春の宵闇 -1-



 小さなガラス瓶の中に、白いカプセルが入っている。
 コナンはそれをテーブルの上から取り上げた。
 顔に近づけてつくづくと見る。カプセルは五つ。
「理論上の完成品よ」
 瓶の向こう側で哀が言う。

 小学校はそろそろ春休みに入ろうかという暖かい日に、コナンは彼女に阿笠邸に誘われた。黒の組織が消滅して数ヶ月。笑顔が増えていた哀の真剣な目に、コナンは彼女の話の内容を覚った。出来たのか? と聞いたコナンに、彼女は小さく頷いたのだ。

「なんで五個もあるんだ」
「少しずつ戻る方法の方が、身体にかかる負担が少ないことがわかったの」
 一晩に約二歳ずつの成長が、成長速度の割には負担が少ないと彼女は言う。
「もっとも成長ホルモンが分泌されるのは睡眠中でしょう。だから夜寝る前に服用して、身体本来のメカニズムも利用しながら、成長を促進させることにしたわけ」
「なるべく自然にということか」
 哀は少し笑う。
「リスクは高いわよ。生体検査をしていないから」
「それはいつものことだろ」
 礼を言って瓶を掴み、コナンはソファから立ち上がった。

 コナンが玄関で靴を履いていると、哀が追いかけてきた。
「ちょっと待って」
「なんだよ」
「言い忘れたことがあるわ」
 彼女の言い出したことに、コナンは眉間に皺を刻んだ。





 その夜、コナンはまず両親に連絡を入れた。コナンの親になりすまし、毛利家に息子を引き取ると伝えて貰うためだ。
 そして、もう一件電話を掛けた。
「よう、服部」
「工藤。どないした。珍しく電話なんぞしてきおって」
 夜遅いというのに、平次の声は元気だった。
 久しぶりに聞く関西弁が耳に心地よい。
 誰もいない毛利探偵事務所で、コナンはこっそりと笑った。

「悪いけど、春休みに入ったら、一週間ほどこっちに来てくれないか。出来れば入ってすぐがいいんだけど」
「いきなりなんやい。殺人の予告状でも来たんか」
 探偵らしい発想にコナンは笑った。
「そんなんじゃねぇよ。どうしても用事があるって言うならしょうがないけど、ないなら来てくれ」
「別にええよ。たいした用事は入っとらんし。で、なんやねん。工藤の用事ちゅうのは」
「薬が出来たんだ」

 一瞬、平次が沈黙した。
「薬、て。まさか元に戻れるんか、工藤!」
 平次の声が跳ね上がる。
「良かったなぁ。したら、新学期からは高校に通うんやな。おめでとさん。行く行く。顔、見に行ったる。めっちゃ久々やなぁ、おっきい工藤に会うんは。なんなら、バイクで行こか。ぱーっと気晴らしもしたいやろ」
 嬉しそうに平次がまくし立てる。
「おい、ちょっと待て」
 コナンは慌てて彼の暴走を止めた。
「なんやねん。戻れるっちゅう話ちゃうんか?」
「いや、確かに出来た薬は戻るための物なんだけどさ」
 そんなら、と言いかける彼を押さえ込むように、コナンは言葉を続けた。
「今回、一気に元の姿に戻るわけじゃないんだ」
 コナンは哀から受けた説明を平次にした。

 ふうん、と平次が唸る。
「薬は五つか。戻るまで五日間かかるわけやな」
「そうなんだ。身体が変化するのは寝ている間。眠っているときに、もしかすると何かあるかも知れないから、誰かに付き添ってもらえと言われているんだよ」
「そんで、俺に付き添いをやれゆうわけか」
 ため息混じりに彼が言う。
「他に頼める奴がいないんだよ。コナンの正体を知っていて、夜ずっと一緒にいれる奴なんて、おまえ以外にいないだろ」
 事情をよく知っていて、徹夜も平気な男。
 それ以上の理由もコナンにはあったが、それを彼に伝える気はない。

「ま、しゃあない。工藤の頼みや。聞いたるわ」
「サンキュ。頼むぜ」
 平次の笑った気配がした。
「俺はどう動いたらええんや」
「春休みに入ったら、コナンは親に引き取られて海外に行くことになる。表向きはな。実際は、こっそり実家に戻る。だから、おまえの都合が付いたら、すぐにでも来てくれ」
「わかった。高校が休みになったら行くわ」
「俺の家に泊まるとは言うなよ。博士の家にいるとでも言ってくれ。俺の家に誰か訪ねてこられると困るからな」
「任しとき。上手く言って出てくるわ」
 よろしく頼む、といって、コナンは電話を切った。

