記憶の彼方

(2)






「コナン君のよ、それ。江戸川コナン君。小学生の男の子。うちで預かっていたのよ。ちょうど新一がいなくなった日からだったかなぁ」
 新一が赤い蝶ネクタイを見せると、蘭はあっさりと教えてくれた。
 阿笠博士の家で目覚めたとき枕元にあった、それ。
 博士に蝶ネクタイについて尋ねたとき、彼はとても複雑な顔をして「よく遊びに来ていた子供の忘れ物」としか答えてくれなかったのだ。
 白衣を着ていた、灰原哀と名乗った女の子の方もそう。
 おかげで何か重要な秘密でも隠されているのかと勘違いしてしまった。
「なんだ、子供の忘れ物、か」
 新一はそれをテーブルの上に放り投げた。
 裏に付いていた機械はもう無い。博士が取り外してしまったのだ。
「で、その子は今どこにいるんだ?」
「海外にいるご両親に引き取られていったわよ。夏休みに入ってすぐ」
 そういいながら蘭が、ソファに座る新一と園子にアイスコーヒーを差し出した。その指に、新一の記憶にはないプラチナの指輪が光っている。
 落ち着いたデザインの高そうな指輪だ。

 妃さんからの贈り物だろうな。間違っても、おっちゃんからじゃねぇ。

 蘭の動きにつれて光るそれから新一は興味を無くし、早速コーヒーに手を伸ばした。

 窓の外は眩しいほどの日差しが溢れている。夏休みは終わったとはいえ、まだ夏は終わっていない。まとわりつくような暑さは未だ健在だ。
 二学期が今日から始まった。
 妙に着心地の悪い制服に悩まされながら、新一は無事に初日を終え、園子と共に蘭の家に寄っていた。久々に顔を出した毛利探偵事務所は、以前より綺麗になっているような気がする。事務所の主、小五郎は事件が舞い込んで朝から出掛けているらしい。

「妙な子だったわよぉ。コナン君って」
 アイスコーヒーを半分ほど一気飲みをした園子が、しかめ面をして言う。
「ませてて、やたらと変な知識があって、ぜーんぜん子供っぽくないの」
「園子ったら」
 園子の隣に腰を落ち着けた蘭が、笑いながらたしなめる。
「でも、なんかね、ちょっと新一に似ていたのよ。サッカーが好きだったり、ホームズが好きだったりして」
「そう! それで探偵ごっこが好き」
 そっくりでしょ?
 園子が新一をビシリと指さす。
「俺がやっているのは、探偵ごっこじゃねぇよ」
 むっとして言い返すと、その表情も似てる、と園子が声をあげて笑う。
 新一は園子を睨みつつアイスコーヒーをあおった。
「ねぇ、蘭。あの子、眼鏡していたからよく分からなかったけど、顔も新一君に似てなかった?」
「似てた! 眼鏡を外すと新一の小さい頃にそっくりだったわ」
 幼なじみの肯定に新一は顔をしかめた。
「……他人のそら似だろ。とにかく、俺はそんな名前の子供は知らねぇ」
 発言にも関わらず、女二人の視線が無遠慮に新一に突き刺さる。
 と、蘭がいきなり立ち上がった。
「写真があるわ! 持ってくるから、ちょっと待ってて」
 言い置いて、蘭は自宅の方へ小走りに行ってしまった。
 新一はため息をついて背もたれに寄りかかった。
「……蘭のヤツは変わらねぇなぁ」
 ぼそりとした呟きに、アイスコーヒーを口に運んでいた園子が目を上げた。グラスを置いて、やけに真剣な顔で新一を見つめてくる。
「なんだよ?」
 気圧されて尋ねると、さらにきつい眼差しが返ってくる。
「……新一君、いなくなっていたときのこと、全然覚えていないんですってね」
 いつにない園子の低い声に、新一は無言で頷いた。
「でも、仮にも探偵なら、あの子の指にリングがあるのには気が付いているわよね?」
 当然、と答えを返すと、園子はちらっと蘭の出ていった扉に目を走らせて、声をひそめた。

