無自覚な関係シリーズ 第十一章

転 換

― 後 ―



 アスファルトの上に影が伸びている。
 月を背負い、快斗は自身の影を踏むように夜道を歩いていた。住宅街の細い道はすっかり寝静まっている。快斗のスニーカーもその静寂を破るようなことはしなかった。
 舌打ちして、快斗は無意識のうちに左腕を掴んでいた右手を放した。気がつくと、二の腕を掴んでいる。白馬に掴まれたところを。
 快斗は大きく息を吐いて空を見上げた。月が視界の端に引っかかってまぶしい。
『力になりたいんです』
 また探の声が聞こえた。
 それは彼の元を逃げ出してからずっと快斗の耳を離れない。
 腕には感触、耳には言葉、そして目には探の真剣な眼差しが焼きついてしまっている。
 ――まずかったな。
 ため息を夜空に向かってはき出して、快斗は正面を見据えた。

 踏み込みすぎてしまった。
 探には近づきすぎてはいけないという予感は前々からあったというのに、それに逆らってしまった。
 ――結果、これか。
 探は快斗に正面からぶつかってきた。なんの駆け引きもなく。
 捕まって欲しくない、力になりたい、という彼の言葉には嘘がなかった。あの目では嘘はつけないと快斗は思う。
 吸い込まれるような、必死な色をした目。もしあのとき探が快斗の本当の名を呼ばなかったなら、正気に返れたかどうかわからないほど、真摯な力のこもった眼差しだった。
 視線で絡め取られたことなど、くやしいが初めてだ。
 言外に探は共犯者になりたいと申し出たようなものだ。

 新一と平次は共犯者ではないと快斗は考えている。
 彼らのなわばりである殺人にさえ踏み込まなければ、あのふたりはキッドに絡むようなことはない。
 彼らもきっと快斗には捕まって欲しくないと思っているだろうし、力になりたいと言ってくれるかも知れない。しかしそれは今のところキッドの正体を明かさないという、消極的な形でしか表には現れてはいない。
 だが、探は違う。
 出会ってからこのかた、彼はキッドを追うことを探偵活動の中心に据えてきた。彼が力になりたいといえば、それはキッドの活動そのものの力になるということだろう。情報を集め、トリックの一端を担う、寺井のような存在になるということだ。
 快斗は頭を振った。
 確かに探の持つ情報網は魅力的だ。
 だからといって、彼を本格的な共犯者にしてしまうのは躊躇う。
 何度ため息をついても、答えは出ない。
 快斗は黙々と工藤邸に向かって歩き続けた。





 空になったグラスを平次は意味もなくもてあそんだ。膝の上から注がれる新一の視線がどうにも平次を落ち着かなくさせる。
 真っ赤な顔の新一は妙に上機嫌だ。
 平次は時計に目をやってそっとため息をついた。
 快斗はまだ帰らない。
 キッドとしての仕事を無事に終えて、寄り道してくると連絡してきたのだから、いつもより帰りが遅くなるのはわかっていた。
 しかし今、切実に快斗に帰ってきて欲しい平次だった。
 膝の上に新一を乗せたままでいるのは、拷問に近い。緊張から肩こりになりそうだ。

「黒羽、遅いな」
 こぼした平次に新一が険のある目つきになった。
「工藤?」
「そんなに快斗が心配か?」
 声までとがっている。
「そらまぁ、同居人やし」
 ふうん、と新一が平次を睨む。
 さっきまで上機嫌が消えている。
「じゃ、俺が遅くなっても心配するのか?」
「そらもちろん」
「同居人だから?」
「そら、まぁ」
 それだけではないと平次は心の中で思ったが、顔には出さなかった。
 ふうん、と今度は不満げに新一が答える。

 しばらく黙って平次の顔を見つめていた新一が口を開いた。言葉を選ぶようにゆっくりと話し出す。
「最近さぁ、おまえ快斗と仲がいいよな」
「そうか?」
「そうだよ。俺といるより、快斗といるほうが楽しそうだ」
 思いがけない言葉に一瞬平次は反論が出来なかった。
 平次の沈黙をなんと捉えたのか、新一が目を逸らした。そのまま平次の膝から身を起こそうとする。
 平次は慌ててその肩を押さえつけ、新一の顔を上から覗きこんだ。
「ちゃうって。そないなことはない。工藤の気のせいや」
「嘘つけ」
「嘘ちゃうって」
 すねているような新一の酔眼に平次は訴えかけた。
 平次の目を見つめた後、新一が肩を掴んだままの平次の腕に手を掛けた。
「わかったよ」
 だから放せ、肩が痛い。
 言われて初めて平次は腕に込めた力に気づいた。
 大げさに謝る平次に新一が笑う。