 平次の声が消えて、探偵事務所に静寂が戻る。
 コナンはソファに身体を投げ出した。
 暗い天井に手をかざす。
 小さな手を見ながらコナンは呟いた。
「やっと」
 本来の姿に戻れる。
 高校生の工藤新一に。
 元の生活に。

 だが、すべてが元通りとはいかない。
 初恋の相手には、もう年上の恋人がいる。
 そして自分もまた別に恋しい相手がいる。
 コナンは手を下ろし、携帯電話を見つめた。
 いつからか、親友のことが気にかかるようになった。
 蘭が他の男に惹かれていくのを本気で引き留められなかったのも、平次の存在があったからだ。
 どうして彼だったのか。
 後付の理由ならいくらでも思いつく。
 共に組織と戦った頼れる相棒だから。
 推理の過程を説明する必要のない相手だから。
 嘘のいらない、秘密を共有する相手だから。
 全部本当で、しかし正解ではない。
 ただ、心の底から求める相手。
 それが平次だったというだけだ。

 彼の上京と共に、一週間の同居が始まる。
 元の姿に戻るのに苦痛が伴うということは、経験上わかっている。だから、薬を飲むには覚悟と気合いが必要だ。それでも平次がいてくれるのなら、安心して苦しめるというものだ。なにが起きても彼ならどうにかしてくれるだろう。
 寝室にこっそり戻るために、コナンはソファから飛び降りた。





 平次は目の前のテーブルに置かれていた瓶を取り上げた。
 話に聞いていた通り、カプセルが五つ入っている。
「今晩から飲むからな」
 新一がトレイにコーヒーカップを乗せて、キッチンから出てきた。小学校が春休みに入ってから彼は工藤邸で暮らしている。もう江戸川コナンは日本にはいない。ここにいるのは復活を控えた工藤新一だ。

 高校が春休みに入った翌日、平次は約束通り上京してきた。
 新幹線の車内で昼食をすまし、工藤邸に着いたのは昼下がり。外から見た工藤邸に人の住んでいる気配はなく、平次は新一の在宅を疑ったものだ。実際のところ、本当にこっそり住んでいたらしい。彼曰く、成長途中の姿を人に見られたくないのだそうだ。確かに誰かに見つかったら、言い訳に苦労しそうだと平次は思った。

 平次は新一からカップを受け取った。
 彼は平次の隣に腰を下ろした。
「今夜、俺は徹夜ゆうことか」
「別に無理に起きていなくてもいい。隣で寝といてくれれば、異変に気づくだろ。俺もおかしいと思ったら、すぐおまえを起こすし」
「一緒のベッドに寝るんか」
 狭いんちゃうかと言った平次を彼は笑う。
「大丈夫だろ。俺のベッドはシングルじゃねぇし。だいたい今はこの通り子供なんだからさ」
 新一は平次に両手を広げてみせる。
「そら、今はそうやけど、成長するやんか」
「大丈夫だって。男ふたりが寝たって、平気な広さはあるから」
 平次の心配をまったく取り合わずに、新一はコーヒーを飲む。

 平次も熱いコーヒーをすすった。
 どうしてもテーブルに置かれた薬に目がいく。
「ほんまに平気なんやろな」
 本当はベッドの広さなど問題ではない。
 一番の気がかりは、新一の身体のことだ。
 平次の知る高校生の姿の新一は、いつも具合が悪そうだった。今回もまた彼は苦しむのではないだろうか。

「たぶんな。死ぬことはないだろ」
「あほ」
 平次は彼の頭を小突いた。
 痛いと新一が頭を押さえる。
「冗談でもそないなことゆうなや」
 新一が平次を見上げる。眼鏡のない子供の顔は、平次の知る高校生の顔だ。幼いと呼べる年齢にそぐわない目は、精神年齢を如実に表す。
「心配するな。灰原は信用できる。俺の運も強い。工藤新一に戻るぜ、俺は」
「その格好でも工藤は工藤や」
 平次が言い切ると、新一が目を細めて笑った。
「それでも、俺は飲む」
「わかっとるよ。それが工藤やもんな」
「そうだよ。それが俺だ」
 新一は平次を見てにっと強気に笑んだ。



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