「このことも忘れていると思うから、念のために言っておくけど、蘭にはもう恋人がいるのよ」

 新一は目を見開いた。それを見た園子が、さらに声を落とす。
「ずっと蘭のことを放っていた新一君に、蘭を責める権利なんて無いわよ」
「そ、そんなの当たり前だろ? だいたい俺たちはただの幼なじみだったんだから」
「そう?」
 園子が片眉をつり上げる。
「なら良いけど……。私はてっきり新一君は蘭のことが好きだと思っていたから」
「誰が、あんな気の強いヤツ……」
 言いかけて、新一は口をつぐんだ。

 気が強くて、お節介で、泣き虫で、お人好しの幼なじみ。
 ―― 好きだった。
 とてもとても、好きだった。
 好き、だった……。

 自然に過去形にしている自分に気が付いて、新一は愕然とした。

 なぜ……?
 すれ違いざまに彼女に視線を投げかける男たちにすら苛立ったことまで、しっかり覚えているのに。
 なのに。
 今こうして恋人がいると聞いても、驚いただけで、嫉妬もなにも感じないなんて。


 固まっていた新一を、ドアが開く音が正気に戻してくれた。
「お待たせ!」
 振り返って見た幼なじみは、記憶の中よりもずっと綺麗だった。
 明るく翳りのない笑顔。
 眩しいそれに思わず目を細めた新一の心の中が、ふいに凪いだ。

 幸せなんだな、蘭……。
 今、幸せなんだな。

 新一は自分でも信じられないほど穏やかな気持ちで、彼女に笑顔を返した。彼女の抱えるアルバムに向かって手を差し出す。
「見せてくれよ、その俺に似た子供の顔を」
 新一のその横顔を見た園子が、安堵したように笑った。

 



 新一は腕を組んで写真を見つめていた。
 アルバムの中に張られたそれには、子供たちの姿が写っていた。阿笠邸の庭とおぼしき場所で、男の子三人と女の子二人が思い思いの格好で被写体になっている。
「一番右にいるのが、小嶋元太君。その隣の細い子が、円谷光彦君。左端が、吉田歩美ちゃん。その前にいるのが、灰原哀ちゃんで。その隣に座っているのがコナン君よ」
 蘭が指さしながら言う。
 確かにコナンという子の首には、赤い蝶ネクタイがある。
 黒縁の眼鏡をかけた小柄な子。
「……似てる、かもしれない」
 小さい頃の自分に。
「かもじゃないわよ、そっくりよ!」
 新一の慎重な発言に園子が突っ込む。
「眼鏡を取った写真ってないのよね。そのほうが顔がよく分かるんだけど……」
 別のアルバムを繰りながら蘭が呟く。
 新一はじっと写真の中のコナンの顔を見た。
 彼は子供らしくない、すこし皮肉っぽい笑みを浮かべてこちらを見ている。
 その隣の哀もまた、後ろに立つ三人とは比べ物にならないほど醒めた瞳をしている。

 彼女は、俺が行方不明だった事件の、関係者……。

 自分が目覚めたとき、すぐそばに白衣を着て立っていた。
 手慣れた様子で医療機器を操っていた。
 何度か交わした会話の内容も、とても小学生とは思えないものだった。

 並んでいるコナンと哀は、よく似た雰囲気をまとっている。
 無邪気に笑っている元太たちとはまったく違う、大人びた眼差しのせいだろうか。

「哀とコナンは、なんか似ているな」
 思わずこぼれた言葉に、でしょ? と声を上げたのは園子だった。
「なんか醒めているのよねぇ、その二人。こっちがびっくりするほどしっかりしたことを話すし」
「それでも、コナン君の方が無邪気だったわよ。特にサッカーボールを持ったときは。あ、でも、事件が起こったときには違ったわね。真剣な顔をして現場をうろちょろとしては、お父さんに怒られていたっけ」
 蘭が懐かしそうに目を細めた。
「関係者に話を聞いて回ったりして、本当に探偵気取りだったわよね、あの子」
「でも、そのおかげで解決した事件もあったのよ。それに、服部君なんか、コナン君と一緒に証拠を調べたりしていたし……」
「服部と……?」
 思いがけない名前が出た。