 彼の笑い声を聞いて、平次の気が抜けた。
「せやけど、さっきの言葉、まるで焼き餅焼いとるように聞こえたで」
 平次がぽろりといったとたん、新一が大きく目を見開いた。赤かった顔がさらに一段赤くなる。
「工藤?」
 新一の手が胸を押さえるのを見て、平次の背筋が冷えた。
「工藤! 発作か」
「違う!」
 抱きかかえようとした平次の腕を振り払って、新一が起きあがった。平次に背を向け、肩で息をしている。首筋も真っ赤だ。
「ほんまに発作ちゃうんか?」
「発作じゃねぇよ。心配すんな」
 唸るように答える新一の腕が、テーブルの上の缶ビールに伸びた。
「ちょお待て。それ以上飲まんゆう約束やろ」
「じゃ、水寄こせ」
 振り向きもせず言う新一に平次は苦笑してキッチンに向かった。

 グラスにミネラルウォーターを注ぎながら、平次は背中でリビングの気配を窺った。
 ――なんか変やな。工藤のやつ。
 咎められるのをわかっているだろうに酒を飲んだり、いつになく絡んできたり。
 今日は特に何事もなく平穏に過ぎた一日で、特に新一が荒れるような理由は見あたらない。いつもと違うことといえば、快斗が寄り道をして遅くなるということくらいだ。
 ――黒羽のことが心配で、ゆうんはないやろな。
 それならキッドの仕事のたびに新一は荒れなければならない。
 平次は首をひねった。





 平次がグラスに水を満たしてリビングに戻ってみると、新一はクッションに顔を埋めソファに突っ伏していた。
「工藤、大丈夫か?」
 グラスをテーブルに置き、彼の肩に手を掛けそっと聞く。反応はない。具合が悪いのか、眠くなったのか、判別がつかない。
「なぁ」
 屈み込んだ平次の腕を新一の手が掴んだ。
「悪いかよ。そうだよ。悪かったな」
 顔を上げた新一の目は据わっていた。言っていることも意味不明だ。
 あかん、と平次は思った。
 完全に新一は出来上がっている。
 横目で見ると、空いている缶がひとつ増えている。平次がいない間に新一が飲んだらしい。持ち上げてみると空だった。
 ―― 一気飲みしたんか、こいつは!
「ああ! 工藤、もう寝たほうがええ。ちゅうか、寝ろ。部屋に連れてったる」
 とりあえず立ち上がらせようと引いた腕を、逆に新一が引っ張った。酔っぱらいの手加減なしの力に、さすがの平次もバランスを崩す。倒れ込むようにソファに収まった平次を見て、新一が身体を起こした。

「悪かったな!」
「なにがやねん、工藤」
「焼き餅焼いて悪かったなっていっているんだよ」
 驚いた平次は新一の投げたクッションをまともに顔面で受けた。
「焼いたっていいだろうが。快斗とよりも俺との方がつきあいが長いんだぜ。なのに、俺といるより楽しそうにしているじゃねぇか」
 平次がクッションの影から様子を窺うと、新一は赤い顔のまま睨んでいた。酔眼は据わり、いっそ凶悪に見える。顔立ちが整っているからなおさらだ。
 触らぬ神にたたりなし、と平次はそっと思った。
「そないなことないって」
「いや、ある」
 真っ直ぐ指を突きつけられて、平次はたじろいだ。
 心当たりならある。
 平次は快斗相手ならば緊張する必要がないからだ。新一とふたりきり、となれば沈黙してしまうのが恐ろしいほど緊張する。今だってそうだ。幸い彼が酔っているので、平次も普段より余裕を持って接することが出来ている。

「ほら、見ろ。おまえは嘘つくのが下手だな」
 挑戦的に顎を上げて新一が言い放つ。
 どう見ても彼は酔っている。しかしその目は酒で曇ってはいないようだ。
「嘘ちゃうって。信じてくれや」
 訴えかけても、新一の視線は揺るがない。
「信じられねぇ」
「あのなぁ……」
 頑固な酔っぱらい相手に平次がほとほと困り果てているところに、ようやく快斗が帰ってきた。
 ほっとした平次を見て、また新一が顔をしかめる。

 程なくリビングの扉が開いて快斗が顔を覗かせた。
「ただいま」
 快斗は心なしか疲れているように見える。
「おかえり」
 新一に詰め寄られながらも、平次は彼に笑顔を向けた。それに応えた快斗の表情が新一の様子とテーブルの上を一瞥したとたん、険しくなった。
「平次、新一に飲ませたのか?」
 平次の返事を待たず、快斗が新一に駆け寄る。
 心配そうに顔を寄せた彼に新一が言った。
「おまえにはやらねぇ」
「なにを? それより、新一、酒は飲むなって言われているでしょうが、哀ちゃんに。また発作が起きたらどうするんだよ。一番つらいのは新一なんだよ」
 新一をなだめながらも、快斗は平次を睨むのを止めない。確かに自分も悪いので、平次はソファの上で小さくなっていた。
「うるせぇ。起きてねぇからいいんだよ」
「よくないって。ほら、もう寝たほうがいい」
「うるせぇって。とにかく、おまえにはやらねぇからな」
「だから、なにをって」
「こいつ」
 新一が平次の鼻先に指を突きつけた。
 思わずのけぞった平次を快斗がまじまじと見た。

