無自覚な関係シリーズ 第十一章
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ビルの屋上に出ると、夜風が涼しかった。乱立する高層ビルの夜景はまさに地上にちりばめた星のようだ。
快斗は私服刑事の変装を解かないまま、屋上の端まで歩く。背中にいつもの気配を感じる。今回も探だけがキッドの逃走経路を掴んだらしい。
快斗は彼を無視したまま、スーツのポケットから無造作に今夜の獲物を捕りだした。神秘的に輝いているエメラルドを月の光にかざす。
宝石の中にはなにもなかった。
今回も違う。
快斗は頭の中にたたき込んであるリストから、その宝石を削除した。未確認の宝石はまだ多い。
「お返ししますよ、白馬探偵」
振り返りもせずそういって、快斗は宝石をハンカチに包んだ。
「では、いただきましょう」
落ち着いた声が返ってくる。
自分の存在に気づかれているのを当然としているようだ。
いつものように一定の距離を空けて佇む探に快斗は宝石を放った。それはきれいな弧を描いて彼の手の中に収まった。
「キッド」
探の呼びかけに快斗は変装の下で少し目を見張った。
大学生の黒羽快斗に向かってキッドと言わなくなった代わりに、キッドに対しても黒羽と呼びかけるのはやめにしたようだ。
これも新一と平次のおかげかと思うと複雑だ。
「宝石の中にはなにが見えるんですか」
「自分で見てみたらいいでしょう?」
快斗がいつもするように探が月に宝石をかざす。それを横目に見ながら、快斗は変装を解いた。素顔が夜風に触れて気持ちがいい。マントが風をはらんでふわりと広がった。
「なにも見えませんね」
探の素直な感想に快斗は笑い出しそうになった。
「だから、返すんですね。ということは、きみが探しているのは……」
探が言いかけたとき、屋上にふたりの男が駆け上がってきた。
「キッド!」
大声で叫んだのは中森警部だった。彼もまた快斗の因縁の相手だ。しかも親子二代に渡っての。もう一人は今回の現場で初めて見る顔だった。
「とうとう追いつめたぞ。そろそろヘリもこの上空に来る。観念しろ!」
元気な警部に不敵に笑って見せて、快斗は屋上の安全柵に飛び乗った。ビルを吹き上がってくる風がマントを大きくはためかせる。
「逃げるな、キッド!」
中森警部のそばにいた若い刑事が拳銃を取り出すのが見えた。
――血の気の多い新人だな。
快斗は内心で苦笑して、ハンググライダーを広げようとした。
「動くな!」
拳銃をかまえた部下を中森警部が押しとどめようとしているが、頭に血が上っているのか、若い刑事は応じない。
銃口とキッドの間に探が立ちふさがった。
「銃を下ろしなさい」
探がちらりと快斗を振り返る。
逃げろと目配せをする彼に快斗は驚いた。
遠くからヘリの爆音が響いてきている。もう時間はない。
若い刑事がなにか大声で喚きながら、なおも拳銃を快斗に向ける。その腕を中森警部が抑えつける。
そのとき、拳銃が火を噴いた。
快斗をかばっていた探が腕を押さえる。
「白馬!」
快斗はとっさにトランプ銃で若い刑事の腕を狙った。拳銃が彼の腕から飛ぶ。
「かすっただけですよ。キッド」
探が口の形だけで「早く」と告げる。
快斗はハンググライダーを広げると、柵を蹴って空中に飛び出した。風が快斗の身体を支える。
腕を押さえたまま見送っている探を一瞬だけ視界に収めて、快斗は一気に高度を下げた。ヘリの入れないビルの隙間を狙って逃走する。
頭の中は混乱したままだったが、身体はシミュレートした通りに動き、快斗は逃走の中継基地へ向かった。
テーブルの上に置いてあった携帯電話が鳴った。
ぼんやりとテレビを見ていた新一はそれを取り上げた。快斗からのメールが届いている。
『ちょっと寄り道するから、先に寝てて』
普段は絵文字満載のメールを送ってくる彼らしくないシンプルな文面に、新一はわずかに首を傾げた。
だが、とりあえず今夜の仕事を快斗は無事に終えたらしい。
安堵して、新一はソファに寄りかかった。
快斗の実力は嫌というほど知っていても、彼がキッドとして仕事をするたびに心配になる。
そしてキッドを追う探の様子も気にかかる。
彼が追いかけているのは、キッドという怪盗なのか、快斗という男なのか。新一は後者のような気がしてならない。
――それよりも問題は、服部だ。
『ただちょっと混乱しているだけだよ、平次は。すぐに元に戻ると思うな』
