春の宵闇 -6-
おやつというにはボリュームのある食事を終えて、新一は汚れた食器を流しに運んだ。食後のコーヒーを淹れて、リビングに入る。
平次は居ない。
眠っているのだ。
ソファに深々と腰掛けて、新一は足先でサッカーボールを弄んだ。午前中、久々にそれで遊んだ。吹き抜けになっている玄関ホールでのリフティング。本当なら庭に出てやりたかった。思い切りボールを蹴って、駆け回りたい。身体の中にエネルギーが満ちあふれて、暴れたくてしょうがない。
新一はコーヒーを飲みながら、恨みがましく庭を見た。天気は上々。まるで家から出て来いと誘っているようだ。
――変装したいぜ。
母のような変装技術があれば、思う存分外出できて、平次を相手に遊べるだろうに。
短く切られた髪に手をやって、新一は睡眠中の彼に思いを馳せた。
平次の様子がどことなくおかしい。
髪を切ってもらっているとき、鏡の中で目が合ったとたん、彼は自分の指をはさみで切った。皮一枚切っただけで血もほとんど出なかったので安心した。だが、曖昧な言い訳を動揺したように口にした彼の様子は変だった。なにが彼の手を滑らせたのか気にかかる。
新一は足先でボールを蹴った。転がったそれは、向かいのソファにぶつかって足下に戻ってくる。
「なんなんだろうな」
ひとり呟いて、新一はもう一度ボールを蹴った。
ベッドに横になり、ランプの灯りで平次は読書に励んでいた。部屋に響くのは時計の音と、新一の静かな寝息だけだ。
今夜も新一は薬を飲んで眠った。
昼間家の中だけでは遊び足りなかったのか、眠ってからも暴れている。ベッドから転げ落ちそうな勢いだ
背中越し、平次は彼の寝息を聞いていた。
視界に入らなくとも、新一の気配が大きく感じられる。
小説に集中しきれずに、平次は軽くまぶたを押さえた。
昨夜の微笑がそこに焼きついている。彼が笑うたび、あのときの衝撃に似たものが身体を走る。
嬉しくて高揚する心と、近づくなと警告する心がぶつかって、平次を戸惑わせる。
なぜ危険と思うのか、それはわからない。
だが、近寄ってはいけないとだけ強烈に思う。
なぜか。
――なんやねん。
平次は憮然と本を閉じた。そろそろ新一の爪を切ってやらねばならない。
ベッドに身体を起こそうとしたとき、新一が寝返りを打った。
転がった彼は平次の背中に抱きつくように腕を回してきた。
平次の首筋に新一の温かい息がかかる。
強い電流のようなものが全身を駆け抜けた。
血が一瞬にして燃え上がる。
新一の腕を引きはがし、平次は逃げるようにベッドから転がり出た。
床に座り込み荒い息を吐いて、新一を見上げる。
平次の動きに目覚めたか、彼は寝ぼけたような顔で平次を見て、すぐにまた眠りの世界に戻っていった。ふわりとした笑顔を残して。
新一に向かって伸ばしそうになる手に気づいて、平次は慌てて彼に背を向けた。
心臓が暴走している。
欲情もまた暴走した。
親友のぬくもりに、身体が反応してしまった。
平次は硬く目を閉じた。呼吸を意識的に深くする。耳の奥でうるさく鳴る心臓の音は無視だ。自宅にいるなら竹刀を持って庭に出るところだ。竹刀を振り続ければ、無心になれる。
――気の迷い。気のせい。
収まらない鼓動と身体の熱が平次の思考を乱す。
――偶然。偶然。たまたまや。
きっと首筋が自分の性感帯のひとつで、そこを刺激されたから身体が反応をしたに違いない。
相手に問題はない。
誰でも良かったのだ。
電気のスイッチのような物で、押す相手にかかわらず、同じ反応を必ず示す物なのだ。
だから。
――工藤やからやない。
平次は心の中で言い切った。
自分は彼に欲情したわけではない。
――近寄ってはいけないゆう予感は、こういう意味ちゃう。
違う。
絶対に違う。
――ただの条件反射や。
