無自覚な関係シリーズ 第一章
再 会
−中−
平次が木製の扉を引き開け、新一を先に通した。新一が足を踏み入れたのは、クラシックな装飾がなされた喫茶店。コーヒーの香りと低く流れるジャズが木目を生かした店内によく似合っている。
駅近くにあるこの店の前で和葉たちとは別れた。平次が気を利かせて、ふたりだけで話す場を作ってくれたのだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声が掛かった。眼鏡を掛けた初老の男性がふたりを見て微笑んでいる。
「マスター。いつものふたつな」
平次が新一の背を押してカウンターに歩み寄る。重たいスツールを動かして、新一は腰掛けた。横には当然のように平次が座る。
サイフォンの準備をしながら、マスターが新一を見ていった。
「平次君、噂の工藤君を連れてきてくれたんか?」
「よおわかったな、マスター。そうや。こいつが工藤やで」
満面の笑みで平次が新一の肩を叩く。
新一の顔が引きつった。それでも意地でマスターにはほほえみを返す。だがしっかりカウンターの下で平次の足を蹴飛ばした。
「服部はよくこちらに?」
平次の悲鳴を消すように、新一はマスターに聞いた。フラスコに水を注いだマスターがふたりの顔を見比べ、笑いをかみ殺している。アルコールランプに火を入れてから、彼は新一の質問に答えてくれた。
「うちでは珍しい学生の常連さんや」
本格的なコーヒーを飲ませることを目的としているこの店は、学生が入るには少し敷居が高いのだろう。実際、客は新一たち以外はすでに定年を迎えたような男性がふたり、思い思いに新聞や本を読んでいるだけだ。
目の前でフラスコから湯気が立ち上る。初めから冷水ではなく湯を使ったようだ。これならば沸騰するまで時間は掛からない。
「工藤」
足を抱えていた平次が抗議の声を上げたのと、新しい客が入ってきたのはほぼ同時だった。やはり常連だったのだろう、マスターが親しげな笑みを見せている。
「おまえ、俺の名前をあちこちで言いふらしているんじゃねぇよ」
前を離れたマスターに聞こえないように、新一は平次の耳に口を寄せて小声で文句をつけた。平次の抗議は頭から無視だ。
「ええやんか。組織つぶれてからやもん」
平次にまったく反省の色はない。
たかだか数ヶ月でクラスメートのみならず、常連になっている店のマスターにまで名前を知られているというのは尋常ではない。新一はまた頭痛を覚えた。
「いいわけあるか、馬鹿野郎」
沸々と音を立て始めたフラスコにまたマスターが戻ってきた。流れるような手つきで、火を外しフラスコにロートを差し込む。ゆっくりロートへ上っていく湯を眺めながら、新一は平次にささやいた。
「残党がいないとも限らないんだぞ」
「おったら、まず俺を狙いに来るやろ」
工藤の消息は不明のままやったし。
軽い平次の言葉に新一は彼を睨みつけた。
「だからだ、馬鹿」
組織をつぶした自分をおびき出すために、友人や知人が残党に狙われることが新一の一番おそれていたことだった。特に平次は素性を晒したまま深入りしていた。もともと一番狙われやすかったというのに、彼は誘蛾灯のようなまねをしていたわけだ。珍しく言われたとおりに上京してこないと安心していたのだが、読みが甘かったようだ。
「なんもなかった。誰も引っかかってこんかったわ。とりあえず、安心してもええんちゃうかな」
向けてくる笑顔にはやはり反省の色がない。責め立てたところで、笑みが崩れることはなさそうだ。無茶するのは彼の十八番でもある。新一は諦めて、頬杖をついた。
「ま、確かに、こっちの捜査網にも残党は引っかかってねぇし。大丈夫だと思うけどさ」
平次本人のみならず、両親や和葉にも被害が及ぶ可能性があったことに、新一は改めて大きくため息をついた。
和葉の顔を思い浮かべた新一は、一緒にいた男の存在を思い出した。
「そういや、あの相馬ってクラスメート、和葉ちゃんと親しそうだったけど、なんなんだ?」
「相馬はバスケ部のレギュラーや。背ぇ高いやろ。あれでもチームの中やと低い方になるんやって」
「そうじゃなくて」
