春の宵闇 -9-
新一はベッドに腰掛け、平次の出ていった扉を眺めていた。彼は今夜読む本を取ってくると書斎に行っているのだ。
ベッドサイドのテーブルの上から、新一は小瓶を取り上げた。横にはそれを飲むための水も置いてある。最後のひとつとなったカプセル。今夜で新一の身体は元の大きさに戻る。
カプセルから目を離し、もう一度新一は扉を見た。
――あいつは、絶対、おかしい。
新一は瓶を振った。カプセルが軽い音を立てる。
朝の決断を行動に移そう。
ひとつ頷いて、新一は水の入ったグラスに手を伸ばした。
本を抱えて平次は新一の部屋の前で一息ついた。
今夜は一番きつい徹夜になるだろう。精神的に。
肉体的にも昼間に仮眠が充分取れなかった分、苦しくなることがわかっている。
軽くノックして、扉を開ける。
新一はもう眠っているようだった。
部屋の灯りは落とされ、いつものようにランプの灯りがベッドをほんのりと照らしている。
新一のそばのテーブルの上には、半分ほど水の残ったグラスがぽつんと置かれていた。
平次は足音を忍ばせてベッドに寄り、新一の顔を覗きこんだ。陰影を深く刻み込み、彼は穏やかな顔で眠っていた。
――寝顔だけは変わらんな。
コナンという仮の名前で生活していた頃からずっと見つめてきた、工藤新一という男。
恋しい相手に変わるとは、まさか思っていなかった。
平次はいつものように彼に背を向けてベッドに入る。
新一の寝息に耳を塞ぎ、平次は本を開いた。
四分の一も読まないうちだった。
新一が寝返りを打った。
温かな身体が平次の背にぴたりと寄り添う。
首筋に寝息がかかって平次は硬直した。もう文章など目に入らない。意識は全部背中に向けられる。
平次は本を閉じた。
はっとり。
呼ばれたような気がして、首だけで振り返る。
身じろいだ新一の手が平次の腕に乗った。
――いなくなったかと思った。
まだ耳に残る昨夜の新一の声。
思わず彼の手をつかみ取る。
熱いほど温かい手。
爪を切るために何度も取った手だ。
今夜はまだ伸びてはいない。
平次は息を詰めて彼と指を絡めた。手のひらもまだ、自分より一回り小さい。
鼓動がゆっくりと高まってゆく。
こうして同じベッドで眠るのは、今夜で最後。
言い訳する必要もなく触れていられるのは今夜が最後なのだ。
最後、最後、と感情が理性を揺する。
平次はため息をひとつついて観念した。
絡めた指をほどき、眠る新一を起こさないようにゆっくりと寝返りを打つ。
寝顔に向かって堪忍と謝る。
「これ以上はせんから」
まだ伸びていない新一の髪に触れる。
さわさわとやわらかな感触を楽しむ。
白い首筋がちらりと見えた。
眺めていると、今朝の情景を嫌でも思いだしてしまう。
目の前でぱあっと染まったうすい皮膚に、唇を寄せてしまいたくなる。
平次はそこから視線を引きはがした。
「どうするんが、一番ええんやろ」
つぶやきがこぼれた。
絶対に口説き落とそうと考えている。
だが、男などどうやって口説けばいいのか。
急いてはいけない。
かといって、悠長にかまえているわけにもいかない。
惚れた男は、もてる男でもあるのだ。
コナンになる以前は、ファンレターを山ほど貰っていたという。工藤新一として復活し、探偵として活躍し始めれば、すぐに同じ状況になるだろう。もしかすると、以前の比ではないかも知れない。
すぐそばにずっといることが出来るなら、まだいい。しかし自分は明日には大阪に帰らなければならない。そして、次に上京してくる予定はまだない。
「なんで惚れてもうたんやろなぁ」
「後悔、しているのか」
返らないはずの答えが返って、平次は心臓が止まるかと思った。
新一が目を開いていた。
真っ直ぐに平次を見つめてくる。
探偵のすべてを見透かす瞳だ。
眠りの欠片もそこにはない。
「俺に惚れたこと、後悔しているのか」
重ねて問われて、平次は我に返って首を振った。
「してへん」
髪に触れた手もそのままに、きっぱりと否定する。
真剣な新一の表情が、誤魔化すことを許さなかった。
ゆっくりと新一の顔に笑みが上る。
「よかった」
噛みしめるように言う。
平次は彼の言葉の意味が理解できなかった。