 服部平次。
 大阪の高校生探偵。
 記憶をなくして目覚めたときに側にいた、同い年の男。
 哀と同じく事件の関係者。
 自分とは、ライバルであり相棒であったという。

 ―― 嘘やろ? なぁ、冗談やって、ゆうてや……。

 力無い声を、まだ覚えている。
 帰りがけに阿笠邸の外から自分のいる窓を見上げていた姿も、覚えている。

 日に灼けた肌。
 関西弁。

 彼に繋がるモノに触れるたびに、彼の姿がよみがえる。

 そして、罪悪感に苛まれるのだ。



「あ、れ? 新一君は服部君のことも覚えていないんだっけ?」
「……そうよね。服部君が初めてこっちに来たとき、新一は行方不明だったから。でも、そのときだけ、新一が帰ってきてくれたんだけど」
 覚えてない? と話を振られて、新一は頷いた。
「俺と服部はどんな仲だったんだ?」
「どんな仲って、ねぇ」
 蘭と園子が顔を見合わせる。
「私が知っている限りだと、二回しか会っていないはずなんだけど……。一回目がさっき言った服部君が初めてここに来たときで、二回目が文化祭の時」
「ええー! あれが二回目だったの?」
 園子が声を上げて目を見張る。
「全然そんな風に見えなかったよ。なんかもう、犯人を追いつめるときの息なんかぴったりだったしさ。もちろん、打ち合わせもなしでよ? あれが二回目の顔合わせなんて……。実は、新一君、服部君にはこっそりと会っていたんじゃないの?」
 園子に疑いの眼差しを向けられて、新一はむっとして言い返した。
「だから、覚えてねぇって言っているだろうが!」
「じゃ、忘れているだけで、きっとどこかで会っているわよ」
「勝手に決めつけるんじゃねぇ」
「でもね、新一」
 新一と園子のやりとりを苦笑しながら見ていた蘭が、どこか淋しそうに笑った。
「実際にそうだったみたい。私にはあんまり連絡をくれないのに、服部君とは割と連絡を取っていたみたいなのよ」
 新一は口をつぐんだ。

 確かにそうだろう。
 自分が追っていたという事件の関係者なのだから、彼は。
 事件の詳細を知っているのは、博士や哀、両親、そして彼だけ。
 それ以外は誰にも知らされなかった。
 知ることは、巻き込むこと。
 巻き込まれれば、否応なしに命に危険が及ぶような、危ない事件だった、らしい。

 新一の沈黙をなんと受け取ったのか、園子がため息をついた。
「過労の高熱のせいだかなんだか知らないけど、ものの見事に忘れちゃっているみたいね」
 続いて飛び出した言葉に、新一は虚を突かれた。

「記憶喪失が行方不明の間だけなんて、都合が良すぎるわよ」


 




 新一は園子と一緒に毛利探偵事務所を後にした。
 夕方近くとは思えない強烈な日差しに、肌が痛くなりそうだ。
 ひとしきり暑さに文句を言った後、園子が新一を見上げた。
「新一君てさ、なんか変わったよね」
「変わった?」
 そう、と答えて園子は口元に手をやった。
 真剣な顔で歩きながら考え込む彼女を窺いながら、新一は新一で自分のことを思い返してみた。
 そうして出た結論は。
「蘭に対することを言っているのか?」

 すでに過去形になってしまっていた、彼女への想い。

 一瞬、園子が顔を上げた。
「それももちろんあるんだけど……、なんか、もっとね」
 またすぐ考え事に耽った園子に、後ろから声が掛かった。

「あ、園子姉ちゃんだ!」

 振り返ると、さっき見た写真の子供たちが居た。
「あら、少年探偵団じゃない。元気そうね、相変わらず」
「俺はいつでも元気だぜぇ!」
「元太君の場合、元気すぎて大変です」
「あのね、昨日、元太君、ご飯を五杯も食べたんだって」
「……それは食べ過ぎだわ」

 小腰をかがめて子供たちの相手する園子の横で、新一は彼らの顔を順々に眺めた。
 大柄で声も大きい、元太。
 少し神経質そうな話し方をする、光彦。
 素直そうな、歩美。
 そして。
 観察するような目で新一を見ていた哀と、目があった。
 やはり彼女は何か違った。
 一緒にいる子供たちとは、決定的に何かが違う。

