無自覚な関係シリーズ 第一章
再 会
−前−
ホームルームを終えて眺めた空は、ぼんやりと白っぽかった。晴れてはいるが、霞んでいる。昨日の強風のせいだろう。おそらく黄砂だ。
ざわめくクラスメートをよそに平次は椅子に座ったまま、頬杖をついてぼんやりと外を見ていた。窓から流れ込んでくる風は、夕暮れが近いこともあって少し冷たい。
――工藤、なにしとるやろ。
問題の人物は東京にいる親友、工藤新一。
子供の姿にされていた彼は、昨年暮れにようやく本来の姿を取り戻した。現在彼は自宅で療養中だ。平次としては見舞いに行きたいのだが、新一から上京禁止令が出されているため、それは出来ない。理由に納得し切れたわけではなかったが、期限を切られたため平次としては仕方なく従っている。大阪でひとり気をもむ平次に出来ることは、頻繁に電話を掛けることだけ。電話で聞く声は元気そうだが、実際に顔を見ないと落ち着かない。
その我慢もそろそろ終わる。
新一から出た上京禁止期間は、春休みがはじまるまで。すでに三年生は送り出した。学年末テストを終えれば、春休みにはいる。平次は休み初日に上京するとすでに決めていた。
昇降口で起こったちょっとした騒ぎに気づきもせず、平次は新一が戻った直後にくれた電話に思いをはせていた。
***
『よお、服部』
真夜中に鳴った携帯電話からは、少しかすれた新一の声が聞こえてきた。コナンの高い声ではない、声変わりの終わった高校生の声。
「くどう? なんかあったんか?」
自分相手に変声機を使う必要はない。それなのになぜ、と平次はいぶかしんだ。ベッドに寝ころんだまま、枕元の時計をつかむ。針は日付を変えようとしていた。
『あったぜ』
喘ぐような息づかいに笑いを乗せて、新一が言う。
誇らしげな声に、平次は思わず布団をはねのけて起きあがった。
「まさか。まさか、工藤」
平次の脳裏を過ぎったのは、工藤新一本来の姿。いつでも彼は、元の姿に戻る際に掛かる負担のせいか、苦しげな表情を見せていた。そのときの息づかいと似ている。
『そうだよ。戻った』
「ほんまか!」
叫んだ平次に、新一が笑う。
『うるせぇよ。俺の鼓膜を破る気か』
平次はとっさに口を押さえたが、すでに遅かった。あまり夜中に大声を出していると、母が乗り込んできてしまう。
「すまんすまん。けど、ほんまに戻ったんか? ずっと工藤のまんまなんか?」
平次は何度か新一に戻った姿を見ている。だが、それはほんの一時的なもので、彼はすぐにコナンの姿になっていた。
『今回は、ほぼ完璧な解毒剤を、飲んだからな。理論的には、もう、コナンにはならない』
息を整えるように新一が言葉を紡ぐ。
「完全なものとちゃうんか」
『そうだよ。組織に残っていたデータは、完全だったけど、解毒剤の生体実験をしていないから、完璧とは言えないって灰原が』
「そんなもん飲んだんか、おまえは!」
声を荒げた平次に答える新一の声は冷静だった。
『今までだってそうだった。それに、待ったところで、これ以上の物は出来ないんだ。飲むしかねぇだろ』
どうしても俺は、と新一が言う。
平次は沈黙した。
しばらくして平次は静かに聞いた。
「そんで、具合はどうなんや? 結構きつそうな感じやけど」
『ま、こんなもんだろ』
彼はたいしたことではないように軽く言う。だが、彼が胸を押さえ倒れ込むところを見たことがある平次には、信じられるものではなかった。
この目で確かめたい。
新一の今の姿を、様子を。
「ほんまかい。そんなら、次の休みにでもそっち行くわ。見舞いに行ったる」
『来るな』
きっぱり断られて、平次は眉間に皺を刻んだ。
「なんで」
『おまえが来ると、事件が起きる』
「おい、こら! おまえにだけは言われとうないで、それ」
予想外の理由に平次は速攻で突っ込んだ。それに新一がくくくと声を殺して笑う。
「おい、工藤」
『わりぃ、予想通りの反応だったからさ。それは冗談だけど、来ても会えねぇぞ。しばらくは面会謝絶で療養することになるから』
「療養って、おまえ」
『今回の解毒薬、今までのと違うんだ』
まぁおとなしく聞け、と新一が大きく息をついて話し始めた。