探偵としては切れるくせに、こと恋愛関係には妙に鈍感な平次のことだから、もしかして気が付いていないのかと思いつつ、新一は彼の方に向き直った。
「あいつ、和葉ちゃんに惚れてるだろ」
「さすが工藤や。もう気ぃついたんか」
平次が軽く目を見張る。
「知っているのかよ。で、おまえはどうするんだ?」
「どう?」
「どう、って」
新一は呆気にとられて絶句した。
新一の見る限り、平次は和葉のことが好きだったはずだ。自覚しているかどうかは聞いたことがなかったが、彼女に近づく男を威嚇しているのを何度か見ている。
「あの男に取られてもいいのかって聞いているんだよ」
新一は単刀直入に言った。
平次が眉を寄せて唸る。
「まぁなぁ。けど、ここで俺が相馬に手を出すなゆうたら、俺は和葉とつき合うゆうことになるやろ? ただの幼なじみがゆうセリフちゃうやんか。せやけど、あいつを彼女にするゆうのはまたなんかちゃうねんな。相馬はええやつやしなぁ。和葉のこと大事にすると思うねん。せやから、反対するような理由はないし、権利もないわけや。おもろくはないんやけど」
平次の難しい顔を新一は内心でため息をつきながら眺めていた。
「それって服部、家族の感情だぞ。姉とか妹とかに彼氏が出来ることをよく思わない男兄弟の感情だ」
「家族なぁ。それが近いかも知れへんな」
平次がしみじみと頷く。
「あとで逃がした魚はでかかったと思うかも知れないけどな」
新一はふと蘭の顔を思い浮かべた。結局実ることのなかった初恋は、ゆっくりと良い思い出になろうとしている。
気づくと、平次がすまなそうな表情で新一を見ていた。それに苦笑を返して、新一はサイフォンに視線を戻した。コーヒーはすでにフラスコに落ちている。マスターがそれをカップに注ぎ、ふたりの前に置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
マスターに礼を言って新一はカップを持ち上げた。香りがやはり違う。
「一口目ぐらいはブラックで飲んでや」
横から平次が口を挟む。
わかっていると目で応えておいて、新一はコーヒーを口に含んだ。砂糖を入れないコーヒーを飲む習慣のない新一が想像していたほど、苦みも酸味もきつくなかった。
「うまいやろ。この店のオリジナルブレンドや」
平次の説明を聞きながら顔を上げるとマスターと目があう。新一の表情を見て、マスターが笑みを深めた。
「こいつが常連になったのがよくわかります」
おおきに、とさらにマスターが笑った。
新一はいつもよりも少なめの砂糖を入れて、コーヒーを飲んでいた。平次はブラックのまますすっている。
「なぁ、顔色あんまりええようには見えんけど、身体は平気なんか?」
新一の顔を覗き込むようにして平次が聞いてきた。内容を気にしてか声が低い。
「前に見たときより細くなっとるように思うけど」
「昨日まで家に閉じこもっていたんだぞ。健康的な生活とは言い難かったから、多少顔色が悪いぐらいはしょうがないだろ。体調には問題ない。あの灰原が遠出の許可をくれたんだから」
元の身体に戻った直後には毎日のようにあった発作も、ここのところまったく起きていない。状態が落ち着いたおかげで解毒薬の投与もせずに済んでいる。
「あのねーちゃんの許可があるなら安心やな」
「当たり前だ。無断で大阪まで出てきて見ろ、あとが怖い」
それもそうや、と明るく平次が笑う。
「けど、やっぱり外は良いな。久々に出てみて、実感した」
日差しも風も気持ちがいい。庭で日光浴を楽しむこともあったが、やはり開放感が違うと新一は思う。
「なぁ、せっかく来たんやし、どっか行きたいところはないんか? どこでも連れてったるで。バイク出したるし」
平次の魅力的な申し出に心が動いたが、新一は首を振った。先ほどの発作の前兆が気に掛かる。長距離移動に疲れを感じているのも確かだ。ここで無理をして、春休みに決まっている進級のための補習と試験を休むわけにはいかない。
「今回はやめておく」
「やっぱり調子悪いんやろ」
平次の勘は相変わらずいい。
「おまえのところは週明けから試験なんだろ。俺にもあるんだよ。進級のかかっている大事なやつが」
