記憶の彼方

(1)






 目を開けると、白い天井が見えた。

 淡い夢を引きずっているような感じがして、新一はゆっくりと瞬きをくり返した。それでも、頭の中にかかっている霞は晴れない。
「血圧、心拍数、共に正常」
 耳元で冷静な女性の声がした。
「予定より六時間ほど遅れての覚醒ね」
 自分のことを言っている、新一にもそれだけは判った。
 新一が首を巡らせて声の主を捜そうとする前に、大きな声が部屋に響いた。
「新一君!」
「工藤!! ようやっと、目ぇ覚めたんか!」
 視界に飛び込んでくる、阿笠博士と浅黒い青年の顔。
「心配させおって」
「ホンマやで、寝過ぎや、おまえ。心労で俺が早死にしたら、おまえのせいやで」
「あら、貴方の場合は、自分のせいじゃない?」
 博士の隣にいた小さな女の子が、ステンレス製の器具を片づけながらからかうように言う。彼女が先ほどの声の主のようだ。てっきり年上の女性の声だと思っていたのだが、違ったらしい。大人びた口調に、白衣が妙に似合っている。
「君も無茶するからのぉ」
「あ、二人ともひどいわぁ。俺は工藤ほどやないで?」
「そうかしら?」
 頭上でぽんぽんと飛び交う会話に、状況を把握するための情報はない。おかげで何がどうなっているのかわからないまま、新一はベッドから身体を起こした。身体が重いような気がするが、それ以上に頭が重かった。まだ寝ぼけているのかと、軽く頭を振ってみる。だが、なにも変わらない。
 見慣れぬ機材が置かれた部屋。
 内装の感じ、窓の外の景色で阿笠博士の家だということは分かる。
 白く見えるほど眩しい景色を背にして、黒いTシャツにジーパン姿の青年はまるで影絵のように見えた。
「起きても平気なんか、工藤?」
 エアコンの効いた部屋に、夏を持ち込んでいるような彼が心配そうに尋ねてくる。
 新一はそれに曖昧に笑って応え、博士を見た。

「あのさ、博士。こちらの二人は?」

 大きな金属音が部屋に響いた。
「工藤!?」
 つかみかからんばかりの関西弁の青年の勢いに押されて、新一はベッドの上を後ずさった。彼は怖ろしいほど真剣な顔をしている。
「う、そ……」
 唖然としたような呟きにそちらを見ると、女の子が大きく目を見開いて新一のことを見つめていた。床にはステンレスの銀色が散らばっている。
「新一君……? まさか?」
「工藤……、笑えんジョークはやめようや」
 なにか、すがるような目で、青年が呟く。
「嘘やろ? なぁ、冗談やって、ゆうてや……」
 先ほどの明るい笑い声が嘘のように、彼の声は力無く途切れた。
 似合わない。
 なぜだか分からないまま、新一はそう思った。
 表情も、声も、違う。
 だが、新一は首を横に振った。

「悪い、誰だかわかんねぇんだけど……」

 青年の表情が凍りついた。
 だが、瞳だけが逸らされることなく新一を見つめている。
 貫かれるような、強い光。
 瞳に宿る彼の驚きがストレートに伝わってきて、新一は息が苦しくなった。
 耐えきれず目を逸らそうとした新一は、その前に青年の瞳が閉じられるのを見た。彼の口元に当てられた手が、かたく握りしめられている。

「工藤君。ちょっと横になって、検査したいの」
 まるで医師のような口をきく少女に戸惑い、新一はうろたえている博士の顔を見た。
「……いいから、彼女の言うとおりにするんじゃ。大丈夫。わしが保証するよ」
 博士にそう言われて、新一はゆっくりとベッドに横になった。
 青年はまだ目を閉じている。
 声を掛けようにも、名前がわからない。
 新一はもどかしい思いで、彼に手を伸ばした。
「おい」
 彼のTシャツの裾を引くと、すっと青年が目を開いた。
 にこりと笑いかけられて新一は驚いた。彼からさっきまでの動揺が消えていたから。
「なんか検査するようやな。それやったら、俺は下で待っとるわ。ほな、またあとでな」
 青年は新一に向かって軽く手を振ると、そのまま部屋を出ていってしまった。笑顔を残して、だが、振り返ることなく。

