春の宵闇 -7-
ノックをしてから、新一は客間の扉を開いた。
「時間だぞ」
声を掛け、なかを覗きこむ。
これまでならあっさり起き出す平次が動かない。
昼間の日差しを避けて、カーテンの閉められた部屋。その陽はもう落ちて灯りのない部屋は足下も危うい。足音を忍ばせて近寄ってみると、彼はまだ眠っていた。気配には聡い男が珍しいことだ。
新一は彼の寝顔を覗きこんだ。
暑かったのか毛布を半分はねのけて、シーツに埋もれるように平次は眠っている。
――ひとのこと言えねぇ暴れ方じゃねぇか。
くくくと新一は肩を揺らした。
意識のあるときには出来ないと、じっくりと彼の顔を眺める。
指を伸ばして、髪の先をさわさわと撫でてみる。思っていたより柔らかい。
頬に触れかけ、新一は苦笑して手を引いた。
ここで目覚められたら、誤魔化すのに苦労する。
新一は平次の肩に手を掛けた。
「起きろよ、服部」
揺すると彼はようやく目を開いた。
笑いかけた新一を認めて、平次が驚いたように身を引いた。勢いでベッドから落ちそうになる。慌てて新一は彼の腕を取った。
「なにしてるんだよ」
「あ、あぁ、すまん」
体勢を崩したまま、彼はベッドの上に起きあがった。
「工藤の出てくる夢見とって。そしたら、目ぇ開けておんなし顔があったんで、めっちゃびびってもうた」
聞いてもいないのに平次は言い訳をする。
新一は苦笑して彼の腕を離した。
「勝手にひとの夢を見ているんじゃねぇって。まぁ、いいから起きろよ。夕飯も出来てるぜ」
今夜はカレーだ。少し多めに作ってある。明日の自分の間食用にだ。
わかったと平次がベッドから降りる。
新一が見上げると彼は離れるように一歩引く。
「ほんま、あと少しになったな」
「明後日の朝には元通りだぜ」
そや、と声を上げて、平次が枕元に置いてあった携帯電話を取り上げた。それを振って、済まなそうな顔をする。
「寝る前に剣道部のつれからメールがきてな。合宿の日程が急遽変わったんやって」
「帰る日が変わるのか」
「そうやねん。明後日の夜には戻っとかなならん」
一週間の予定が二日早まったのだ。
「そっか。仕方がないな」
元の姿に戻ったら、一緒に遊びに出かけたいと思っていた。子供の姿になって自由に行動できなかった鬱憤を晴らしてしまいたかった。彼がどう思おうと、新一にとってはデートになる予定だったのに。
「夜に戻るのなら、こっちを夕方には出るんだな」
平次に頼んでいる朝の散髪も、最終日の朝はやはりプロに任せたい。哀への経過報告は朝一番に済ませておくべきだろう。となると、羽を伸ばして遊ぶ時間はあまり取れそうにない。
「そないがっかりせんといて」
わずかに曇った新一の表情を読んだか、平次が謝る。
「してねぇよ」
軽く手を振って彼に背を向ける。扉に歩み寄る新一を平次の声が追った。
「また来るし」
「いいって。今度はこっちから行く。すんなり高校三年生に進学できるかわからないから、いつ頃とは言えないけどな」
もうすぐ行動の自由が手に入る。保護者が必要な子供ではなくなるのだ。
久しぶりの大阪というのも楽しいだろう。
彼の地元を彼の案内で歩く。コナンの頃とは違う景色が見られるに違いない。
廊下に出て新一は振り返った。
「お好み焼きのうまい店でも連れてってくれよ」
平次が「おう」と笑った。
薬を飲んだ新一がベッドに潜り込む。彼は脇に立つ平次を見上げた。
「今夜はちゃんとベッドに入っておけよ」
冷え込むという天気予報を見て以来、彼は何度も同じセリフを口にする。
平次はにっと笑った。
「工藤が暴れんかったらな」
「すこしぐらい我慢しろって」
動こうとしない平次に、新一が手を伸ばしてくる。スエットの袖を掴んで彼は命じるように言った。
「起きたときベッドにいなかったら、承知しねぇぞ」
平次が苦笑を浮かべて頷くのを見てから、彼は目を閉じた。指が離れる。
しばらくして、新一が寝息を立て始める。
小さくため息をついて、平次はベッドの反対側にまわった。新一の空けたスペースに腰を下ろす。
本当に今夜は冷える。足下から冷気がはい上がってくるようだ。昨夜のように床に逃げるわけにはいかないらしい。風邪など引けば、かえって彼に迷惑を掛ける。
新一を視界に入れないように気をつけながら、平次はベッドに潜り込んだ。
平次は昨夜の読みかけの本を手に取った。しおりを挟んだページから読み始めたが、読んだはずの前半の内容が思い出せない。このまま初めから読み直しても、どうせ頭には入らない。活字の上を目が滑るだけだ。集中力はすべて背後の新一に向いている。
昨夜の一件がまだ尾を引いている。
昼間は目が勝手に新一の姿を追ってしまった。目が合いそうになると慌てて逃げた。なにをしているのかと自分でも思う。
そして極めつけは仮眠の時に見た夢だ。
楽しげに平次に後ろから抱きついてきている新一の夢。
夢の中で自分は幸せに笑っていた。
平次は諦めて本を閉じた。
帰る予定が早まったと告げた後、新一の顔をよぎった寂しそうな影が頭にこびりついている。
元の姿に戻ったら遊びに行きたいと言っていた彼は、もう具体的な計画を練っていたのかも知れない。だが彼は笑ってすぐに頭を切り換えたらしかった。
――今度はこっちから行く。
大阪へ来てくれるという。