今回のはさ、一回の投与で済まないんだ。様子を見ながら、継続的に使う必要があるんだと。ああ、もちろん、今は元の姿だぜ。ただ、維持するために必要なんだと言っている。この先ずっとじゃない。状態が落ち着けば、投与はおしまい。
で、その間ずっと、工藤新一は行方不明のままだ。いつどこでどうなるか、見当がつかないから外には出ないでくれってさ。
俺もいない、コナンもいない。
なのにおまえが上京して、俺の家だとか博士の家だとかに行くのは、ちょっと不自然だと思わないか? おい、少しは思えよ。ていうか、周りは思うぞ。特に和葉ちゃんとかな。
おまえの行動が和葉ちゃんに知れたら、蘭に知れるのは時間の問題だろ。
今、家に蘭に乗り込まれるわけにはいかないんだよ。
一応、遠縁のやつが管理も含めてしばらく住み込むってことなっているから、人が訪ねてきても不信は招かないと思うけど。だからといって、おまえが来るのは変だろ。俺がいないのに、おまえが俺の家に遊びに来るって言うのは。
だから、俺がいいって言うまで、こっちには来るな。
平次は半眼閉じたまま新一の言葉を聞いていた。無言だったのは、文句がなかったからではない。
「納得出来へんな。ようするに、俺の上京が誰にも見つからんかったら、ええわけやろ。それに俺は、和葉とつきおうてるわけちゃうし、あいつにばれへんように行動するぐらいどうってことないわ。それに、蘭ちゃんかて」
言い差して、平次はとっさに口をつぐんだ。今のは失言だった。蘭には今、他に恋人がいる。自分の置かれた状況故に、初恋の相手に振られることになった新一が、一時期落ち込んでいたのを平次はよく知っていたというのに。
新一が笑んだ気配に、平次はますます発言を悔いた。
『ずっと来るなって言っている訳じゃない。春休みにはいるまで。それぐらいには状態が落ち着くだろうって灰原も言っている。それまでで良いから大阪でおとなしくしてろ。俺は大丈夫だから、心配するな』
新一が畳みかけてくる。
冬休みがこれからだというのに、春休みまで待たなければ上京出来ないというのは心配だ。冷静沈着そうな顔をして無鉄砲さなら自分の上を行きそうな親友が、大丈夫だと笑うときには、たいがい笑顔の影で無理をしている。
「心配するに決まっとるやろ」
『大丈夫だって。家の管理のために遠縁のやつが住み込むって言う話は建前で、実は例の薬のこともよく知っているやつが同居してくれることになっているんだ。独り暮らしをする訳じゃねぇから、心配はいらない』
「誰や、そいつ。もしかしてあのねーちゃんか?」
薬に詳しいとなれば、平次はあの薬を開発した灰原哀しか思いつかない。
『バーロ!』
あきれた新一の声が、平次の耳を直撃した。
『灰原じゃねぇ。だいたい、なんでわざわざ隣に住んでいるやつと同居しないといけないんだよ。別の人間だ。同い年の男だぜ』
同い年の男と聞いて、平次は首をひねった。まったく心当たりがない。
「誰やねん」
『上京してきたときに紹介する。俺とは因縁浅からぬ相手だ』
含み笑う新一は上機嫌だ。こういうとき、彼はあまり良いことを考えていない。
平次は天井を仰いで、そのままベッドにひっくり返った。冷えた身体にはねのけた掛布団を掛ける。
『とにかく、そう言うわけだから、来るんじゃねぇぞ』
***
そうゆうわけってどうゆうわけや、とその後もしばらく平次はごねたのだが、結局新一に押し切られた。そして、今日まで平次は大阪から動かずにいる。
新一と同居している同い年の男。
謎の人物の名前はあっさりとわかった。新一の都合が悪いときに代わりに携帯電話を取ることもある彼の名は、黒羽快斗。電話で聞く彼の声は新一とよく似ているが、彼の方が基本的にワントーン明るい。明るいやつなんやな、と新一に言ったら、うるさいだけだと切り返された。
新一とはもちろん、その彼との面会も上京すれば成る。
クラスメートたちの大半は、もう教室をあとにしている。二、三人のグループが思い思いにくつろいでいるだけだ。部活動は休みでもあるし、そろそろ帰るかと、平次も自分の鞄を手に立ち上がった。
新一は校門の前で足を止めた。
門の脇には改方学園とプレートが付いている。ちょうど下校時刻に当たったのだろう、学生服とセーラー服に身を包んだ学生たちが徒歩や自転車で門から出てくる。物珍しそうな彼らの視線を気にもとめず、新一は校内に足を踏み入れた。