 哀がにこり、と笑った。
「こんにちは。工藤さん」
「あ、あぁ。こんにちは。哀ちゃん」
 哀の瞳の中を影がよぎる。
 新一がそれを確かめるより早く、声があがった。
「工藤さんって、工藤新一さんですか? 高校生探偵の」
 きらきらした目で、光彦が新一を見上げている。
 頷いてやったら、光彦がぱっと笑った。
「あ、ぼく、円谷光彦っていいます。ここにいるみんなと、少年探偵団っていうのを作っているんです」
「すっげぇ活躍してるんだぜ。警察からも褒められたことがあるんだからな」
 元太が勢い込んでいう。
「へぇ、すごいじゃないか」
 小学生で警察から褒められるようなことが出来るというのは、たいしたことだ。だが、一応新一は釘を刺した。
「でも、危ないことに首を突っ込むんじゃないぞ。子供なんだから」
 苦笑しつつの新一の言葉に、子供たちが固まった。
 沈黙を破ったのは、歩美の沈んだ声だった。
「お兄さん、コナン君と同じことをいう」
「本当ですね。一瞬彼のこと思い出してしまいましたよ」
「自分だって子供のくせに、いっつも俺らを子供扱いしやがったよな、あいつ」

 また、自分とあの子供の似たところが見つかったようだ。

「ねぇ、園子お姉さん。蘭お姉さんのところに、コナン君からお手紙とか着ていないの?」
 すがるような目で歩美に聞かれて、園子は苦笑している。
「連絡はないって。どうしているんだろうね。あの子」
「もう夏休みも終わっちゃったのに、どうして電話もくれないのかなぁ。コナン君。忘れちゃったのかな。歩美たちのこと……」
 泣きそうになった歩美の肩に慰めるように手を置いたのは、哀だった。
「江戸川君は事件を呼び込む体質の人だから、また何か事件を追いかけているんじゃないの? 謎解きの最中に周りが見えなくなるのは、いつものことじゃない。彼の場合」
 哀が歩美に優しく微笑みかける。
「気にしなくても大丈夫よ」
「そうですよ、歩美ちゃん。コナン君がぼくらのことを忘れるわけありませんよ」
「そうそう。そんなこと絶対にないから、安心しろよな。歩美」
 友人たちに口々に言われて、歩美がほっとしたように笑った。
「そうだよね。お友達だもん。忘れたりしないよね?」
 無邪気な彼女の言葉が、新一の胸に突き刺さった。

 俺は、なぜ、彼を――服部平次を忘れたのだろう?

 さまよわせた視線が、哀のそれとぶつかる。
 彼女の瞳は、疑問を投げかけていた。

 なぜ、あなたは、私たちを忘れたの?




 さっきまで興味津々で新一から事件の話を聞き出そうとしていた子供たちの話題は、いつのまにやらテレビアニメに取って代わられた。
 解放された新一は軽く息を吐いて隣を見やった。
 阿笠博士の家に行くという子供たちの後ろをついていきながら、園子がまたなにやら考え込んでいた。横を歩いている新一のことは、ほとんど眼中に入っていないようだ。

 別れる間際になって、やっと園子が口を開いた。
「やっぱり変わったよ、新一君。どこがって言われると上手く説明出来ないんだけど」
 園子は新一が口を挟む前に言葉を継いだ。
「以前の新一君なら、子供の相手なんて全然しなかった。なのに、今は嫌な顔を一つもしないし。でも」
 園子がにっこりと笑う。

「でも、前よりもずっといい男になったって感じよ」

 けど、蘭に手を出しちゃだめだからね! と言う科白を置いて、園子ひとりだけが角を曲がった。
 彼女に振った手を下ろしたところで、また新一は哀の視線を感じた。
 すぐに逸らされたそれは、良く知ったモノだった。

 何かを探ろうとする視線。

 彼女は俺のどんな過去を知っているのだろう?

 見つめた小さな背中からは、何の答えも返ってこなかった。






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