「よかったって」
呆けたように繰り返す。
「俺も後悔してないんだ。おまえに惚れたこと」
平次は思わず起きあがった。
冷たい夜の空気に包まれても、頭の中まで冷えてくれない。
「惚れているって、ほんまに?」
横たわる新一の顔を茫然と見つめる。
「夢ちゃうやろな」
どうやって口説こうかと思っていた相手からの告白に、平次は目眩がしそうだった。
「なんなら蹴ってやろうか」
起きあがりながら新一が笑う。
「一発で目が覚めるぞ」
「それは遠慮しておくわ。それにしても、なんで起きたん」
騒ぐ平次に新一が枕の下に手を突っ込んだ。
彼がそこから引っ張り出した物は、小瓶。中にはまだカプセルが残っていた。
「飲んどらんかったんか」
「おまえの様子がおかしいのが気になっていたんだ」
だから、と言いながら、彼は腕を伸ばしてテーブルの上に小瓶を置いた。
「そんで狸寝入りか」
怒ったかという新一を平次は抱き寄せた。
そのままベッドの上に押し倒し、真上から顔を覗きこむ。
「まさか。こんなことでもなかったら、俺はえらい遠回りをせなならんかった」
新一の腕が平次の頭を引き寄せる。
唇が触れ合う直前で、平次はもう一度告げた。
「めっちゃ惚れとる」
ついばむように二度三度触れていると、舌先を新一の口中に招き入れられる。
新一とのキスに夢中になっていた平次に、冷水を浴びせられるようなショックが走った。
絡めた新一との指。
手の大きさが違う。
――工藤は、まだ。
身体を離した平次を新一が驚いた目で見た。
「どうした」
ふたりの合わせた手を見つめて、平次は硬く目を閉じた。
「あかん」
「俺とはやれねぇってことか」
目を開けると自嘲したような表情を浮かべている新一がいた。
「ちゃうわ!」
平次は彼の太股に腰を押しつけた。
欲情している証を突きつけられて、なにか言いかけていた新一が口をつぐむ。
平次は彼の目の前に絡めた指を晒した。
新一の手はまだ平次の物より一回り小さい。
最後の薬を飲んでいない彼は、まだ中学生の体格なのだ。
「薬、飲んでや」
「薬?」
「そうや。完璧に戻ってからやないと」
新一が不満そうに唇をとがらす。
「コナン相手だったら無理なのはわかるけどさ。ここまで戻っていれば大丈夫だろ」
「せやけど」
「それにおまえは明日帰るじゃねぇか」
上目遣いに言われて平次の決心が揺らぎそうになる。
「だめや。ちゃんと元の姿に戻るのを確認したいんや。それに明日帰るゆうても、夕方まではおる」
朝、と平次は約束した。
新一がため息をつく。
「わかったよ」
彼は起きあがって小瓶に手を伸ばした。彼がグラスに残った水でカプセルを飲むのを平次は横で見つめていた。
グラスを置くのを待ちかまえて、平次は新一を抱きしめた。
「おい、こら。これじゃ苦しくて眠れねぇよ」
抗議の声は柔らかい。
平次は腕をほどいた。
ふたりの肩まで掛け布団を引き上げる。
「おやすみ。ええ夢見てな」
「おまえがいたずらしなければ大丈夫だろ」
新一が笑って目を閉じる。
平次は新一のまだ小さい手に口づけを落とした。
目が、覚めた。
見慣れた天井をぼんやりと眺め、新一は瞬きを繰り返した。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
服部、と声を掛けようとした新一の耳が、寝息を拾った。
見やると横で平次が眠っていた。
これまでになかったことに、新一は少し笑った。
手を目の前に晒す。成長している。しかし、爪は短い。どうやら彼は最後の爪切りを終えて力つきたらしい。
新一は平次の寝顔をじっくりと眺めた。
昨夜思いがけず聞けた、平次の告白。
まさかと思った。
叶うことがないのなら、そばにいられるだけでいいと思っていた、その想いが報われた。
しかし、成長しきっていないことを理由に、一線を越えることを拒まれてしまった。
――もう障害はないぞ。
せっかく彼が自分のいる場所に堕ちて来てくれたのだ。
最後の今日、想いを遂げてしまいたい。
思い返せば、彼が変わったのはこの数日。
同じ想いを抱くようになったのは、きっと今回の件の最中だ。
もしも彼の想いが、濃密に過ごした時間が生んだ幻であったとしても、手放してなどやらない。