 博士と少女の手によって、頭に何かの器具を取り付けられながら、新一は彼の消えた扉を見つめていた。






 蝉の声がうるさい。
 閉め切られた窓を突き抜けて聞こえてくるそれに、平次はいらだっていた。先ほどから何度落ち着こうとしても、蝉の声が邪魔をする。蝉だけでない、こめかみが脈打つほどの心臓の音もうるさい。かたく目を閉じた暗闇の中に、耳障りな音が響きわたる。

 阿笠邸の居間でソファに座り込んだまま、平次はずっと俯いて頭を抱えていた。腿の上に乗った肘が、足に痛みを与え続けている。それでも、平次は顔を上げられずにいた。
 思いがけないことに頭が混乱している。
 普段の冷静な自分がなかなか戻ってこない。
 見たことのない新一の曖昧な笑顔。

 『誰だかわかんねぇんだけど……』

 思い出すたびに苦しくなる。



 コナンが解毒薬を飲むと阿笠博士から聞いて、平次は東京に出てきていた。
 そして、その日の夕方、コナンは薬を飲んだ。
 心配そうな表情を隠そうともしない博士と。
 ひどく真剣な瞳をした哀と。
 思わず息を詰めていた平次の目の前で。

「大丈夫だよ、服部。俺は運が強いから」
「悪運がやろ?」
「それも運だろうが」

 “理論上の完成品”という解毒薬の危険性を知って心配した平次に、コナンは強気に笑ったのだ。
 そして、彼は薬を飲み、直後、倒れた。
 それ自体は予想されていたことだったが、その後、新一の身体に戻ったにもかかわらず、彼はなかなか目を覚まさなかったのだ。
 そうして、起きたときには記憶をなくしていた……。



 小さな硬質の音がして目を開けると、テーブルの上になみなみとアイスコーヒーがいれられたグラスがあった。
「ブラックで良かったわよね?」
 確認を取るように尋ね、哀が平次の前に腰をおろした。
「……終わったんか? 検査」
 自分のブラックのアイスコーヒーを一口飲んで、哀は頷いた。切り揃えられた赤みを帯びた髪が、白い頬の上を滑る。幼い顔立ちに似合わぬ深い色を宿した瞳。そこに平次はコナンの面影を見た。

「……で、どうなんや? 工藤の様子」
「身体的には問題はないようなの。ただ、記憶をなくしている」
 哀の慎重な言い回しに、ただでさえささくれ立っている心がざわめく。平次は彼女の代わりにグラスを睨むと、一呼吸置いて応えた。
「そら、わかっとる。問題は何を忘れとるかや」
「抜け落ちたのは、江戸川コナンの記憶よ」
「コナンの……」
「そう。どうやら彼、自分がコナンだったことを忘れているわ。ついでに、その時に係わった事柄すべてね。私のことも、貴方のことも。自分が追いかけ、潰した組織のことも」
 平次の苛立ちが伝わっていないわけでもないだろうに、哀は淡々と事実を述べる。
「……そか」

 平次はようやくコーヒーに手を伸ばした。一口飲んで渇きを思い出し、一気にグラスを空ける。
「おかわりもろてもええか?」
 哀は軽く頷くと、キッチンからアイスコーヒーのペットボトルを持ってきた。
「好きなだけどうぞ」
「家でいれとるもんやと思とったのに……」
「アイスは消費が激しいから」
 平次は肩をすくめてそれを聞き流し、自分のグラスにコーヒーを注いだ。
 カラカラと氷が涼しげな音をたてる。
 二人はしばらくそれぞれのグラスを見つめていた。
 沈黙を破ったのは哀だった。
「彼と私が飲んだ薬は、再生系細胞に影響を与えるの。だから、記憶に支障が出ることもなく幼児化していられるわけ」
「脳味噌は非再生系やからな。で、それがどないしたんや?」
 哀が平次の顔を真っ直ぐに見上げて言う。
「わからない? その薬の解毒薬もやはり、再生系細胞にのみ、働きかけるのよ」
「……脳に影響はでぇへん、ちゅうわけか?」
「理論的には」
 平次はこくりとコーヒーを飲んだ。
「解毒薬の影響やないわけか」
「わからないわ。可能性は捨てきれない」
 哀は平次から目を逸らさない。
「……責めないの? 彼がこうなった原因は私にあるのよ」
「そんなことはないやろ? 今ゆうたばっかりやん。薬のせいやないわけやろ」
「違うわ。彼の身体にかなりの負担がかかったのは事実よ。激痛で彼が気を失うのを貴方も見たでしょう? あれが彼の精神に負担を掛けないはずはないわ。だから、きっと……」
「やめ、やめ。飲むゆうたんはあいつや。決めたんは工藤や。それに、あんた責めたかて、どうしようもないやろ?」
 俺は無駄なことはせぇへん主義やからな。
 そう言って笑いかけると、哀は目を逸らした。
「工藤はともかく元気そうや。記憶はのうなっとるけど、大したことはないやろ。元々行方不明やった時期なんやし」
 平次は自分自身に言い聞かせた。
 ごまかしはいくらでも利くはずだ。
 だいたい、やっかいな事件を解決して過労で倒れ阿笠博士の家で療養中、と言う筋書きで工藤新一は日常生活に戻る予定だったのだから。高熱のために事件中のことは忘れた、ということにでもすればいい。世間には。
 哀が呟くように言った。
「彼は、私たちを忘れた。私たちの知る彼は、いなくなったのよ。今の彼は、私たちの知らない彼」
 哀は虚ろに問う。

