♪あんだんて♪レポート

講演 『その子にあった出会いを求めて
              ―不登校を考えるー』(前半)
講師: 高岡健氏 (岐阜大医学部助教授・精神科医)
11月11日(土)
大阪YMCA国際専門学校
高等課程 
表現・コミュニケーション学科
  
 話は最近続けて起こっている、いじめによる青少年の自殺についての話から始まった。「子どもたちが命をかけて訴えているものは何なのか?」。

いじめは学校だけでなく、職場などでもよく起こっているが、いじめの起こる条件は次の3つがそろうことだ。
(1)集団が閉じられていて、出入りが自由ではない。(閉鎖的集団)
(2)集団の価値観が今の日本の社会の価値観とかけ離れている。
(3)集団の勢いが落ちてきている時、解散しないで集団を維持するために一人を犠牲にして集団が団結する。(子どもの虐待も同じ。子どもが「ぼくが殴られている時は、お父さんとお母さんの仲がいい」「ぼくが殴られているときだけ、お母さんとおばあちゃんは仲がいい」と子どもが思っていることが多い) 

 学校というところは、この3つの条件を備えているところが大半だ。
(1)小、中学校を通してある地域に住んでいたら、自動的に同じようなメンバーでクラス集団がつくられる。地域的にも閉鎖的で、学校の先生は一生を学校の中で過ごしている。
(2)日本の学校教育システムは、明治から一貫して工業生産のために作られてきている。たとえば、「整列すること」など皆が一斉に同じ動作をすることは、ベルトコンベヤーによる大量生産の高度経済成長期には有効だったが、今は第3次産業が中心となり、それぞれの人が自分の工夫で、自分の形で生きている。みんなと一斉にすること、平均からずれないことという発想は、もう合わなくなってきている。
(3)学校に通う目的が見えなくなっている。「学業」をとってみても、高校の教師が予備校で受験のための学業を学ばなければならない時代、高校は学業では予備校にかなわない。また、いい大学を出れば、終身雇用制のいい会社に入れた時代とは違い、進学の目標を見失っている。「部活動」にしても、地方ではそれしか高校生の楽しみがない。バスケットやバレーに本当に打ち込んでいるのかどうか疑問である。

このような学校で、いじめの最悪の結果を防ぐために、大人は「子どもには登校拒否の権利がある」と日頃から認めておくことが必要だ。不登校さえしていれば、命を落とさずにすんだ子どもがたくさんいる。ただ、前思春期から思春期の子どもは、いじめられていることを大人に伝えない。それは秘密を持つことが健全な年齢であること、いじめられる自分にも欠点があり、自分が弱いという誤った考え方を持たされていること、いじめを発見したとき「お前にも責任がある」という言われ方をすることなどの理由がある。しかしいじめの被害者には誰でもがなりうる。仮につくられた「平均」からはずれただけで、「平均」からずれることが悪いという学校文化の中では、いじめの理由になる。
だから子どもが言わなくても、いじめはあるんだという前提で「いつでも学校を拒否する権利がある」という大人の倫理を作っておき、それを伝えることが大切なのだ。

不登校はこの子にとって「かけがえのない時間、体験」であるが、大人が悪いことだと思うと、子どもにとって不登校は意義のないものになる。そのためにも大人たちが、不登校の意義を理解し、保障することが必要だ。
不登校の意義とは何か。
(1)先に述べたいじめ自殺の防止
(2)うつ病の防止
毎年3万人以上が自殺する現代。2割から5割くらいの人がうつ病といわれているのだが、うつ病に突然なるのではない。几帳面でまじめな生き方ができなくなり、壁にぶつかって発病するのだ。そんな時にいかに「クッションの時間」を提供できるのか?元気になる薬は、気分転換ではなく、徹底的に休養すること。それを世間が認識することが必要だ。その意味でも、不登校はうつ病を防止することができる。
(3)これからの人生を考えること。
1990年代のバブル崩壊以降、今までの大人のやり方をしていても未来がないこと、回り道をしないとやっていけないことに子どもたち気がついている。その回り道を認め、評価することを大人たちができるのかどうか、大人が試されている。ひきこもり・不登校の子どもたちは何もやっていないのではなく、心の内部でたくさんのことをしている。不登校は小さなひきこもり。この小さなひきこもりを認めないと、延長せざるを得なくなり、ひきこもりにつながっていく。不登校の期間を十分に過ごすことが必要だ。

ひきこもりの支援として「引き出し屋」がいるが、これは暴力によって克服するという最悪の解決方法だ。無理矢理連れて連れてこられた人は、自分たちが自立すると、今度は新しく連れてきた人に暴力をふるうという暴力の連鎖も引き起こしている。そして連れ出す過程で親子のつながりが切れてしまう。
このあたりの話は、7月にISISのシンポジウムで聞いた、芹沢俊介さんの話につながるところがある。

格差社会となり、人が生きていく中で、見通しが立たなくなってきている。親が「何を目指すか」というモデルを示せなくなってきていて、子どもが自分で考えて選んでいかなければならなくなっている。学校が閉鎖的になり、社会からずれ始めている今、小学校から大学の体型を変えていく必要があるという話を、高岡氏は突飛な発想と言いながら話されたが、とても興味あるものだった。それは学校に拘束されている時間を半分にして(午前中で終わって)、子どもたちは家庭に返す。午後からの時間は、教育に関することなら何に使ってもいい。勉強する、スポーツをする、社会活動をするなどいろいろな取り組みのできる場所を地域に作り、教師も午後からはそれぞれ自分に合った場所に行く。教師が空いた時間を他のことに活用することで、学校は開かれた空間になるのだ。これは決して突飛な発想ではないと思う。こういう学びの場ができていけば、今は学校に行かず家で育ち、学んでいる子どもたちも、自分の居場所を見つけることができるのではないか。教育再生の名の下で、いろいろな論議が行われているが、もっと大きな枠組みから変えていかなければ、本当の意味での教育を再生することはできないのではないかと思った。 (さくら)
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