コナンの頃何度か来てくれた自分の地元に。
それならばと平次は、新一が楽しんでくれそうな観光コースに頭を巡らせることにした。
小指の爪を切り終えて、平次は詰めていた息を吐き出した。これで今夜二回目の爪切りが終了した。
横目で確認した新一の寝顔は穏やかだ。
平次はそっと彼の腕を布団の中に仕舞った。今夜は本当に寒い。自分の手ももう冷えている。
爪を包んだ紙をゴミ箱に捨てるために平次は立ち上がった。
ベッドに戻ると、布団に戻した新一の手が、平次の寝ていたスペースに伸ばされていた。なにかを探るように動いた後、小さな声が上がる。
「はっとり」
「工藤。どないした」
起きてしまったのかと、平次は彼の様子を窺った。
新一はぼんやりと目を開いて、平次を認めるとすぐに目を閉じた。
――寝ぼけたんか。
薬のせいだろう、これまではなにをしても彼が目覚めることはなかったのに。爪切りで手足を冷やしてしまったかと平次が考えていると、新一がまた呟いた。
「いなくなったかと思った」
「おるよ」
そう答えてベッドに潜り込む。すっかり冷えた身体に布団のぬくもりが優しい。
寝顔を見ないように背を向けようとした平次の腕を、新一が掴んだ。
ずっといればいいのに。
輪郭のぼやけた声で新一がささやく。
平次の呼吸が止まった。
「工藤」
振り返り思わず呼んだ声に、もう彼は反応しない。
だが、手はそのまま。
平次の腕を掴んで放さない彼の手が、言葉が現実だと告げる。都合のいい空耳ではないという。
――帰って欲しくないんか。
嘘や冗談を寝ぼけて言えるような人間はいないだろう。
ならばこれが彼の本心。
予定が早まったと告げたときに見た、寂しそうな表情は見間違えではなかったのだ。
平次は片手で顔を覆った。
――めっちゃ嬉しい。
指の隙間から平次は新一の寝顔を見つめた。
鼓動が早まってくる。
血が熱を帯びる。
――工藤やから。
必死になって否定したはずの感情が、すんなりと心に落ち着いた。
――惚れとるから、俺は。
昨夜逃げていた温もりが欲しくなる。
掴まれた腕もそのままに、平次はおそるおそる新一の身体を抱き寄せた。
なんの抵抗もせず、彼の身体は平次の腕の中に収まった。
伸び始めている髪をそうっと撫でる。
なめらかに指を滑る髪。やわらかな身体の温もり。
奪い尽くしたいほど、愛おしい。
新一の存在そのものが、平次の本能を煽る。
――このまま。
平次は腕から力を抜き、奥歯を噛みしめた。
彼は自分を信頼しているからこそ、この役目を頼んだのだ。もっとも無防備になる時間を見守る役を。それを裏切るわけにはいかない。これ以上は彼の意識があるときに、きちんと気持ちを告げてから。
ぎこちなく彼の身体に回した腕をほどく。自分の腕を掴んだままの彼の手も外す。
名残にひとつ新一の頭を撫でて、平次は彼に背を向けた。
「起きや。工藤」
平次の声で新一は眠りの世界から引き戻された。
寝ぼけたまま大きく寝返りを打つ。
ぐぇ、と隣でなにかが潰れるような声がした。
目を開けると平次が喉を押さえて呻いていた。彼の胸の上に自分の腕が乗っている。
「どうした?」
「どう、した、ちゃう、わ」
彼は涙目だ。
「気を、つけんと、あかんのは、足、だけ、ちゃうんか」
おまえの腕が、と彼はとぎれとぎれに言う。
寝返りを打ったときに、腕がなにか柔らかい物に当たった気がしたのだが、どうやらそれは彼の喉だったらしい。
「悪い。大丈夫か」
「どうにか」
頷く平次はまだ喉に手をやったままだ。
「わざとじゃねぇぞ」
念押しした新一に彼は目を見開く。
「工藤」
慌てて起きあがる平次につられて、新一もベッドの上に身を起こした。
「なんだよ」
「声や、声。声変わりしとるで」
今度は新一が喉に手をやる番だった。自分でははっきりわからない。
「そらそやな。そろそろするわな。明日の朝には元の姿やろ。したら、今朝は中学生ぐらいの体格になるはずやもんな」
嬉しそうに話しながら、平次がベッドから降りる。
「スキー場でニアミスした頃だな」
新一も立ち上がった。パジャマ代わりのスエットの袖や裾も、もうあまり邪魔にならなくなっている。
「そうやったな」
新一は笑う平次の横に立つ。
視線がちょうど彼の顎先にぶつかった。少し目を上げるだけで、目が合う。
「それ考えたら、俺の身長も伸びとるんがよくわかるわ。ちらっとしか見とらんけど、おんなしぐらいの体格やったもんな」
懐かしい話に新一も笑みを浮かべた。
あのときすれ違った相手とこうして向かい合っている。
ライバルとして出会い、相棒になった。
共に追った事件はいったいどのぐらいになるだろうか。
「どこかで会うだろうと思っていたけど」
「俺らは似たもの同士やから、引かれあうんやって」
平次が新一の髪をかき混ぜる。伸びた髪が視界を遮った。
飯にしようや、と彼は背を向ける。
新一は乱れた髪を掻き上げ、部屋を出ていく平次を見つめた。
遮られた視界の隅で捉えた彼の表情が気にかかる。
昨日見たような、痛みをこらえるようなものではなかった。
慈しむような優しい目をしていなかったか、彼は。
勘違いをした心臓が鼓動を大きく刻み出す。
――ありえねぇだろ。
新一は軽く頭を振ってそれを無視すると、平次を追って部屋を出た。