少し冷たい春の風が新一の頬を撫でていく。哀からようやく遠出の許可が下りて、新一は馴染んだ街を通り過ぎ、大阪まで出てきた。毎日のように電話を掛けてくる平次に顔を見せてやろうと思ったのだ。いつも突然目の前に現れて驚かせてくれる親友の驚く顔というのが見たい。
左手に職員の駐車場、右手に学生の駐輪場を見ながら、奥へ向かう。ロータリーを挟んで左奥に昇降口があった。学生たちをはき出すそこのさらに左側に、職員玄関がある。新一はためらうことなくそちらへ向かった。
「工藤君?」
学生の昇降口の前を横切る形になった新一に、驚いたような声が掛かった。
振り返ると目を丸くした和葉が立ちすくんでいた。その横には長身の男子学生が立っていたが、平次ではない。
「やっぱりそうや! なんで? なんでこんなとこにおるん?」
和葉が叫ぶように言いながら駆け寄ってくる。
「ああ、遠山さん。久しぶり」
新一は彼女に軽く手を挙げた。彼女につられたように隣にいた学生も近寄ってくる。
「もしかして、平次に会いに来たん?」
「そう。自宅に電話したら、まだ学校だろうって言われて」
それは予想の範囲内だったから、新一は彼の携帯に直接電話しなかったのだ。
「なぁ、相馬君、まだ平次教室におった?」
和葉が見上げるようにして聞く。
相馬と呼ばれた男が頷く。
「ぼーっと空見て黄昏れとったで」
「ならまだおるな。あ、ごめん。紹介するわ」
和葉が慌てて新一と相馬を引き合わせてくれた。彼は平次のクラスメートだという。
「工藤、て。あの工藤? 服部がよくゆうてる?」
少し警戒するように新一のことを見ていた相馬が、大きく目を見開く。
「そうや。あの工藤君やで」
和葉相手ならともかく周囲の人間にまで名前が知れるほど、平次は頻繁に自分の話題を出していたのかと新一は頭痛を覚えた。
「平次のクラス、わからんやろ? 案内するわ」
和葉が先に立って職員玄関に向かう。
「そんなら俺、昇降口の方から回るな。服部と入れ違ったらあかんし」
相馬が笑顔を残して昇降口へと引き返していく。
その背中を見送って、新一は「ありがとう」と声を掛けている和葉に謝った。
「ごめん。帰るところだったのに」
「ええんやって。急いで帰らなならんほど、焦っとらんし。わざわざ来てくれた工藤君を案内もせんと放っとったら、あとで平次になにを言われるかわからんもん」
「焦って帰る?」
「週明けから学年末テストなんよ。せやから、部活も休みなんや。普通やったら平次もこの時間には道場におるんやけどな」
職員玄関に入ると右手に下駄箱、左手にガラス張りになった事務室があった。事務室の前にはノートが置かれている。「これに名前を書いてな」と指さした和葉が、新一と自分の分のスリッパを出してくる。
スリッパに履き替えて、新一は来客者名簿に名前を書き入れた。その間に、様子を見に来た事務員に和葉が対応する。彼女の話を聞いた事務員が「ああ、服部君の言う工藤君」というのを聞いて、新一はますます頭痛を覚えた。職員まで名前を知っているというのはいかがなものか。
事務員の笑顔に送られて、新一は和葉の案内で校内を奥に向かった。
昇降口の前の廊下に、相馬の長身の影がある。
「平次、来た?」
「まだや。靴もあったし、まだ教室やろ」
相馬が和葉に笑いかける。
新一は気づかれないように彼の様子を窺った。
並んで話す彼らはとても親しそうだ。和葉に平次以外の彼氏が出来れば、おそらく蘭経由で新一の耳にも入ると思うが、それはまだない。平次本人からも情報はないが、彼がこの手のことを自分に話すことはないだろうと新一は思っている。蘭との恋に破れた新一に対して、平次は滅多に和葉の名前を出さなくなった。その傷がほとんど癒えた今になっても、彼のくすぐったいような気遣いはそのままだ。
閉まっている購買の前を過ぎ、新一はふたりについて階段を上った。踊り場まで行ったところで、上から生徒が降りてきた。
「あ」
声を上げて和葉が足を止める。
新一は声につられて顔を上げた。
階段の途中に男子学生が立ちすくんでいる。
――服部だ。
新一が認識した次の瞬間に、平次が飛びついてきた。
「工藤!」
叫び声と同時に届いた彼の腕が新一を抱きしめてくる。勢いで新一は踊り場の壁にぶつかった。
「は、服部!」
