無自覚な関係シリーズ 第十三章
収 束
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かろうじて動く左手で、快斗はハンググライダーのハーネスを外した。冷たいコンクリートの上に転がったまま、快斗はスクラップになってしまった命の恩人にキスを送る。
快斗はごろりと仰向けに転がった。キッドの白い衣装も見る影もない。早い雲の流れの中にある月が正面に見えた。
快斗は笑おうとして、切った唇の痛みに顔をしかめた。
横からの突風にバランスを崩し、立て直しきれずに急降下したあげく、解体工事中のビルの屋上に突っ込んだのだ。しかし運良く、張り巡らされていた防塵ネットやグライダーのおかげで、快斗は屋上に叩きつけられるのを免れた。免れたが、屋上を半分以上滑るように転がったあげく、積んであった資材にぶつかって止まった快斗は、もちろん無傷では済まなかった。
快斗は自分の身体を点検するように動かしてみた。
全身くまなく痛いが、手足の指はきちんと動くし、握力もある。だが、とっさに頭をかばった右腕は、肩の関節を痛めたようで動かすとうめき声が出そうになる。墜落の原因になった、昼間に痛めた左肩が無事なのは皮肉だ。今回逃走用の服を衣装の下に仕込んでいたのも幸いした。クッション代わりになって大きな擦り傷や切り傷を作らずに済んだ。その代わり、キッドの衣装はぼろ布になっている。
左手で右腕を押さえ、快斗は資材に寄りかかって上半身を起こした。左足は打撲、右足首はひねったようだ。
ハンググライダーの墜落事故にしては奇跡的に軽い怪我で済んだことを、快斗は今回の仕事も徒労に終わったことを知らしめてくれた月の女神に感謝した。
快斗は改めて辺りを見回した。
自分が破った防塵ネットが強い風にうるさくはためいている。隣のビルの屋上には派手なホテルのネオンがあり、月明かり以上に明るく快斗のいる屋上を照らしていた。眠らない街のざわめきが風に途切れながら届いてくる。賑やかな繁華街の裏にあるホテル街に落ちたらしい。
おそらく墜落の目撃者はいないだろうと快斗は思った。
星も見えない狭い夜空を見上げるような酔狂な者はこのあたりにはいない。
いつ飛んでいたのか、シルクハットが風で転がってきた。気がつけばモノクルもなくなっている。見える範囲には落ちていない。あちこちに積まれた資材の下に転がり込んでいるとなると探すのに骨が折れる。
快斗は顔をしかめた。必ず回収しておかなければならない。墜落中、外れていなかったのは覚えている。そうなると、この屋上にあるはずだ。ここにキッドがいたという証拠は、消しておかなければならない。
シルクハットをまた転がっていかないように捕らえて、快斗はキッドの衣装を脱ぎにかかった。いくら目撃者がいなくても、早くここから逃げた方がいい。寺井がリモコンで飛ばしているダミーに警察の目すべてが惑わされているとは限らない。三体それぞれに追っ手がかかっていれば、いずれここを突き止められる。
『キッド!』
叫んでいた探の顔が浮かんだ。
彼が中森警部にマークされていると小耳に挟んだのは、数日前。それを実際に目にしたのは今夜だった。
今回探を出し抜けたのは、目付役がいたせいではないかと思う。中森の紐をつけたまま自分に会いたいとは彼も思うまい。
『キッド!』
遠く離れていたのに、なぜか探が泣いているように見えた。
彼はどうしているだろう。
落ちたキッドを本物と見抜いているだろうか。
なにも知らずにダミーのキッドを追っているのだろうか。
もし墜落を見ても、ここには来ない。
中森の監視の目が光っている限り、彼はここには来られない。
なにを考えているのかと、快斗は小さく笑った。
痛む身体をなだめながら、快斗はどうにか白い衣装を脱いだ。それをシルクハットと一緒に小さく畳んで、風で飛ばないように資材の影に置く。近くに転がして置いたハンググライダーの残骸を引き寄せる。出来る限り軽量化したグライダーの骨組みは衝撃に弱く、とても元のように折り畳めるような状態にはなかったが、破れたセールを利用して無理矢理棒状にまとめて杖の代わりを作った。
快斗は即席の杖にすがって立ち上がった。痛めた右肩は使えない。ひねった右足に体重を掛けると、全身に痛みが走る。かろうじて痛みに耐えられる身体の左半分を利用して、ゆっくりとモノクルを探すために移動しようとした。
そこに、解体用の外付け階段を駆け上る足音が聞こえてきた。
快斗はとっさに資材の影に身をひそめた。奥歯を食いしばって激痛に耐える。