「彼はいったい、何を忘れたかったのかしら?」





 窓の外は夕方近いというのに真夏の太陽が照りつけていてひどく暑そうだ。
 新一はベッドに腰掛けぼんやりと外を眺めていた。
 自分はどうやら一定期間の記憶をなくしているらしい。最後の記憶は蘭とトロピカルランドへ行った物だ。どうやらその帰りにやっかいな事件に巻き込まれて、行方不明になっていたらしい。その事件を解決して博士の家にたどり着いたところで倒れたのだと、さっき博士本人から聞いた。
 目覚めたとき側にいた二人は、その時の関係者だと言うことだが、やはり何も覚えてはいない。

 ノックがして扉が開いた。
 先ほどの青年がひょいと顔を覗かせる。彼は新一と目が合うとにっこりと笑った。新一が軽く頷いてみせると、部屋の中に入ってくる。無造作な黒のTシャツにブルージーンズをいう出で立ちが、すらりとした体格によく似合っている。
「よう。さっきより顔色よくなったんちゃうか?」
 彼は親しげな関西弁を操りながら、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。新一はベッドの上を移動して、彼の正面に座った。
「あ、えっと……」
 まだ名前を聞いていなかった。それを察したらしい彼が、笑いながら手を差しだした。
「俺は、服部平次。大阪で、工藤と同じように探偵しとる男や。同い年やし、これからもよろしゅうな」
 目の前で人なつこく笑っている平次から、新一が彼を忘れてしまったことのショックは感じられない。
「で、俺と服部はどういう関係だったんだ?」
「そやな。まぁ、ライバルっちゅうか、相棒っちゅうか。まぁ、そんなもんや」
「……覚えてねぇ」
「無理して思い出すことないやん。過労のショックやろうから、いずれ落ち着いたら戻るやろ。気にしすぎるとかえってよくないんちゃうか?」
 慰めるように言われて、新一はため息をついた。
「なんか情けねぇなぁ」
「大丈夫やって」
 脳天気に励まされる。
 人ごとだと思ってと文句の一つも言おうとしたとき、平次の視線に気が付いた。彼は新一ではなく、ベッドサイドのテーブルを見ていた。視線をたどると、赤い蝶ネクタイ。そう言えば、起きたときからそれはそこにあった。
「その蝶ネクタイ、もしかしておまえのか?」
 はっとしたように平次が新一を見た。彼は慌てて首を振る。
「ちゃうちゃう。俺のやないで」
「じゃ、誰のだろう? まさか俺のとか?」
 尋ねた途端、平次の目が細められた。
 心の奥底を透かし見るような、鋭い目。
 だが、その不快な視線は一瞬にして消えた。平次が笑う。
「おまえのや、ない。俺はおまえがアレをしとるとこは見たことないわ」
 新一がそれに手を伸ばそうとしたとき、平次が立ち上がった。
「今日のとこはもう帰るわ。大阪に来るときは連絡くれや。案内したるで。ほな、身体に気ぃつけてな」
 平次は新一に立ち上がる隙も与えず、部屋から出ていった。ひらひらと振る手と笑顔を残して。

 取り残された新一はしばらく唖然として扉を見つめていたが、思い直して蝶ネクタイを手に取った。
 裏になにやら機械が付いている。パジャマの上から着けてみようとしたが、サイズが合わない。やはり自分の物ではないらしい。

 子供用に見えるけど……。
 それがなんでこんな所に?