地元に帰り、日常の生活に戻って、春の夜の夢だったなどとは言わせない。
彼の言葉は真実だ。
それを疑ってはいない。
ただその真実を彼の身体にも刻み込みたいのだ。
後戻りが出来ないように。
自分に縛り付けてしまおう。
「おはよう」
新一は寝顔に声を掛けた。
ぼやっと目を開けた平次にのしかかる。
「あぁ、寝てもうたんか」
「けど、明け方までは起きていたんだろ」
「まぁな。昨日仮眠が取れんかったから。そのせいやな」
新一は真上から彼の顔を覗きこんだ。
伸びた髪の毛が頬を滑り落ちて視界を遮る。
それを平次が掻き上げた。
「なんでだ」
「そら、おまえをどうやって口説いたらええんか、悩んどったからや」
「必要のない悩みだったな」
「今になって思えばな」
髪を梳くようにしていた平次の指先が、流れて首筋を撫でた。
新一の背筋にぞくりとした感覚が走る。
平次が嬉しげに笑った。
「ほんまに首弱いな」
「うるせぇ」
触れているのが彼だから、感じるのだ。ただそれだけだ。
「シャワー浴びてこようか」
いつも代謝が激しいからと起きて真っ先に浴びていた。
今朝もきっとずいぶん汗をかいているだろう。
「あかん。もうお預けはなしにしてや」
言葉と同時に新一の視界が回転した。
あっという間に、体勢が逆転する。
新一の上で平次が笑う。
両腕を差しのばして、その笑顔を抱き寄せる。
「昨日の続きを」
「仕切直しや」
同時に口にして、ふたりで吹き出す。
「工藤」
平次が目を細めた。
瞳にははっきりと欲情が浮かんでいる。
自分が同じ目をしていることを新一は疑わなかった。
「惚れてんで」
俺も、という返事は、平次に呑まれた。
新一が玄関に向って庭を歩いていると、声が上から降ってきた。
「お帰り」
平次が二階の窓から顔を出している。
「どうやった?」
「問題なしだ」
ふたりは笑顔を交わした。
平次との時間をたっぷり取った後、新一は髪を切りに行くのを後回しにして、阿笠邸で哀に結果の報告をしてきたのだ。伸びた髪は襟足の後ろでくくってある。
その間、平次は家の片づけをしていた。主に掃除と洗濯だ。今日はきれいに晴れている。洗濯物もよく乾くだろう。
無事に高校生の身体になった新一を見て、哀は顔にこそ出さなかったが、心底安堵しているようだった。一緒に話を聞いていた博士は素直に喜んでくれた。
新一は平次を見上げて彼らの言葉を伝えた。
「それで、昼飯に庭でバーベキューをやるから、来いってさ」
ひとを大勢呼んで、新一が帰ってきたパーティもどきにしようというのだ。
「毛利のおっちゃんも蘭も来るし。少年探偵団の連中も来るってさ」
園子や日本に戻っている彼女の恋人も呼ぶらしい。
「蘭ちゃん、来るんか」
平次が困ったような表情を浮かべた。
恋人の想い人だった相手に会うのは気まずいのかと、新一はこっそり笑った。
「おう、年上の彼氏を連れてくるってさ。紹介してもらえ。俺はコナンの時に紹介されたぜ」
「そんなら俺も恋人紹介せんとあかんかな」
「やめとけ。博士がきっと目を回す。博士になんかあったら、灰原が敵に回るぞ」
「そらあかんな」
冗談に冗談を返す。
平次は更に言葉を継いだ。
「蘭ちゃんに蹴られるんちゃうか、自分」
「そのときはおまえを盾にする」
「勘弁してや」
心配をかけ続けてきた蘭には本当に頭が上がらない。蹴られようが殴られようが文句はないが、泣かれそうな気がしている。それが一番きついかもしれない。
「それで準備を手伝えってさ。ふたりはさっき買い出しに出かけたから、その間にバーベキューの支度をしておけって言われたんだ」
阿笠邸の鍵を振ってみせる。セットがどこにあるのかは、コナンの頃に確認済みだ。
「おう、すぐそっち行くわ」
平次の姿が窓から消える。
新一は空を見上げた。
ほのぼのと暖かい春の日差しが降ってくる。
まるで天国から光があふれてきているようだ。
新一は両腕を高く空に伸ばした。
すべてのものに祝福されているような気がする。
それもこれも最愛の恋人を手に入れたせいだろう。
「おまたせ」
玄関から駆け出してくる平次を、新一は一番の笑顔で出迎えた。
終