押しつぶされそうになりながら、新一は平次を引きはがそうとした。新一の抵抗などかまわず、平次が新一の顔を覗き込む。
「工藤」
まじまじと間近で顔を見つめたあと、平次が新一の頬を思い切り引っ張った。
「ほんまもんや」
「あったりまえだ。馬鹿野郎!」
思い切り平次を突き飛ばし、間合いが出来たところで蹴り上げる。スリッパ履きのため、普段より威力は半減しているはずだが、見事すねに入った新一の攻撃に平次がうめいてうずくまった。
そのとたん、新一の胸に痛みが走った。
――まずい。
発作の前兆にとっさに心臓のあたりを押さえる。
しかし、痛みは一瞬で消え、新一はそっと安堵のため息を漏らした。
ここ二週間ほど発作が起きていないから、哀から遠出の許可が下りたのだ。ここでまた状態がよくないと判断されれば、また自宅軟禁の日々が始まってしまうかもしれない。
手から伝わる鼓動に異常がないのを確認して、新一は胸から手を下ろした。
一方平次の方は、うずくまったまま新一を見上げていた。
「工藤や、ほんまもんの……。なぁ、なんで、こんなところにおるん?」
呆然と呟いたあと、平次が立ち上がりながら聞いてくる。
彼と視線が正面から合うことをうれしく思いながら、新一はにやりと笑った。
「気晴らし」
「気晴らしで大阪まで出てきたんかい。酔狂なやっちゃな」
「おまえには言われたくねぇよ」
「平次の東京行きは病気やし」
一連のやりとりを唖然として見守っていた和葉が、ようやく声を出した。驚いたように、平次が彼女とその隣の相馬の顔を見る。
「あれ、先に帰ったんちゃうんか?」
「ずっとここにおったわ!」
相馬が突っ込む。
「ほんまに平次は工藤君のことしか目に入らんのやな」
あきれたように和葉が言う。
「ええやろ、別に。久々に会うたんやから。こんくらい普通や、普通」
ふたりを相手に平次が胸を張って開き直った。
「どこがだよ、服部。いきなり飛びつきやがって。おまえは犬か」
「犬て。ひどいわ、工藤」
ひどいと言いながらも平次は笑っている。会えてうれしいと全身で伝えてくる平次に新一は少し照れくさくなった。
「行くぞ。ずっとここで話すわけにはいかないだろ。ふたりは帰るところだったのを、俺を案内するために校内に戻ってくれたんだからな」
新一は率先して階段を下りた。後ろから三人がついてくる。
「ああ、それで和葉もスリッパ履いとるんか」
「なにがそれでなん?」
「工藤を職員玄関に案内して、ついでに和葉もそこからスリッパ借りて入ったんやろな、と」
相馬の質問に平次が答える。
「相馬が上履きなんは、俺がまだおるか下駄箱を確認して昇降口から入ったせい。ちゃうか?」
「大当たり。さすがやな」
相馬が感心している。
新一はやりとりを聞きながら苦笑していた。そこへ和葉が並びかける。
「今夜はどっか泊まるん? まさか日帰りで帰るんちゃうよね」
「明日の午前中には戻らないといけないから、新大阪駅の近くにホテルを取っているんだ」
「すぐ帰るんやね。ゆっくり出来へんの?」
「今回はね。あ、そうだ。まだ蘭には今日俺がここに来たって伝えないで欲しいんだ。明日、会いに行く予定だから。連絡しないで行って、驚かしてやろうと思ってるんだ」
口元に人差し指を当てて新一が頼むと、和葉が目を瞬かせて頷いた。
「蘭ちゃん、喜ぶで、きっと」
和葉が笑う。
「殴られるのは覚悟しているんだけどね」
おそらく泣かれるだろうと新一は思っている。今は他に彼氏もいて、交際も順調にいっている彼女だが、自分のことを心配しなくなったわけではないのだ。
「なんで蘭ちゃんよりも先に平次のところへ来たん?」
「だから、気晴らし。ちょっとストレスがたまっているから、服部相手に解消しようと思ってさ」
新一は後ろを振り返った。平次が相馬相手に笑っている。
ただ何となく平次に会いたかった。
電話越しではなく、顔をつきあわせて話しがしたかった。
単独での外出の許可が下りて真っ先に思い浮かんだのが彼の顔だった。
ただそれだけ。
たいした理由などない。
「なんや、工藤」
「今日はちょっと俺につきあえ」
「朝までかてつきおうたるよ」
にっと平次が笑う。新一はそれにやはり笑顔で返す。
「ほんま仲ええなぁ」
和葉がふたりの顔を見比べて、うれしそうに笑った。