 それに、さっきこれを見ていた平次の視線。
 彼はこの蝶ネクタイに見覚えがあるようだ。
 新一はふと平次が気になってベッドから立ち上がると窓に近寄った。
 二階にあるこの部屋は見晴らしがよい。窓に顔を近づけて外を覗くと、ちょうど博士に見送られて平次が門の外に出るところだった。野球帽をかぶり、肩にはドラムバッグを担いでいる。
 博士に手を振り平次は歩き出した。博士も玄関へ戻って行く。
 新一は何気なく平次を目で追っていた。
 やがて彼は立ち止まり、こちらを振り返った。新一は思わずカーテンの影に身を隠した。

 なにしてんだ、俺。
 やましいことなんてしていないのに。

 カーテンの隙間からそうっと覗くと、平次はまだじっとこちらを見ていた。
 夏の日差しに照りつけられて、彼の足元にはくっきりと濃い影が出来ている。だが、つばの影になって平次の表情は全く見えない。
 ただずっと、彼は新一のいる窓を見上げている。

 なにを、しているんだ……?

 新一は博士が部屋に来るまで、カーテンの影からそれを見ていた。




 
 サラリーマンでごった返している新幹線ホームを平次はゆっくりと歩いていた。普段なら自由席の列に並ぶところだが、今日はそんな気になれず指定席券を購入している。
 日が落ちてもいっこうに下がらない気温に辟易しながら、平次は自販機でアイスコーヒーを買った。満員のベンチを諦め、階段の脇に陣取る。腰辺りまでの壁により掛かり、ついでにその上に荷物を載せてしまう。目の前に止まる平次が乗る新幹線は、折り返しのための清掃中だ。車内でてきぱきと働く清掃員を見ながら平次はプルトップを引き上げた。

 ―― 誰だかわかんねぇ。

 新一の声が平次の心に棘のように刺さっている。
 棘、なんて可愛いもんちゃうな。
 拳銃で撃たれたときのような痛み。
 熱いのか痛いのか、判断のつかない衝撃。
 気合いを入れておかねば、身体から力が抜け落ちてゆくような感覚。
 ちゃんと、笑えていただろうか?
 自然に振る舞えていただろうか?
 自分から何かを読み取ろうとする、探偵の瞳の前で。
 瞳は同じだった。
 そこに浮かぶ光は自分の知っている工藤新一のモノだった
 だが、色が違う。

 平次はコーヒーを一口飲んだ。のどにつかえるモヤモヤを一緒に飲み込む。
 ―― 私が惹かれたのは、江戸川コナンだったのかも知れない。
 哀が自嘲気味に呟いた言葉。

 俺が惹かれたんは、誰や?
 逢いたくなって逢いに行ったのは?
 話しがしたかったのは?
 笑顔が見たかったのは?

 確かに、初めて彼を知ったのは、メディアを通してだった。この時の工藤新一は、自分の知らない彼だ。今の彼と同じ。
 行方不明だと聞いて、逢いに行った時、すでに彼はコナンだった。

 『真実は一つしかねぇんだからよ』そう言って笑ったのは、今は居ない彼。
 容疑者の自殺を止められずに『人殺しと変わらねぇ』と呟いたのも。
 あこがれの人の罪を、見逃すことが出来ずに暴いたのも。
 幼児化するというハンディキャップを背負いながら、大きな犯罪組織を壊滅させた彼も、今は居ない彼……!

 平次の手の中でスチール缶が音をたてて変形した。勢いで少しコーヒーが零れる。

 俺が惹かれたんも、江戸川コナンやった工藤新一なんか……。
 コナンの記憶をなくした彼は、自分の惹かれた男ではないのか。
 自分が認め、認められたいと思った男ではないのか。
 心の底から出会えたことを感謝した男。
 彼の親友であると言うことが、誇りですらあったというのに。

 なんで。
 なんで忘れてもうたんや?
 コナンになって辛いことばっかりやなかったやろうと思とったんは、俺の勝手な想像か?
 工藤……!
 おまえは何を忘れたかったんや……?

 平次はへしゃげた缶コーヒーを一気に飲み干した。





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