無自覚な関係シリーズ 第十一章
転 換
― 中 ―
探は自室の明かりをつけようとして、手を止めた。
暗い部屋の奥、普段ならこの時間閉められているはずのカーテンが開いている。庭木の梢が月光に照らされているのが見えた。その景色を切り取るようにして、ベランダに人影がある。シルクハットにマントのシルエットは間違えようがない。キッドだ。
探は明かりをつけないまま、ベランダに歩み寄った。
開け放たれた窓からは涼しい夜風が吹き込んでくる。
探が近寄っても、キッドのシルエットは微動だにしない。
「どうしました?」
「傷は?」
月を背にして、キッドの表情は読みにくい。だが、言葉に滲む心配の色に探は笑んだ。
「かすっただけです。軽い火傷をしただけですよ」
傷のある左腕を軽く振ってみせる。袖の下には一応包帯が巻かれているが、飾りのようなものだ。
ふとキッドの肩から力が抜けた。
「拳銃を発射した刑事の処分は明日にでも出るでしょう」
「中森警部の責任も問われるのでは?」
彼の声からも緊張が抜けたように思う。
「仕方のないことです。でも、僕の怪我がたいしたことないのでそれほど重い処分はされないでしょう」
軽率に発砲した刑事の資質を探は疑うが、彼の処分を重くすれば監督者として中森の処分も重くなってしまう。ちょっとしたジレンマだと探は思った。
「怪盗キッドを追うことが彼の生き甲斐のようですし、私としても警部と対決できなくなるような事態は避けて欲しいところですね」
淋しくなる、とキッドは言う。
自分がヨーロッパへ行っていた間、彼は淋しくなかったのだろうかと探は思った。
自分は彼のことがずっと気になっていたというのに。
帰国してみれば、彼は他の探偵と同居をしており、探は複雑な思いに駆られたものだ。
だが、今夜はわざわざ自分に会いにキッドは来た。
それが嬉しくてたまらない。
探は笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「お見舞い、ありがとうございます」
「借りを作りたくないだけですよ」
ポーカーフェイスが売りの怪盗の顔に、不本意と大きく書いてある。本来の快斗の表情だ。探が笑うと、ますます彼は不機嫌な顔になった。
「お茶でも飲んでいきませんか」
少し話をしましょう。
和んだ空気に気をよくして、探は彼を部屋に誘った。キッドの彼と落ち着いて話をする機会など、なかなかない。
だが、さすがにキッドは首を振る。
そして彼はベランダの柵の上に身軽に腰掛けた。夜風にマントがふわりと広がる。
探も彼に倣ってベランダに出た。柵には座らず、寄りかかる。見上げたキッドは月を背負っていた。
「話とは?」
キッドからはまた快斗の影が消えていた。
「屋上でしていた話の続きですよ。宝石を月にかざす意味について」
キッドが微笑った。
「もう気づいているのでしょう。その意味に」
「何かが入っている宝石を探している。ということですね」
無言を肯定と見て、探は尋ねた。
「それはなんですか」
「永遠の命」
返らないと思っていた答えを投げやりに放られて、探はとまどった。
永遠の命の入った宝石など、常識では考えられない。だが、キッドが嘘や冗談を言っているとは思えなかった。
「本気でそれが欲しいんですか」
永遠の命など、欲しがるのは権力者、特に独裁者に多い。公然と犯罪を犯すキッドだが、権力などに興味があるようには思えなかった。誰かの手先となって探しているというのも、想像がつかない。
キッドは自分の信念でしか動かない。
探はそう考えている。
「まさか」
キッドが片頬を歪めて言い放つ。いつになく強い語調が気にかかった。
「それならば、なぜ?」
「この世から消し去るため。その存在も、噂も」
月光で影になった彼の表情は読み切れない。だが、強い意志だけはしっかりと伝わってきた。
「僕に出来ることはありませんか」
気づくと探はそういっていた。
キッドの苦笑に我に返ったが、発言を取り消す気にはなれなかった。
「永遠の命を探す手伝いをさせて欲しいのです」
言い募る探にキッドの苦笑が深まる。
「無理を言わないように」
キッドが探を見下ろして笑う。
「探偵に手伝ってもらう怪盗なんてしゃれにならないでしょう」