「休学中の補習ってわけやな。黒羽がおまえに勉強を教えとるってゆうてたけど」
新一の同居人にして介護者でもある黒羽快斗は、新一にとって因縁の相手だ。快斗からしてみてもそうだろう。新一の調子がいい最近では、彼は阿笠博士のところに入り浸っている。一緒になってあやしげな機械を開発しているらしいが、哀が言うには、あまり実用的な物ではないとのことだ。
「頭は良いんだ、快斗のやつ。教え方も上手いし」
頭がよすぎて食えない相手だと新一は思っている。さすがは怪盗キッドという裏の顔を持つ男だ。
「おかげで試験を休みさえしなければ、進級出来るだろうな。結構いい加減なところがあるんだ、うちの校長。こういうときには助かるよ」
快斗の名前が出てきたことで、新一は彼から連絡がないことに気が付いた。
今日快斗は次の獲物を狙うために、下見に出かけている。止めたところで快斗は新一の言うことを聞かない。おそらく誰の言葉にも耳を傾けないだろう。目的の宝石を見つけるまで、キッドはやめないと彼は新一に宣言している。
大阪に出てきたことを新一は快斗に直接伝えていない。もちろん哀に伝言は頼んだし、部屋にメモも残してきた。彼の携帯にメールや伝言を入れなかったのは、彼が行っていることを慮ってのことだ。おそらく下手な場所で携帯が鳴らないように、電源はあらかじめ落としてあるだろうが。
新一は自分の携帯電話を取り出した。やはり着信はない。快斗はまだ伝言を受け取ってはいないのだろうか。
「どないした?」
「ああ、快斗から連絡があると思っていたんだけどな」
なにを考えているのかわからない言動が多い快斗だが、新一の体調に関してはひどくうるさい。出かけたと知ったら、必ず連絡をよこすはずだ。そして、自分も大阪に行くと言い出しそうな気がしている。
「ま、いっか。伝言はしてあるし。ベッドが無駄になるけどな」
念のために新一はホテルにツインの部屋を取っていた。
「おい、わざわざホテル取ってきたんか。うちに泊まったらええのに」
「いきなり来て泊めてくれって言うわけにはいかないだろ。それに明日の午前中には向こうに戻っておきたいからな。新大阪駅の近くに部屋を確保したんだよ」
「ツインとってるわけやな。黒羽のやつが来ぇへんのやったら、俺がそこに泊まるわ。ベッドも無駄にならんし、時間も気にせんと話せるで」
平次が身を乗り出してくる。
「俺はかまわねぇけど。おまえ、学ランでホテル行くのかよ。着替えは? だいたい、明日も学校があるだろ」
「替えの下着ぐらいコンビニで売っとるし、学校は朝練あるわけちゃうから、ホテルからの直行で間に合うわ」
ええやろ、と平次はすっかり乗り気だ。
新一は身を乗り出してきている平次を横目で見て考えた。一緒にいて気を遣わないと言う点では、平次も快斗と変わらない。断るような理由もない。
「じゃ、そうするか」
頷いた新一に、平次が満面の笑みを返してくる。あからさまにうれしげな平次に新一は少し照れて、残っていたコーヒーを飲み干した。
***
平次がシャワーを終えて出てみると、新一はホテルの浴衣を着てベッドの上に座っていた。視線の先にはテレビがある。ちょうど七時前の天気予報で、近畿地方が映し出されていた。
「こういう見慣れない地域の天気予報を見ると、旅行しているんだなと思う」
画面を指さし、新一が笑う。
「わかるわ、それ」
ふたりは早めに夕食を食べ、ホテルの部屋に入っていた。
時間を気にせず話すなら、店よりも部屋が良い。人の耳にはあまり入れたくない話が多いのだ。殺人事件の話も、組織の話も、ふたりきりの方が心おきなく話せる。
平次はドレッサーの下に備え付けてある冷蔵庫を開けた。当然のように酒類も入っている。少し悩んでウーロン茶を取り出す。それを見た新一が笑い声を立てた。
「ビールは飲まないんだな」
「さすがにここではちょっとなぁ。自宅やったら飲んどるとこやけど」
平次は缶を手に窓際に歩み寄った。分厚いカーテンを開くと新大阪の駅が見える。
「しかし、意外や」
「なにがだ」
新一の手の中にもお茶の缶がある。彼のは緑茶だ。
