春の宵闇 -5-
ベッドヘッドに置かれた爪切りを見て、平次は新一を振り返った。
「これの使い方ようわからんのやけど」
「はさみと同じだって母さんは言っていたぜ。大丈夫だ。昨日使っていたやつより切り易いはずだから」
サイドテーブルの上にコップと薬瓶を置いた新一が言う。
「やっぱり手袋をして寝た方がいいんじゃないか」
伸びた爪を切らなければならないのは、布団に引っかけて生爪を剥がしたりしないため。それならば、伸びても引っかからないように大きめの手袋をしておけばいい、というのが新一の意見なのだ。
「あかんて。工藤、寝とるとき結構暴れとるんやで、変な風に身体の下敷きとかにしてみい、怪我の元や」
首を振る平次には彼は苦笑する。
手袋をすれば、平次も少しは眠れるのではないか、とも新一は言ってくれているのだ。連続の徹夜は覚悟の上だ。だいたい昼食の後、夕食までまとまった睡眠時間が取れているのだから、体力的にもきつくない。
「わかったよ」
ベッドに腰掛け、新一が薬瓶に手を伸ばす。取り出したカプセルを無造作に口に放り込んで、コップの水で流し込む。
平次は昨夜同様、息を詰めてその光景を見ていた。
「おまえが緊張するなって」
笑う新一の頭を平次は小突いた。
「やかまし」
新一は更に笑いながら、ベッドに潜り込んだ。
平次もその横に入ろうとして、声を上げた。
「あかん。本、置いて来てしもうたわ」
今夜読もうとしていた本を書斎に置いたままだ。
「取って来いよ。ついでにこれキッチンに戻して置いてくれ」
新一が空になったグラスを指す。
平次はそれを手に部屋を出た。
本を三冊抱えて、平次は新一の部屋に戻った。書斎に入ったら、用意していたのとは別の本に目が止まって、少し時間を食ってしまった。
開け放したままだった扉をくぐりながら、平次はベッドの新一に目をやった。
「工藤」
遅なったと言いかけた言葉が口の中で凍る。
眠りかけていた新一が、平次を認めて微笑んだのだ。
とろけるような笑みを向けられて、平次の時間が止まった。
笑みの余韻を残したまま、新一の瞳が閉じられる。彼が眠りに落ちていく様を、平次は茫然と見つめていた。
平次を現実に引き戻してくれたのは、手から滑り落ちた本が足にあたった痛みだった。
飛び上がるほど驚いた平次は、慌てて本を拾い上げた。そっと扉を閉め、天井の灯りを落とす。部屋はベッドサイドのランプでオレンジ色を帯びる。
激しい動悸をもてあましながら、平次は忍び足でベッドに近づいた。
息を殺して覗きこんだ新一の口元には、まだ笑んでいるような気配があった。
テーブルに本を積み上げ、ベッドの端に腰掛ける。
平次は長いため息をついた。
――なんやねん。
新一の寝顔を見やる。
動悸はまだ収まらない。
せっかく持ってきた本を開く気にもなれない。
平次は苛々と髪を掻き上げた。
眠らないのではなく、眠れない夜になりそうな気がした。
ベッドに腰掛け、平次は新一の力の抜けた手を取り上げた。
寝入って二時間。爪はもうだいぶ伸びている。
まず親指をそっと握って、慎重に爪を切ってゆく。やはり慣れないニッパー型は使いにくい。それでも切れ味だけは昨夜の爪切りの比ではなかった。
新一が身じろぎをする。
平次は手を止めて、彼の様子を窺った。そう簡単に目覚めないことはわかっているが、やはり気になる。
しばらく寝顔を眺めて、また作業に戻る。
暗いオレンジ色に照らされた部屋。
聞こえてくるのは新一の寝息。
状況は昨夜と変わらない。
なのに、と平次は考える。
すっかりなにかが変わってしまったような気がする。
あの笑顔のせいだ。
思い出すだけで心臓が騒ぐ。
深爪しかけて平次は慌てて手を止めた。
新一の表情を確認して、小さくため息をつく。痛みはなかったようだ。
平次は一度硬く目を瞑ると、爪切りに集中した。
目を開けると、平次の顔が見えた。
にっと彼は笑う。
新一もそれに笑顔を返した。
彼はやはり徹夜をしたようだ。
「おはようさん。工藤」
「おはよう」
あくび混じりに答えて、新一はベッドの上に身体を起こした。長く伸びた髪が頬を滑り落ちる。視界を遮る前髪をかき上げて、新一は大きく伸びをした。
「爪切り、サンキュ。やっぱり使いにくかったか?」
「初めはな。ちょお深爪しかけてもうた」
平次がすまなそうに言う。
新一は自分の指先を見てみたが、別にどうということはない。
「次切るときには治っとるように見えたんやけど、どうや?」
「大丈夫だ。深爪したって言われても、わからねぇよ」
新一は笑ってベッドから降りようとした。
床に足が届く。
先にベッドから出ていた平次がそれを見て、声を上げた。
「めっちゃ順調やなぁ」
新一は床に立って平次を見上げた。
彼は横に来て、新一の頭に手のひらを置いた。それをその高さのまま自分の身体に当てる。彼の胸の辺りに手がきた。
「あと三回寝れば、追いつくぞ」
新一は腕を伸ばした。平次の頭に手が届く。軽く小突いてやると彼は「せやな」とまぶしそうに笑った。