春の宵闇 -4-




 難しい顔をして、平次が散髪はさみを操っている。
 苦闘する彼を新一は苦笑しながら眺めていた。
 ふたりがいるのは洗面所。シャワーを浴び、朝食を終えて、伸びた髪が鬱陶しかった新一は、彼に頼み込んで切って貰うことにしたのだ。床に敷いた新聞紙の上に立つ新一は、カットクロス代わりにレインコートを着ている。その下は高校のジャージだ。腕をたくし上げ、ズボンの裾をまくり上げて着ている。昼間はジャージ、夜はスエット。どちらにしても元の大きさに成長するまで、袖や裾が邪魔になる。

「適当でいいんだぜ」
 鏡に映る平次に言う。
 彼はちらっと新一を見て、情けなさそうに笑った。
「おまえにプロの技は求めてねぇよ」
 髪の毛はとりあえず短くなった。耳の辺りの左右の長さが違ったり、襟足の辺りが変な感じもするが、どうせまた夜になれば伸びるのだ。最終日にプロに任せて切って貰えばいいのだから、現状がどうでもあまり気にはしない。

「外には出られないんだし、誰かに会うこともない」
 短くなっていればいい、といっても彼の表情は晴れない。
「そやけど」
 平次は散髪はさみを片手にため息をつく。
 自分の後ろ頭に手をやって、新一は苦笑した。笑うしかない状況が、手触りだけでわかる。
「ま、初めてなんだからしょうがない」
 新一は軽く頭を振って、切られた髪を振り落とした。レインコートをそっと脱ぎ、散らばる髪を避けて新聞紙の上からどく。平次が新聞紙を片づけるのを横目に見ながら、新一はもう一度髪に触れた。

 平次の触れた感触は、心地よかった。
 まるで壊れでものでも扱うように、そっと髪にくぐらせた指のもたらす優しい感触。注がれる真剣な眼差し。息をつめて散髪している彼の横顔は、新一の心を躍らせた。髪型などこの際どうでもいい。想う相手が自分のためにしてくれたことが嬉しかった。

「やっぱ変やろ」
「別に良いって。すっきりしたし」
 新一は平次を見上げ、笑った。
「サンキュ。助かったぜ」
 平次もようやく笑顔を見せた。
「明日はもっとちゃんと切るさかいな」
 彼はリベンジを誓う。
 頼むぜ、と答えた新一の腹の虫が突然鳴いた。

 ふたりは顔を見合わせた。
 朝食を食べてすぐに髪を切り始めたのだ。いくら平次が苦戦したとはいえ、たいした時間はかかっていない。昼食までまだ二時間はある。
「腹、もう減ったんか」
 丸めた新聞紙を抱えて平次が呆れる。
 新一は両手で腹を押さえて、曖昧に頷いた。
「なんでだろ。すげー減っているかも」
 腹の虫が鳴くまでは気づかなかったが、猛烈に食欲が出てきた。おやつのような軽めのものではなく、しっかりとした食事がしたい。

「朝、少なかったんか」
 コーヒーにトースト、ベーコンエッグ。野菜と果物はなかったが、量はしっかりあった。食べ終えたときには満足したというのに。
 首を振って、新一は平次を促して洗面所を出た。
「飯は炊かないとなかったよな」
「菓子やと物足りんほど腹が減っとるんか」
「そうなんだよ。なんか適当に作ってくれ。インスタントラーメンでもいいからさ」
 自覚したせいなのか、腹の虫が盛んに鳴く。
 平次にも聞こえるのか、苦笑しながら彼は新一を見やる。

「今の工藤は育ち盛りやし、インスタントもんはやめとこうや。とにかく手早く作れそうなもん、キッチンで探そうな」
 まず、これの始末をしてからや。
 平次が抱えた新聞紙を見下ろす。
 新一は燃えるゴミの日はいつだったかと首を傾げた。





 哀の感慨深げな視線に晒されながら、新一はカルボナーラを食べていた。インスタント物はやめておこうと言いながら、結局パスタソースはレトルトだ。
 平次は阿笠博士と共に食料の買い出しに行っている。今ある分だけでは異常に食欲を増した新一の口をまかなえないからだ。手軽に調理できる半加工品も買ってくると、平次は出かけていった。その間に新一は哀に経過報告をすることにしたのだ。

 キッチンテーブルの向かいに座る哀が口を開いた。
「爪と髪が伸びて、食欲がやたらとある、というわけね」
 カルボナーラを頬張ったまま、新一は頷いた。被っていた平次の帽子がすべって視界を遮る。つばを持ち上げると、哀と目があった。なにか言いたげな視線には気づかない振りをする。
「予想外か?」
「そうね。これまで元の身体に戻ったときには起きなかった現象だから。でも意外ではないかも知れないわ。あなたは早回しで成長しているのだから、爪や髪は当然伸びるでしょうし。食欲も夜の成長に必要なエネルギーの補給なのでしょうね」

 哀が改まって聞いた。
「成長する際にはなにも起きなかったの?」
「なにも」
 新一は頷いて、ごちそうさまと手を合わせた。
「服部もなにも言っていなかったから、別にうなされたりしてなかったみたいだぜ。夢も見ないほどぐっすり眠れた」
 そこまで報告して、新一は思いだした。

「おまえ、薬の中に睡眠薬かなにか入れたな」
「導入剤を少しね。眠ってくれないことには成長速度に影響が出てしまうと思ったから」
 効いたのと聞く彼女に、新一はため息をついた。
「本当に少しかよ。すっげー効き目だったぞ」
 平次の腕の中で眠りについた。ぬくもりはまだ覚えている。
 思い出すと頬が熱くなりそうだ。
「よく眠れたのなら良かったわ」
 哀に反省の色はない。

「まぁな。だから、今夜はおまえもゆっくり寝ろよ」
 彼女の目の下にはうっすらとクマができている。
 平次同様彼女もまた徹夜したのかも知れなかった。
 哀は軽く顔をしかめた。ついと視線を外す。
 まずいことを指摘したかと、新一が思ったとき反撃が来た。
「髪の毛、今夜もまた伸びるのだから、切って貰うことはなかったんじゃないの」
 虎刈りにでもされた? と彼女は斜に構えて言う。
 新一は帽子を手で押さえた。人に会うにはひどい髪型だからと、平次が被せて行ったのだ。

「鬱陶しかったんだよ」
「あら、髪を伸ばしたままにしておけば、誰かに見つかったときに言い訳が出来たかも知れないわよ。知り合いの女の子ですって言い張ればいいわ」
 誰も長髪のあなたを想像していないだろうから。
 意趣返しだろう。いたずらっぽく哀が笑う。
 新一は冗談じゃねぇとそっぽを向いた。
 くすくすと哀が肩を揺らす。

 玄関チャイムの音がした。
 平次と阿笠博士が戻ったようだ。
 荷物を受け取りに行く哀を新一は追った。横に並ぶと、自分がどれだけ成長したのかがよくわかる。頭半分以上彼女より背が高くなった。昨日までほぼ同じ身長だったのに。
「灰原」
 哀が新一を見上げる。

「おまえの作った薬は、大丈夫だ。だからあんまり心配すんな」
 笑ってみせると、彼女は瞳の色を険しくした。
「油断はしないで。少しでも体調が悪いようなら、すぐに呼んで。爪も髪も食欲も予想外だったのよ。他になにが起こるか、わからないわ」
 新一が頷くと彼女は愁眉を開く。
 それと同時に勢いよく玄関が開いて、平次の明るい声が飛び込んできた。



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