一週間前、快斗はそういっていたが、平次の様子は未だ変わらない。
ふたりきりになると、どことなく落ち着かない素振りを見せるのだ。
俺といるのが嫌なのかよ、と新一は憮然と思う。
かといって、彼の真意を真正面から問いただすのは躊躇われる。
快斗の帰りが遅くなる今夜、新一は数日前に思いついた計画を実行に移すことにした。
タイミングよく平次は風呂に入っている。
彼が出てくるまでに準備を終わらせておかなければならない。
新一はリビングのサイドボードを開けた。
タオルを首に掛けたままの平次が、ソファの脇で絶句している。
その表情を新一は下から見上げ、内心満足した。事は計画通りに進むだろう。
「なにしとんねん!」
新一の想像していたとおり、彼は大声を上げた。
平次の目の前には、酒盛りの風景が広がっていた。
テーブルの上には所狭しと洋酒の瓶が並んでいる。所有者は父、優作だ。グラスは二つ。ひとつは新一の手の中にあり、ロックの氷がからからと涼しげな音を響かせていた。
「酒、飲んでいるんだよ。悪いか?」
「当たり前や! 工藤は飲んだらあかん、ゆわれてるやろが。身体がまだ本調子やないんやで。なのに、こんな……」
グラスを奪おうとする平次の手を避けて、新一は彼に向き直った。
「ま、おまえも座れよ。ビールも冷えているぜ」
自分の隣を叩いて、彼にソファに腰を下ろすように勧める。
険しい表情を崩さないまま、平次がソファに収まった。隣を示したのに、彼は新一の向かいに座っている。些細なことを寂しく感じて、新一は手にしたグラスを一気に空けた。平次がまた声を上げる。
「工藤!」
「大丈夫だって。この間の風邪のときから発作は起きてねぇんだし」
久しぶりのアルコールが新一の胃を熱くする。
「せやけど、もうこれ以上飲むなや」
言いながら平次がテーブルの瓶をサイドボードに戻していく。新一は彼に取られる前に一本手元に確保した。それをまたグラスに注ぐ。
「工藤。いい加減にせいや」
本気で怒っている平次の顔を新一はじっと見つめた。視線が絡むと、彼はまた微妙に落ち着かなくなる。
「これが最後ってことでいいだろ。だいたいいつもおまえらふたりだけで酒を飲んでいるんだからな。たまには俺にも飲ませろっていうんだ」
新一はおとなしく最後の瓶を平次に渡した。
それをサイドボードにしまい込みながら、平次がため息をつく。
「あのなぁ、別に工藤を除けもんにしとるわけやないって。しょうがないやろ。おまえの身体、調子悪いんやし。治ったら、いくらでも酒盛りにつきおうたるさかい、もうしばらく辛抱せいや」
なだめるように平次が言う。
新一は平次のグラスにビールを注いだ。
「ほらよ。うわばみ」
「誰がうわばみやねん」
「快斗が言っていたぞ。服部はザルだってな」
「あいつかて、弱くはないで」
笑って平次がグラスを空ける。
無防備にさらけ出された首を新一は目を細めて眺めた。色気があるように見えるのは、新一の惚れた欲目に違いない。
平次から視線を逸らして、新一はグラスに口を付けた。
手酌でビールを注ぎながら、平次が心配そうな声を上げる。
「なぁ、ほんまにそれを飲むんか? やめておいた方がええんちゃうか」
「いいだろ、べつにこれぐらい」
せやけど、と平次はいい顔をしない。
「もしこれで発作が起きたら、半年は酒を飲まないと約束する。これでどうだ?」
「起きへんかったらちょくちょく飲もうゆうんやな」
裏読みしてくる平次に新一はおかしくなった。
「それもいいな」
ふわふわと妙に気分が高揚してくる。
――まずいな、一気に飲みすぎたか。
新一は笑顔の裏で舌打ちをした。
このまま本当に酔ってしまったら、せっかくの計画が台無しになってしまう。
「そういう意味でゆうたんとちゃうで。まったく」
新一の思惑も知らずに平次はぶつぶつとこぼしている。
「ま、いいじゃねぇか」
新一は自分のオンザロックを注意深く喉の奥に流し込んだ。
酔ってしまうような量を飲んだと平次に思わせる必要がある。だが、実際に酔っぱらってはいけない。
新一の立てた計画は単純なものだった。
酔った振りをして、平次の真意を探り出そうというのだ。
快斗に相談すればもっといい方法を考えてくれたかも知れないが、新一はそうしなかった。後々どんなからかわれ方をするかわからないからだ。
「ほら、おまえも飲めよ」
新一は新たに缶を開けて、平次のグラスをビールで満たした。
快斗が帰宅するまでが勝負の時間になる。