「いや、おまえが泊まるホテルゆうたら、超の付くような高級ホテルかと思とったから。こんな庶民的なとことわな」
ビジネスホテルよりは部屋の間取りは広いが、高級とは言い難い。新大阪駅から近いことが取り柄のようなホテル。
「高級ホテルを期待していたのか? 悪かったな」
新一が不機嫌そうに缶を煽る。
「ちゃうちゃう」
カーテンを閉め直して慌てて否定する平次に、新一が噴きだした。
「冗談に決まっているだろ。ここにしたのは、阿笠博士に駅に近いホテルを探してもらって、そのリストの一番上にあったからだよ。新幹線の中から予約を入れたんだ」
「そない急に思い立ったんか」
「天気がよかったんだ。で、なんとなく」
なんとなくで大阪まで来たのかと、平次は自分のことを棚に上げて思った。
平次も新一の隣に腰を下ろし、プルトップを引き上げた。一気に喉に流し込んで、大きく息をつく。
「あー、ビールやったらなぁ」
思わず口をついて出たセリフに、新一がはじけるように笑い出した。
「親父くせぇ。おまえ、すっげぇ親父くさいぞ」
ベッドに突っ伏して笑っている新一の頭を平次は上から押さえつけた。
「やかまし! 笑い過ぎや」
「うわ、やめろ!」
顔をシーツに埋もれさせた新一の手が、平次の腕をどけようと動く。しかし、笑いながらでは力が入らないのか、抵抗のうちには入らない。
しばらくじたばたする新一と攻防してから平次は手を離してやった。バネ仕掛けの人形のように新一が起きあがる。
「バーロ! 窒息させる気か」
新一の顔は真っ赤になっている。それが笑いすぎのせいなのか、窒息しかけていたのか、平次には判断が付かなかった。
「手加減しとったで」
「この馬鹿力が。こっちは一応病み上がりなんだぞ」
新一がまだ笑いを引きずったまま抗議する。どうやら笑いすぎで呼吸困難だったらしい。
もうちょっと押さえつけておけばよかったかと平次が思ったときだった。
新一が胸を押さえ、前屈みになった。
「おい、工藤。なにして……」
初めは冗談かと思った。病み上がりだと強調するための芝居かと思ったのだ。だが、平次の軽い考えは一瞬でうち砕かれた。
新一の身体が、そのままの姿勢でのめるようにベッドから落ちたのだ。
「工藤!」
とっさに腕を伸ばし、平次は新一の頭を床から守った。だが、身体はそのまま床に転がる。胸に当てた手が、浴衣をきつく握りしめている。もう片方の手は、自分の肩を抱くようにして、肩先に爪を立てていた。
「工藤! おい、大丈夫か!」
平次の呼びかけにも答えはない。
強張る新一の横顔には玉のような汗が浮かび、食いしばる歯のきしむ音が平次の耳にまで届いた。
「工藤、しっかりせい!」
新一の肩に立てた爪が浴衣を引き裂くように動くのを見て、平次はその指を外そうと手首をつかんだ。だが、力を込めても彼の手は外れない。細い腕のどこにそんな力があるのか。
「工藤!」
自分の手には負えないと平次は室内電話に目を走らせた。しかし、救急車より、哀に連絡した方がいいと思い直して、ベッドサイドのテーブルを見上げた。携帯電話がそこにある。
だが、それに手を伸ばすよりも早く、新一の身体から力が抜けた。ぐったりとした身体が平次の腕に寄りかかる。
「おい!」
平次が顔を覗き込むと、新一はぼんやりと目を開いていた。肩で息をしながらも、先ほどまでの苦悶の表情はない。
安堵した平次も肩から力を抜いた。
「工藤、大丈夫か」
新一の瞳がゆっくりと平次を映して、わずかに苦笑した。
「平気だ」
喉のつぶれたようなかすれた声でそれだけ言うと、新一が起きあがろうと動く。平次はそれを助けて、彼をベッドに寝かせた。
「悪いな、服部」
「そんなことはどうでもええ。それよりもさっきのは、なんや? もうほんまに、ほんまに平気なんか」
「もう、大丈夫だ。気にするな」
「気にするわ!」
怒鳴った平次を見上げて、新一が仕方なさそうに言い出した。
「発作だよ。こういうことだから、自宅から出られなかったんだ。戻った直後は、毎日あった。ここ二週間ほどなかったから、灰原から外出の許可が出たんだ。今日はやっぱりちょっと疲れたみたいだ」
とぎれとぎれに告げて、新一が目を閉じる。
