♪あんだんて♪レポート

特別編

第11回登校拒否・不登校問題「全国のつどい」IN大阪
記念講演「後ずさりしながら未来へ歩む」
〜もうひとつの幸福感を考える〜

講師:庄井良信さん(北海道教育大学大学院助教授・臨床教育学)

8月26日(土)〜27(日)
箕面にて
  
 庄井良信さんは、教育現場で教師や子どもたちと長年関わってこられた経験と研究のためしばらくフィンランドでご家族と過ごされた経験をふまえて、今の日本の教育環境についていろいろな視点から話をされた。

 2005年度の不登校の子どもの数125000人、中学生は増えている。アンケート調査によると、「学校が楽しい」という小学生は約7割、中学生は約6割、高校生は半数以下という結果が出ている。「学校がいやになったこと時々、又はたまにある」のは、小学生の6割以上だという。この結果から見ると、今の子どもたちは、子ども時代を子どもらしく過ごすことが難しくなっている時代といえる。

 北海道に住むようになったとき、冬中あたり一面、どちらを向いてもどんよりと色彩の無い世界。来る日も来る日もそんな景色を見慣れた頃、ある日うっすらぼんやりと山が緑がかっているのに気づいた。劇的な変化ではなく、ふと気がつくと春がすぐそこまで来ているのに気づかされるように何かが変化していくことはよくある。
 ある教師が「前が見えないほどの猛吹雪の中で、この方向に目指すものがあると思いながら、その方向に向かってとぼとぼと、しかし凛として歩いていきます」とおっしゃったそうだ。
体中に力を入れて、歯を食いしばってがんばるやり方もあるけれど、めざす方向に向かってとぼとぼと、しかし凛として歩いていくというやりかたもあるのではないか、そしてそういう歩み方がとても大事な時代があるのかもしれないと庄井先生は言う。

 ある不登校を経験した19歳の女性は、小学校、中学校とがんばりやさんで、先生の評価も高かったが、高1の1学期半ばから心と体がつながらない、心はエンジンがフル回転しているけれど、クラッチがつながらないような感じをあじわった。それでも我慢して学校へ行っていたけれど、とうとう行けなくなってしまった。
 1年間休学し、家で過ごしていたとき、近所の農業をしているおじさんやおばさんが苦労話をしてくれた。苦労したけれども、たくましく生きている大人の姿に出会った。彼女はとても成績のよい生徒だったので、管理職をはじめ学校の先生たちは戻ってきてほしいといってくれた。1年後学校へ行ったとき、校門の前で先生たちが拍手をして迎えてくださった。そのとき「これでわが校の偏差値があがる」と言われるのを聞き、がっくりして次の日からまた行けなくなってしまったという。何も言わないでただ「1年間よくがんばったね」と1人でも言ってくれたら、学校へ戻れたかもしれないとその女性は言っていたそうだ。強さとか成績がいいとか、よくがんばるとか、それらは学校で認められるけれど、はたしてそれで本当にしあわせになれるの?と彼女は疑問をもったそうだ。

 家庭的に困難をかかえているところに、カウンセラーやソーシャルワーカー、教師などが「さあ、強くなろう!」と励ます時代があった。子どもの「強さ」を信じてのばしてあげようという時代があった。しかし、本当に「困難」を抱えている人には、励ましが届かないことがある。それ以前の大事なことが抜けているのではないだろうか。
 家庭訪問を重ねてもなにも変わらないとき、無力な自分がせつないとき、あるカウンセラーがおっしゃった。「カウンセラーにはいろんな性格の人がいていいんですよ。学校の先生だって、理想的な先生ばっかりでなくていい。」と。
 「金八先生っていいけど、先生がみんな金八先生だったらぼく疲れるなー」といった中学生がいたという。本当にだいじなのは、自分が自分の感情に正直に生きていく力、自己一致していく力ではないだろうか。自分で自分にうそをつかない先生、時には「も〜、先生しょうがないな」といわれるような先生。