身体の熱が引いてしばらくしてからも、平次はベッドを振り返らなかった。
新一が目覚めると、いつも横にいる平次がいなかった。
目をこすりながら起きあがってみると、床の上から声がした。
「おはようさん」
平次は毛布にくるまって床にいた。模様を見れば彼が被っているのは、仮眠に使っている客間の毛布とわかる。夜中わざわざ取りに行ったのか。
「なにしているんだ」
「工藤に蹴落とされてん」
平次が深刻そうな顔で言う。
「昼間暴れ足りんかったんやろな。ベッドの中で大暴れやったで。本人が落ちんかったんが不思議なぐらいや」
いたずらっぽく目を輝かせながら、腕組みをして言う彼に新一は枕を投げつけた。
「嘘つけ」
「嘘ちゃうって」
受け止めた枕の影から顔を覗かせて平次が笑う。
「暴れまくっとったんは、ほんまやで。蹴落とされたゆうんは嘘やけど」
「だったら、シュートの的になってくれよ。リフティングだけじゃ物足りない」
「あかんやろ。おまえのシュート受けたりしたら、俺の骨が折れる」
「ばーろ。キック力増強シューズは履かねぇよ。だいたい履けなくなっているはずだ」
新一はベッドから降りた。
立ち上がった平次と並ぶ。
身長は彼の肩をわずかに超えていた。
「あと少しだ」
新一が見上げて笑うと平次が慌てたように扉に向かった。
「朝飯にしようか。先、シャワーを浴びてこいや」
振り返らずに出ていく彼に、新一は首を傾げた。
平次が飲み終えたコーヒーカップを置いた。
「寝るか」
「せやな」
カフェインが効かないと言う彼は、昼食後に必ずコーヒーを飲む。そして、徹夜のための仮眠を取るのだ。
「暇だな。おまえが寝ると」
午前中、新一は廊下で平次を相手にシュート練習に興じた。成長したとはいえ以前の力はまだ戻らず、物足りない威力だったのだが、受けた平次は素人相手に無茶するなと言っていた。
「せやから、今日は髪を切らんとおいて、帽子を被って女の子っぽい服でも着て、庭でサッカーしとったらええってゆうたやんか」
誰かに見つかったら知り合いの女の子ということにすればいいと、平次が哀と同じようなことを言う。
「そんなことが出来るか。完璧に変装するにしても、男にしかならねぇぞ」
「そらそやな。女があんなシュートは打てんわな」
平次の笑いが途中からあくびに変わった。
「もう寝ろ。俺はしかたがないから本でも読んでいる」
頷いて彼は新一の分のカップもキッチンに片づけに行った。
「そういや毛布、俺の部屋に置き放しだろ。取ってくるからおまえは自分の部屋に行ってろ」
新一は平次の返事を待たずに自分の部屋に駆け上がった。
新一が毛布を抱えて戻ると、彼は客間の前に立っていた。
「なにしてんだよ。入って待っていればいいのに」
「そうなんやけどな」
苦笑する平次に毛布を押しつける。
見上げた顔が近かった。
正面に立つたび、横に並ぶたび、成長したことを実感する。
もうすぐ元の姿に戻れる。
名実共にこの男の相棒になれるのだ。
あと二晩寝れば、なれる。
新一は平次に笑いかけた。
「じゃ、ゆっくり寝ろよ」
「おおきに。ほな、おやすみ。いつもの時間に声掛けてな」
笑顔で手を挙げて、平次が部屋に入っていく。
閉まった扉の前で新一は口元に手を当てた。
彼の笑顔の中を一瞬よぎった痛みをこらえるような表情が気にかかる。
――まさかシュートを受けた手がまだ痛むのか。
しばらく手のひらが赤くなっていたのは知っているが、彼は割と平気そうな顔をしていた。わがままを言って遊びにつき合わせたのはよくなかったのかも知れない。ただでさえ彼には負担を掛けているのだから。彼とふたりきりで過ごせる幸せな時間はあまりないのだ。出来るだけ彼にも楽しく過ごして貰いたい。
平次が起きてくるまで大人しく本でも読んでいるかと、新一は書斎に向かった。