春の宵闇 -8-
平次の指が、髪の毛を梳く。はさみを手にした彼は、真剣な表情で新一の髪を切っている。朝の日課となってしまった散髪だ。
「だいぶ上手くなったよな」
初日の虎刈りよりはずっと見られる髪型に仕上がりつつある。
「おおきに」
鏡越し横顔が笑う。
「けど、明日は美容院に行くからな」
「そらそうや。プロにきれいにしてもらい。工藤新一復活の日なんやから、ばしっと決めんとな」
平次が指先で挟んだ髪を切りそろえる。短い髪がばらばらとレインコートを滑って、床の新聞紙の上に落ちた。
新一は鏡の中の平次を見つめていた。
今日が最後だ。こんな風に触れてもらえるのは。
添い寝をしてもらえるのも、今夜が最後。
「そういや昨日の夜。おまえずっとベッドにいたか?」
平次がいなかったような記憶がある。
夢だったのか、現実だったのか、はっきりしない。
夢ならば寂しい夢だ。
どうせ明日の夜からは独り寝になるのはわかっているのに、それをわざわざ夢に見る必要などないではないか。
「おったけど。あぁ、そうゆうたら寝ぼけとったわ、工藤」
平次がにやっと笑う。
「ちょっとゴミ捨てに行っとるときに、俺がいなくなったのかと勘違いして探しとった」
新一の顔に血が上る。
「勝手に話を作るなよ」
「ほんまやって。けど、これまでなにしても起きへんかったのに、なんで昨日に限って起きたんやろな」
「身体が睡眠薬に慣れてきているのか。身体が大きくなった分、相対的に睡眠薬の濃度がうすくなって効き目が悪くなっているとか。それよりなんだよ。なにしてもって。俺が寝ているのをいいことに、なんかしやがったのか」
赤い顔を怒りにすり替えて新一は平次を睨んだ。
平次の目が微妙に泳ぐ。
「なんかしたんだな」
「してへんって」
「服部」
新一は彼を振り仰いだ。
「ほんま、ほんま。なんかゆうんは、爪切りのことや。慣れてへんときに深爪にしかけても起きんかったからな」
はさみを持った手を振りながら、平次が否定する。
「本当か」
疑いの眼差しを向ける新一に彼は大きく頷く。
「信じてやろう」
新一は鏡に向き直った。
後ろで平次がほっと息をつく。
それを見て新一は肩を揺らして笑った。
平次の手のひらが新一の頭を撫でる。
「しっかし、めっちゃきれいな髪の毛や」
「痛むひまがないからな」
伸びては切り、伸びては切って、髪はすべて生えたてのようなものだ。
「いっそ伸ばしたらよかったんちゃう」
いたずらっぽく言いながら、彼は指先で髪をもてあそぶ。手つきの優しさに新一の反応が一瞬遅れた。
「……ばーろ。そんなことより、終わったのかよ」
せやな、と平次が髪をかき回す。落ち損ねていた髪の毛がぱらぱらと散った。
新一はレインコートに手を掛けた。そっと脱いで新聞紙の上に髪の毛を落とす。
はさみを洗面台に置いた平次が、乾いたタオルで新一の首の後ろを撫でる。
「動かんといて。取れへんのがある」
言いながら平次が新一に顔を寄せた。
うなじに張り付く髪の毛を爪先で引っかけ、息で吹き飛ばす。
思わぬ刺激に、新一の肩がびくりと揺れた。
平次が驚いて顔を上げる。
鏡の中で目が合う。
ふたりともすぐには言葉が出なかった。
「な、なにをして」
「あ、え、わざとちゃうし」
焦って発した言葉が被る。
新一は鏡の中で赤く染まっていく自分の顔を見ていられず、勢いよく振り返った。
「服部!」
平次がのけぞり、たたらを踏む。
新聞紙がまくれて床に髪の毛が散乱した。
「うわ、なにしてんだよ」
「なに、て。そら工藤が急に振り向いたからやないか」
「俺のせいかよ。とにかく、掃除機だ、掃除機。持ってきてくれ」
椅子の上に両足を上げて、新一はドアを指さした。
ばたばたと平次が洗面所を出ていった。
新一は膝を抱えて床を見つめた。
椅子の背に掛けていたレインコートも床に落ちて、髪の毛まみれになっている。
足に付いた髪の毛を払い落としながら、新一は先ほどの平次の表情を思い返していた。
――赤くなっていなかったか?
色の黒い彼には珍しく。
平次の息が首筋にかかった瞬間、ぞくっとした感覚が背中に走った。
彼にその気がなかったことはよくわかっている。
だというのに、なぜ彼が焦るのだろう。
いつもの彼なら、反応した自分をからかうだろう。
首が弱いんやな、など言いながら笑う。
口調や表情まで想像できる。
――おかしい。
彼とのつき合いはさして長くはないが、その分深い。
たいがいの反応や行動なら予測できる。
惚れてしまったと自覚してから、それまで以上に彼を注意深く見ていた。
だから自信を持って言える。
――ここのところ、あいつは変だ。
新一は口元に手を当てた。
平次がいるのは明日の夕方まで。
その後はいつ会えるかわからない。
ならば探り出すのは今夜をおいてないだろう。
平次の戻ってくる足音を聞きながら新一は決断した。
ベッドに横たわり、平次は天井を眺めていた。
遮光カーテンが引かれた客間の中は薄明るい。
せっかくの仮眠の時間なのに、眠る気になれなかった。
目を閉じると、新一の顔が浮かんでしまう。
――めっちゃ敏感なんちゃうか。
首に息を吹きかけたとたん、新一の肩が跳ね上がった。
次の瞬間には首筋まで赤くなった。
髪の毛を取ろうとしただけで、誓って他意はなかった。
なのにあんな反応を見せられると、抑えつけている欲情が煽られる。
今夜。
最後の夜だ。
横で元の姿に戻っていくのを見ていなければならない。
――きついやろな。
無防備に眠る彼に、触れずに過ごさなければならない。
すべては彼が完全に元の姿になってからと決めたのだから。
いっそ自分も眠ってしまいたい。
そうすれば、何事もなく、平和な朝が迎えられるだろうに。
平次はため息をついた。