 無言で新一と平次の顔を見比べていた快斗は、大きくため息をついて新一の肩に両手をかけた。
「いらないから」
「本当だな?」
「頼まれたっていらないから。新一がくれるって言っても、熨斗をつけて返品するから」
 新一が快斗の顔をじっと見つめる。
「嘘じゃねぇようだな」
 新一がふわっと笑う。
 嬉しそうな顔で彼は納得したように頷いた。
「そうだな。おまえには白馬がいるからな」
 快斗が新一から飛び退くように離れた。キッドの時のポーカーフェイスが嘘のように赤くなっている。

「じゃ、こいつは俺のな」
 ふにゃりと笑って、新一が平次に向かって倒れ込んできた。慌てて抱きかかえた平次は、新一の寝息を聞いた。
「工藤? おい、工藤? まじで寝てもうた?」
 酒臭い息を吐きながらも、新一の寝顔は穏やかだ。
 平次は盛大にため息をついた。
 快斗は相変わらず立ちつくしている。赤かった顔からは血の気が引いていていっそ青い。目はあらぬところ見つめている。
「黒羽、大丈夫か?」
 今にも倒れそうな快斗に平次が声を掛けると、彼はびくりと肩を揺らして我に返った。
「あ、ああ、大丈夫。今日はちょっと疲れているんだ」
 早口に答える快斗はやはり変だ。
「どないしょ。工藤、寝てもうたのはいいんやけど、寝とるときに発作が起きたりせぇへんのかな」
「そればっかりはわからないね」
 放り投げるように言ったあと、彼は頭を振った。その軽い動作だけで、快斗にいつもの雰囲気が戻る。
 動揺を押さえ込む自制心の強さに平次は内心瞠目した。
「飲んだ量とか、新一の体調にもよるだろうし」

 新一の寝顔をじっと見つめていた快斗が、にやりと笑って顔を上げた。おもしろいいたずらを思いついたときの目の輝きを見て、平次は思いきり顔をしかめた。
「心配なら一緒に寝てあげなよ。平次の部屋は一階だから、運び込みやすいし、ちょうどいいじゃん」
「ちょお、待て!」
「平次は寝込みを襲うようなことはしないでしょ? その辺は信頼しているから」
 ウィンクつきで言われると、かえって煽られているように感じる。
 平次は思いきり自分の髪をかき回した。平次の肩に頭をもたせかけている新一が、うるさいというようにうなり声を上げる。
 平次は支えるように彼の背に腕を回した。首筋まで赤い新一の身体はやたらと熱い。

 意味ありげにくすくすと笑っている快斗に平次はそっと聞いてみた。
「なぁ、さっきの工藤のあれ、ええようにとっていいんやろか」
 快斗に向かって「おまえにはやらない」といった新一。そして「俺のな」といった、あの言葉はどういう意味だったのだろうか。
 平次と快斗との仲に焼き餅を焼いたことといい、今回のセリフといい、もしかしたらという都合の良い考えが平次の中に浮かんでくる。
「さぁね」
 快斗は笑ってそれを否定しなかった。
 平次も少し笑った。心の中がほんわりと暖かくなる。
 腕の中で眠っている新一がこれまで以上に愛おしく感じる。
 もしかすると、もしかするかもしれない。

 新一を抱え上げ、平次はリビングを出ようとして振り返った。快斗は彼らの宴のあとを片づけている。
「いったいどれだけ飲んだんだか」
「工藤はロックでグラスに一杯半ぐらいと缶ビール一本のはずや。残りのビールは全部俺や」
 快斗の横顔が苦笑する。
「もしかして、止めても聞かなかったとか?」
「俺が風呂から出てきたときにはもう飲んどった」
「まったく、しょうがないんだから、新一は」
 缶ビールをひとつひとつ集める快斗に、平次はふと聞いてみた。
「なぁ、白馬となんかあったんか?」
 快斗が手を滑らせて缶を取り落とした。テーブルの上で跳ねた音がリビングに響く。床に転がった缶を拾い上げながら、快斗が平次をちらりと見た。
「別に。ほら、さっさと新一を寝かしつけて、平次も寝なよ。俺も風呂入ったら寝るし」
 快斗の笑顔は仮面のようだ。
「せやな、おやすみ」

 おやすみという快斗の声を背中で聞きながら、平次は新一を抱え自分の部屋に向かった。
 ――今日遅かったんも、白馬絡みか。
 だが快斗は踏み込んで欲しくないらしい。ならば平次になにも言うことはない。
 いろいろと爆弾発言をしてくれた新一は、なにも知らずにぐっすりと眠っている。
 ――ベッドは工藤に進呈やな。俺は床で寝るか。
 床で寝たところで風邪を引くような気候ではない。
 平次は彼の寝顔に笑いかけ、自室に入った。



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