「おまえ、なんも言わんかったやん。電話で、なんも」
「言いたくなかったんだよ」
こんな状態、見せたくねぇよ。
新一が呟く。ゆっくりと髪を掻き上げ、彼は苦笑する。
「もう戻らないって灰原から言われているけどさ。発作が起きるたび頭を過ぎるんだ。また、コナンになるんじゃないかって」
新一の言葉が眠たげにぼやけていく。
平次は黙って彼の言葉を聞いていた。
情けねぇよなぁ、と新一が目を閉じたまま自嘲する。
「そんなことない」
否定すると、新一の苦笑が深まる。
「そう言うと思った。だから、おまえには言いたくなかったんだ。悪い。俺、寝る。発作のあとは、すげぇ眠くなるんだ」
語尾が口の中に吸い込まれるようにして消えた。
代わりに穏やかな寝息が聞こえてくる。
「工藤?」
小声で呼びかけてみたが、返事はない。
そっと新一のベッドから離れ、自分のベッドに腰掛ける。そのまま横に倒れて、平次はため息をついた。
久しぶりに本当に焦った。
取るべき処置がまったくわからなかった。
これが哀や快斗なら、おそらく的確に対処出来たのだろう。
なぜ新一は自分に発作のことを教えてくれなかったのか。信用されていないとは考えたくない平次は、心配を掛けたくなかったのだろうと思うことにした。あまり新一らしくはないが。
ただ、なにも出来なかったが、一緒にいてよかったと思った。
ひとりきりのホテルの部屋で苦しませるよりはましだっただろう。そう考えたかった。
新一は眠っている。
平次はもう一度ため息をついて、起きあがった。
無茶をするやつだとは思っていたが、これほど苦しむ発作の危険を抱えてまで遠出をしてくるほど無謀だとは思わなかった。
「俺が行くまで向こうでおとなしゅうしとればよかったんや」
ぽつりと平次は呟いた。
平次は腕を伸ばして、彼の頭上にあるランプの明かりを落とした。リモコンでテレビの音声も小さくする。
目を床に落とすと、新一を抱き留めるために手放した缶が転がっていた。わずかに残っていた中身が流れ出て、床には小さなシミが出来ている。新一の分もやはり床に落ちていた。平次は立ちあがると、それらを拾ってゴミ箱に放った。
携帯電話の着信音が部屋に響いた。聞き慣れないそれは、新一のものから流れていた。ベッドの新一を見やったが、彼に起きる気配はない。平次はベッドサイドで鳴り続ける携帯電話を手に取った。液晶に表示されている名前は、黒羽快斗。平次はためらわず出た。
「はい」
『新一! どこにいるんだよ! 新一ってば!』
快斗の叫び声が、平次の耳をつんざいた。どうやら彼は新一の伝言を受け取っていないらしい。
「ちゃうねん」
『……服部平次』
フルネームで平次を呼んで、快斗はまた叫んだ。
『大阪? もしかして、大阪? 平次が出るってことは、新一、発作を起こしたとか?』
頭の回転が速いのか、勘が鋭いのか、快斗は正確に現状を言い当てた。
「そうや。大阪で工藤は発作を起こした」
『容態は?』
急に快斗の声が低くなる。その真剣さに平次は気圧された。
「もう寝とる」
『熱は? 熱は出てない?』
平次は新一の横に歩み寄り、彼の額に手を当てた。汗ばんではいるが、熱くはない。
「ないようや」
新一の呼吸は穏やかで深い。寝顔もあどけないほど柔らかなものだ。先ほどの苦悶の表情が嘘のように思える。
「焦った。急に胸を押さえて倒れてん。前は毎日のようにあったって、ほんまか」
『もしかして、聞いたことなかった?』
ないと答えると、快斗がため息をつくのが聞こえた。
『とにかく熱がないなら大丈夫だと思う。でも、心配だからそっちへ行くよ。この時間なら最終ののぞみに充分に間に合うし』
「今から来るんか? 俺らホテルにおるんやけど」
『同じホテルの部屋を確保しておいて。じゃないとふたりの部屋に潜り込むよ。じゃ、新幹線に乗ったらまた連絡するから』
言うだけ言って、快斗が通話を切った。
平次は唖然と手の中の携帯電話を見つめた。
新一が心配なのだろうが、快斗のフットワークは軽い。
「この時間で部屋取れるんかな」
平次は携帯電話を置いて、代わりに室内電話に手を伸ばした。
長い夜になりそうな気がした。