「でもその宝石が見つかるまで、きみはキッドを続けるのでしょう? 長く続ければ続けるだけ、捕まる危険が増えるとは考えないんですか」
「そう簡単に捕まる気はありませんよ」
あくまで自分の提案を真剣に考えようとしない彼に探は詰め寄った。
「そうでしょう。それはよくわかっています。でも」
探は思わずキッドの腕を掴んでいた。
「僕はきみに捕まって欲しくない」
違う、と探は思った。そうではない。
驚いたようにキッドの動きが止まっていた。彼の表情は快斗のものになっている。
「僕以外の誰かに捕まって欲しくないんです」
彼を捕らえるのは自分でなければ嫌だった。
たとえそれが自分より長くキッドを追っている中森であったとしても。
柵に腰掛けたまま凍りついたようになっている彼を探は間近から見上げた。
そこにはキッドの仮面が剥がれ落ちた、モノクルをつけた黒羽快斗がいた。
「僕はきみの力になりたい」
それが犯罪に手を貸すことであったとしても、彼を誰かの手に渡したくなかった。
「力になりたいんです」
自分の持っている情報網はきっと彼の役に立つ。
大きく目を見張ったまま、彼はなにも答えない。
「黒羽くん」
思わず探は彼の本当の名を呼んでいた。
一瞬で快斗の顔にキッドが戻った。
そして彼の白い手袋がひらめいて、探の足下で煙玉が破裂した。手が弛んだ隙に、キッドの腕がすり抜ける。
「待って!」
叫んだ探の腕は空を切った。
煙が晴れたとき、キッドの姿はどこにもなかった。
皓々と明るい月を見上げ、探はそっとため息をついた。
「飲め」
赤い顔の新一を横目に見ながら、平次は彼の傾けるビールをグラスで受けた。
「工藤。おまえはもう寝た方がええんちゃうか」
酒が注ぎにくいからとふらつきながら平次の隣に移ってきた新一は、先ほどから眠そうにあくびをしている。だというのに、ソファの背もたれにしなだれかかるようにしながらも彼は、平次に酒を飲めと絡み続けているのだ。
「これを飲んだらな」
新一が自分のグラスを振ってみせる。
これが最後と約束させた酒だ。オンザロックだったのに、もうすっかり氷が溶けている。それを舐めるように新一は飲んでいた。
「それ、もう美味くないやろ」
「じゃ、別のを作ってくれるっていうのか」
平次が首肯するはずないとわかっているのだろう、にやりと新一が笑う。
「あほ。もう飲むな、ゆうてるんや」
ひとしきり声を上げて笑った後、新一は窺うように平次を見た。
「確かに美味くはねぇけどさ、もったいないだろ。おまえ、飲むか? 飲まないなら最後まで俺が飲むけど」
新一の酔眼になにか企むような光が閃く。しかし、それは一瞬で消え、平次の目にはとまらなかった。
「わかった。飲んだる。グラス貸せ」
平次は手を差しだした。
だが、すぐ渡されると思っていたグラスは、新一が一口飲んでから押しつけられた。
「ほら、飲め」
じっと見つめてくる新一に居心地の悪さを感じながら、平次はそれを一気に空けた。水っぽくて想像通り美味いとはいえない代物だ。
「飲んだな?」
「飲んだで」
グラスを置いた平次に、新一が嬉しそうに笑った。
平次の心臓が大きく跳ねる。
「飲んだな。俺の酒」
俺の飲んでいた酒、と彼は呟くように言う。
くすくすと笑いながら、新一が平次の方に倒れ込んでくる。支える間もなく、彼は平次の太股を枕にして、ソファに寝ころんでしまった。
パジャマ代わりのスエット越しに新一の熱が伝わってくる。思わず立ち上がり掛けた平次を、新一が睨んだ。
「動くなよ。落ち着かないだろ」
「おい! 工藤、なにしとる」
「いいじゃねぇか。酒代の代わりだ」
「寝るんやったら、部屋で寝ろ」
動揺している平次をおかしそうに新一が眺めている。
「まだ寝ない」
「あのなぁ、工藤」
足に乗る新一の頭の重みと伝わってくる彼の熱が、平次の混乱に拍車を掛ける。下から見上げてくる新一は、そんな平次の様子を楽しんでいるらしい。
「快斗が帰ってくるまで、枕代わりになってろ」
新一はゆうゆうと仰向けになって、足まで組んでいる。軽く組んだ腕が彼の胸の上で呼吸に合わせて上下してた。見るともなしにそれを見て、平次は内心でため息をついた。
新一は赤い顔で上機嫌に笑っている。
もちろん平次の太股の上で。
――絡み酒なんか、工藤は。
平次の長い夜はまだ始まったばかりだった。