春の宵闇 -2-
ぶかぶかのスエットに身を包んだ新一が、リビングのソファに腰掛けている。床に届いていない足の先は、やはり長すぎるズボンの裾に隠れて見えない。
平次は水の入ったグラスを彼の前に置いた。
横にはあの薬の瓶。
「しかしほんま、けったいな格好やな」
風呂上がりの濡れた髪のまま新一が平次を見上げる。
「しかたがないだろ。どのぐらい成長するか、わからないんだからさ」
高校生の姿の頃に使っていたパジャマ代わりのスエットを、彼は子供の身体で着ているのだ。当然、恐ろしく大きい。下着だけは阿笠博士が成長を予測して各サイズを買いそろえたらしいが、パジャマについてはしなかったらしい。
新一が無造作に薬瓶を取り上げる。小さな手のひらに、カプセルを一錠乗せた。
「夕飯から時間経っとるし、胃になんか入れたりせんでもええんか」
「空腹時に飲むなとは言われてない。だいたいこの姿にされたときだって突然だったわけだし」
真顔で答える新一の頭を平次は小突いた。
「当たり前やろ」
あのとき彼は、襲われて無理矢理毒薬を飲まされたのだ。
「殺す方が、相手の胃の具合まで心配するかい」
突っ込む平次に、新一が笑う。
「とにかく、寝る前に飲めばいいんだ。寝るにはまだちょっと早いけど、飲んだって良いだろ」
なにが起きるかわからないから。
真剣な目で見上げられて、平次も頷いた。
真夜中に異変が起きるよりは、人の活動している時間の方がいくらかましだ。
「飲むぞ」
新一がカプセルをつまみ上げ、口の中に放り込んだ。
グラスの水で飲み下す。
彼の横顔を平次は息をつめて見つめた。
新一がテーブルにグラスを戻す。
「なんともないん?」
「ばーろ。カプセルがそんなに早く溶けるかよ」
袖に隠れた拳で、新一が平次を軽く殴る振りをする。
「そらそうなんやけどな」
工藤新一の姿をした彼の苦しむ姿が、どうしても脳裏をよぎる。
身体の大きさを薬で無理矢理に変えるのだ。
苦痛を伴わないわけがないと平次は思う。
その心配が表情に出ていたのだろう。今度は本当に彼の拳が脇腹に入った。
「大丈夫だって」
「けどな」
「結構心配性なんだな、おまえ」
似合わないと言われて、平次は彼の頭を両手でかき回した。あっという間に濡れた髪がめちゃくちゃになる。
「うわ、やめろ」
「やかましい。心配なもんは、心配なんや。おまえが飲まされたんは、毒やで。その解毒薬かて、やっぱ強力なもんやろうが。そんなもん飲んで……」
平次は言葉を切った。
攻防する腕の影から新一の目が見えたのだ。
それは思いがけず切ない色をしていた。
固まった平次の腕を新一が払う。
現れた彼の顔はいつも通りだった。
「なにしやがる」
振り上げた彼の、余ったスエットの袖が、平次の顔を打った。
「あ、悪い」
「かまへんて」
平次は探るように新一を見た。
だが、やはり切ない色はどこにもない。
「なんだよ」
見間違えかと首をひねる平次を怪訝な顔で新一が見ている。
「なんでもないわ。とりあえず薬も飲んだことやし、寝るか」
「まだ早いって。眠れねぇよ、こんな時間じゃ」
普段彼が寝るのは日付が変わる直前らしい。それまでまだ二時間以上ある。
「そらまぁなぁ。コーヒー……とかは、薬の後やし飲まんほうがええやろから、眠くなるまで本でも読んどるか」
「コーヒー飲んでからにしとけばよかったな」
新一がぼやく。
平次はその頭をぽんと叩いて、立ち上がった。
「ホットミルクぐらいなら作ったるで」
空になったグラスを持ってキッチンに向かう。
「どうせ飲むなら、コーヒーがいい」
あかんと答えると、新一がつまらなそうな顔をする。
平次はグラスを洗いながら、リビングに声を掛けた。
「普通、薬とカフェインがあかんのやろ。せやったらノンカフェインのインスタントコーヒーならいけるんちゃうか」
返事は聞こえない。
「ホットミルク飲むんやったら、ご相伴させてもらうで」
目の前でコーヒーを飲むほど鬼ではない。
「なぁ、どうする? ほんまに飲む?」
手を拭いた平次はリビングを覗き、息を飲んだ。
新一がぐったりとソファにもたれ掛かっていたのだ。
「工藤!」
叫んで駆け寄った平次に、新一が小さく笑った。
「なんか、急に、眠くなって」
彼の身体がずるずるとソファの背をすべる。
平次はとっさにその身体を支えた。
腕の中に新一が倒れ込んでくる。
「灰原の奴、睡眠薬、入れやがったな」
ぼやけた声で忌々しげに彼は呟く。
「おい、工藤。ただ眠いだけなんか。具合は悪くないんか」
哀を呼ぼうかと言った平次に、彼は首を振る。
平次を見上げて、新一がささやいた。
「悪い。ベッドに……」
語尾が口の中に消えて、彼はとうとう目を閉じた。
「くどう?」
平次はそっと声を掛けた。
反応はもうない。
「早く効き過ぎちゃうんか」
飲んでからまだ三十分も経っていない。
平次は彼の寝顔をじっと見つめた。
心配していた苦しげな様子はない。顔色もよく、寝息も穏やかだ。抱き寄せて胸に耳を当てる。鼓動も正常。
安堵の吐息をついて、平次はだぶだぶのスエットに包まれた小さな身体を抱き上げた。
リビングもキッチンも片づいている。
平次は彼を片腕に抱いたまま、灯りを消して二階の新一の部屋に向かった。
ベッドサイドの灯りだけを頼りに平次はベッドに新一を寝かせた。肩まで新一に布団を掛けてやり、平次はベッドに腰掛けた。
屈み込んで、もう一度彼の様子を確かめる。
シェード越しの淡い光に照らされた彼は、先ほどと変わらず穏やかに眠っているように見えた。
「さて、こっからが本番ちゅうことやな」
これから彼の身体は尋常ではない早さで成長する。
そして、その変化の最中に異常が起きるかも知れないのだ。
新一は眠ってもいいと言っていたが、平次にその気はなかった。
少なくとも初日の今夜は眠る気になれない。
横になってしまうと眠気に襲われるかも知れないと、平次はベッドの腰掛けたまま新一から借りた本に手を伸ばした。
眠る新一を横目に見ながら、平次は読書にいそしんでいた。その傍ら、新一がしょっちゅう寝返りを打ってはねのけてしまう布団を直してやっていた。
本を一冊読み終え、平次はまた彼の布団を直そうとして、手を止めた。
彼の様子が違う。
一瞬平次は、どきりとしたが、よくよく彼を見つめて息を吐き出した。
新一の髪の毛が伸びていたのだ。
おかげで印象が違う。
平次は小さく笑った。
「そら、成長しとるんやもんな」
髪ぐらい伸びるわ、とつぶやきかけて、気が付く。
もしかして、と布団をめくって袖の中にすっかり隠れている新一の手を引き出す。
爪が伸びていた。
もうすでに緩やかなカーブを描くほど伸びている。何かに引っかけでもしたら、生爪を剥がすことにもなりかねない。
「こら、あかんわ」
平次は慌ててベッドから立ち上がった。
『本当に何かあったときには、役に立たないだろうけど』と見せられた薬箱の中に、小さな爪切りが入っていたような気がする。
平次は急いでそれを取りに部屋を出た。