 先ほどのカウンセラーが「たった一つだけ、生涯磨いていく力は、なんだと思いますか?」
と聞かれたそうだ。そして「それは、自分の弱さをいとおしむ感覚だと思う」と。
 これからの時代、この力をはぐくむのが難しい時代になっているのかもしれない。強さも弱さも受け入れるということが、難しい時代なのかもしれない。
 「受容する」というのは、なんでもかんでもふんふんと聴くだけではない。相手の内面を理解しようといろいろ想像しながら聴くのである。そうすると、その人自身が自分の心と体に相談して、おのずと答えを見つけ出すのである。聴いてもらえる安心感が大事。それがないと、いつまでもしゃべりつづけていないと不安になってしまう。「沈黙の響き」を共有してくれる友だち、黙っていてもこいつはおれのことを大事に思ってくれる、と信頼できる人間関係をもう一度つくりあげることが大切なのだと。
 学校では、成功しつづけないと「おめでとう」と言ってもらえない。失敗したときの先生の顔はどんな顔をしているだろう?

 小学校4年でフィンランドの小学校に転入した息子さんが言った。「フィンランドの学校は、空気がラクな感じ」。日本の学校では、算数がいっぱいわからなかった。わからないなと思って、先生の顔をみると先生が悲しそうな顔をする。フィンランドでは、わからないとき先生がにこにこして「わからないことがわかるって、頭いいね」って言ってくれる。日本の40人学級に比べ、フィンランドでは25人学級、クラスによっては15人くらいのところもある。日本の先生はわからない子どもに教えてやりたくても、手がまわらない現状がある。 60年代、70年代の日本でも「わからないことがわかるようになるために先生が居る」という考え方があった。
 子どもは失敗したときにそっと隣に座ってくれる人が居るだけで、安心できる。ある中学生が学校で大きな失敗をして先生も親もわかってくれなかったとき、おじいちゃんに失敗した話をしたら、おじいちゃんはだまってお茶を入れお菓子を出してくれて「う〜ん」と聴いてくれた。そして「そうか、つらかったなー」とだけ言ってくれた。それがその子の安心感になった。子どもは成功しようと思ってがんばっているけれど、がんばっても失敗することがある。失敗したときに、友だち、親、先生など周囲の人がどう向き合ってくれるかが大事なのだ。
1996年、フィンランドに居たとき、日本人の印象を現地の人にきいたら、「困ったときはお互い様の国。困った人を放っとかないんですってね。やさしいんですね。それから男性は、口数は少ないが芯が通っている。」というものだった。

 今の日本をみると、商業主義がはびこり、売れれば何でもやるという風潮。成果や効率が優先され、困ったときは「自己責任」。そのなかで「強くなければならない」という強迫感覚にとらわれている。今の中学生は、ともだちの中で「普通する」ことに疲れている。「普通する」というのは、いつも明るく元気で溌剌としていて、軽いジョークが言えること。「ぼくなんかさえないときも、しんどいときもあったよ、でも『普通』しなくちゃならないんだ」という中学生。
 先生もつらい現状がある。子どもが表情一つ変えない。教室に一歩足を踏み入れると体中が緊張する。子どもたちが首筋から肩にかけて緊張しているのがわかる。授業のはじまった1分間くらいだけがほっとする時間。だから、子どもたちは授業が終わったとたんテンションがあがり、燥状態にある。そんななかで生き抜く知恵が「明るく元気ではつらつとして、ときには軽いジョークをいう」こと。そのシャワーのなかで、その雰囲気にのれないとみんなから見放されてしまう、という感覚。

 中央審議会では、「学校力、教育力、子どもの人間力を高め・・・」というが、倒れる寸前という中学教師が多いのが現状。自分のクラスのなかで困ったとき、教師間で相談しあいたいけれど、相談したら「あなたは指導力が無い」とみなされる。「できる先生、わかる先生」をはやく育てようという意図を感じる。「強さ」指向では、心が「脅し」で動かされる。戦争の文化は「脅し」で人を動かす文化。愛国心を評価の対象にしようとするのとつながっている。子どもが自ら学び、成長するには、大人の心を自由にして子どもの思いを聴き取ることが不可欠である。
 70年代フィンランドでは、日本の教育基本法をモデルにして、教育制度が作られた。学ぶ権利を保障し、教育の機会均等により、大学院まで無償の教育が受けられるなど、教育助成が充実している。学校へ行きづらい子どもには学校外での学びを支援している。
相対評価がなく、その子が「前とくらべて〜になった。」という評価。人と比べて競争させたりしないので、「自分は自分であってだいじょうぶ」という自己肯定感が育まれるのである。
(フェルマーター)  分科会レポに続く


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