私服の中に潜ませていたトランプ銃を取り出すと、動く左手でかまえ、息を殺して近づいてくる足音に備えた。音の重さや足取りで、男ひとりとわかる。
快斗の頭に浮かんだのは、探の顔だった。
『きみの力になりたいんです』
忘れられない言葉が耳の奥に響く。
快斗は一瞬、目を閉じた。
彼が来るはずがない。
『Uターンだ! Uターンしろ! 戻るんだ!』
警察無線が中森の怒鳴り声を乗せて、覆面パトカーの中に響いた。
突然の指示に驚きながらも、刑事はハンドルを切った。郊外に向かっていたパトカーが次々と都市部に向かい始める。
「白馬探偵。どうして戻るんでしょう?」
「おそらく追っていたグライダーのキッドが、すべてダミーだったのでしょう」
内心の焦りを押し隠し、探は笑った。もう少しダミーのキッドを追って、時間を稼げるものと考えていたのだ。
「非常線の警備を強化する気のようですね」
重要な情報をさりげなく復唱する。
今頃新一と平次が快斗を救出するために墜落現場に向かっているだろう。彼らが警察よりも早く快斗の元にたどり着ければ、どんなに強固な非常線でも突破してくれるはずだ。彼らの行動力は危なっかしいほどあるのだから。
探はジャケットの胸を押さえた。
実際に助けに行けない自分が歯がゆくて仕方がない。
快斗の操るハンググライダーがバランスを崩し、落ちていった映像が、何度も何度も脳裏に浮かぶ。
彼はきっと怪我をしている。
ハンググライダーの墜落事故は、死亡するケースも少なくない。
探は右手で軽く顔を覆った。
表情を運転席の刑事に見られたくない。
どうか無事で。
遠くに見える都市部の灯りを睨みながら、探はただひたすらに祈った。
足音が屋上に着いた。駆け上がって来た足が止まり、ざり、と靴が小石を踏みしめる。
「黒羽」
聞き慣れた声が聞こえた。
安堵のあまり快斗は隠れていた資材に寄りかかった。トランプ銃が手から滑り落ち、硬い音を立てる。
快斗は自分が発信器を持たされていたことをようやく思い出した。すっかり忘れていたことが笑える。
「黒羽、おるんやな」
迷わず近づいてくる平次にわかるように、落ちた銃を滑らせる。彼はすぐに駆け寄ってきた。手にコナンの眼鏡がある。
快斗はへらりと笑って見せた。
「黒羽!」
さすがに平次の顔色が変わった。
「どじった。ごめん」
「謝るんは後でええ。怪我はどうなんや。頭は打っとらんのか」
首や背骨や腰は、と平次は厳しい表情のまま、快斗の怪我を確かめる。
「頭は死守したから平気。主要なところは大丈夫みたいだけど、代わりに右肩と右足がやられている。折れてはいないと思う」
「とにかくここを離れるで」
自分を担ごうとした平次を快斗は慌てて止めた。
「モノクルを落としたんだ。残していくわけにはいかない」
どこや、と平次が辺りを見回す。
「破ったネットの近くだと思う。落ちるまではしてたから」
平次が素早く離れた。彼は快斗が転がった軌跡をたどり、視線を低くして資材の影などを探していく。
それを横目に見ながら、快斗は隠していたキッドの衣装を引っ張り出し、グライダーの杖を頼りに立ち上がった。痛みをこらえるせいか、それだけで息が切れる。
足を引きずりながら、階段に向かう。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。気のせいか、近づいてくるようだった。
「あったで。これやろ」
差し出されたモノクルにはヒビひとつ入っていなかった。
快斗が頷くと、平次はそれを自分のハンカチに包み、快斗の持つシルクハットの中に落とし込んだ。
「さぁ、とっとと帰るで。乗りや」
平次が背を向け屈む。
快斗はためらうことなくその背に負ぶさった。遠慮などしている場合ではない。
丁寧によろしく、とふざけて見せた快斗は、どあほと怒られた。
ビルの下には車が止まっていた。横には携帯電話を耳に当てた新一が立っている。平次は辺りをさっと見回し、人目がないことを確かめると足早に車に近づいた。新一は平次に背負われた快斗の姿を認めると、素早く後部座席のドアを開けた。快斗の持っていた荷物も新一が受け取る。
「大丈夫なのか」
新一の声は硬い。表情も硬かった。
「とりあえず」
快斗は後部座席に押し込められながら笑って見せたが、新一の表情は変わらなかった。荷物を抱えたまま、彼は快斗の隣に乗り込む。平次は無言のまま運転席に乗り込んだ。
車が動き出し、快斗は大きくため息をついた。安堵に身体の力が抜ける。
「ありがとう、ふたりとも」
「安心するのはまだ早いぞ」
携帯電話を離さないままの新一はそういうと、バックミラー越しに平次と視線を交わした。