアホ!」
「陰気くさい顔しとったから、景気づけや。感謝せい」
 悪びれることなくそういって、上野が横の机の上に腰掛けた。

「誰が感謝するか!」
「で、なに唸っとたん?」
 上野は平次の文句を受け流すことなく、無視した。
「あんなぁ……」
「夏休みが明けてからずっと落ち込んだままやんか。こっちはいちおー心配しとるんやけど?」
 上野の茶化すような言葉の裏に彼の本心が見えたような気がして、平次は抗議を引っ込めた。

「めっちゃ惚れとった女にふられたような顔をしとるで? 自分」
「女ちゃうわ!」
 平次は速攻で突っ込んだ。
「男や、男。相手は男や」
「え? おまえそっちの趣味が……」
「あほっ!!」
 上野が言い終える前に、平次は思いっきり突っ込んだ。彼の腹に拳付きで。

 腹を抱えて呻く上野を冷ややかに見ながら、平次は地を這うような声で言った。
「俺はノーマルや。確かにちょお悩んどるけど、男がらみや」
「せやけどなぁ……」
 腹を押さえ弱々しい声で上野が抗議する。
「振られてどん底に落ち込んどった高橋とおんなじ目をしとったから、ついついそう考えてもうたんや。しっかし、心配しとるヤツを殴るか? 普通」
「おまえが一言多いからやん。けど、振られたっちゅうのは、当たっとるかもしれんな」

 恋情や愛情ではなく、友情に“振られた”という言葉を使っていいものならば。

「友達に振られたって事か? 男相手に振られたっちゅうのは、端で聞きとるとなんかサムイで」
「ホンマや。あー、なんでやねんなぁ……」
 片想いの友情など洒落にもならない。
「なんか嫌われるようなことでもしたんか? 誤解されるようなこととか」
「いや、そういうのとは、またちゃうねん。ややこしいことにな」
 平次は、また机に突っ伏した。

 その直後、またしても平次は後頭部を殴られた。前回の比ではない勢いで。
「上野!!」
 怒鳴って顔を上げた平次の目に飛び込んできたのは、隣のクラスにいるはずの幼なじみの顔と彼女の手にした学生鞄だった。
「……和葉! なにすんねん!」
 殴られた頭を抱えながら平次は叫んだ。

 だが、それを打ち消すような、静かな怒声が彼女から返ってきた。
「昨日、蘭ちゃんから電話があったわ。……なんで、今までなんにもいわんかったん?」
 突然始まった喧嘩らしきものに、上野が慌てて逃げ出した。
「俺かて混乱しとったんや! 落ち着いてひとに話せるか!」
「せやかて!」

 仁王立ちになっていた和葉が、いきなり肩の力を抜いた。
「……せやな。あたしかてショックやったんやもんな。平次が平気なわけないなぁ」
 和葉が先ほど凶器になった鞄を置いて、平次の前の席に腰掛ける。

 急に相手に引かれて、平次は盛り上がったテンションのやり場を失い、次いで脱力した。
「わかっとるなら、殴るなや」
 机に懐いた平次に、和葉が言う。
「蘭ちゃんからの電話な、そのことだけやったわけやないよ。工藤君を大阪に連れてきたいんやって」
 平次は思わず和葉の顔を見た。

「平次に会わせたら、なんか思い出すかもしれへんって」
「俺に会うたら?」

「工藤君がおらんようになっとった間、蘭ちゃんよりも平次の方が工藤君と連絡を取っとったんやろ? せやからやろ」
 平次は口の中で、そか、とだけ答えた。

 コナンから新一に戻ったとはいえ、蘭やほかの人たちを欺き続けることには変わりない。
 彼はその重圧から解き放たれたかったのだろうか?
 真実を追い求める身で、内に隠し事を抱えるという矛盾に耐えきれなくなったのか?
 平次は浮かんだ考えを振り捨てた。

 工藤は、自分の過去から逃げるような男やない。

 理由はどうあれ、彼が大阪に来るのだ。
 二人で何度も事件を追った大阪へ。
 彼の記憶の琴線に触れるような場所の見当も付く。
 思い出させるチャンスかも知れない。

 だから平次は、和葉に尋ねた。
「いつ、来るんやって?」





 (2)へ 
(4)へ 
小説TOPへ