♪あんだんて♪レポート


子どもの権利条約批准10周年記念シンポジウム
「進行する子どもの選別、監視、切捨てにどう立ち向かうか」
―教育基本法「改正」と青少年育成施策大綱を考える―
8月27日(金)
日本弁護士会主催
  
 触法少年や非行の子どもたちへの厳罰化が進んでいる背景には、子どもたちの顔の見えない上層部のおとなたちが、子どたちの置かれている背景や状況を顧みることなく、処分し切り捨てていく発想があるということだった。厳罰化で一番困るのは子どもと直接かかわる現場のスタッフだと言われている。実際に触法少年と接している弁護士の方々は、その子の背景に必ずといって良いくらい不安定な親子関係、崩壊した家庭があるとおっしゃる。学校でも勉強についていけなかったり、傷つき体験をくりかえし、次第に加害者になっていくプロセスを見ておられる。この子達に必要なのはまず「人間としての尊厳」を取り戻すこと、という意見が印象に残った。そこから自分の犯した罪に正面から向き合っていくことができるのだろうと理解できた。

 シンポジウムには弁護士の他に、保護者、教師、養護教諭、在日外国人、市民活動している学生などいろいろな立場から子どもたちの置かれている教育環境を考える話がつづき、きびきびとした論旨の明快な話は聞いていて頭がすっきりして気持ちよかった。日々の活動や仕事の中でよく考えられているから伝えたいこともはっきりしているのだと思う。
 不登校の関連で言えば、東京で定時制高校が大幅に統廃合されており、京都府やその他の県と同じ流れが全国的に展開されているのだと実感した。東京では、君が代・日の丸問題で教師の大量処分がなされたり、長年養護学校の現場の教師と保護者とで研究してきた性教育が禁止されたり・・・、と子どもたちと身近にかかわる方たちが非常に息苦しい立場に立たされている状況が報告された。
 東京だけでなくその他の府県の報告からも、学校で上からの強制、管理が強まり、学校5日制の導入や教育内容の変更があいつぎ、教師も毎日の職務を消化するだけで精一杯、また長引く不況もあり親も自分の子どものことしか考えられない、といった状況下で諦めと無力感がじわじわと広がってきており、子どもたちの将来を見据えた展望をもてる議論ができなくなっているのではないか、と保護者や教師から危惧する声があがっていた。
 
 子どもの権利条約は1994年5月22日から日本国内で効力が生じたのを受けて、2年以内に(以後5年ごとに)「国連子どもの権利委員会」(以下CRCとする)に報告書を提出することになっている。CRCは条約締結国が条約に決められた義務を履行しているかどうか、進捗状況を審査する独立機関である。1998年6月に報告に基づくCRCの第1回最終見解が採択され、その後、2004年1月にも第2回目の最終見解が採択された。
 権利条約では、「権利基盤型アプローチ」と「子どもの意見の尊重」があらゆる子どもに関する法律に求められているが、このたびの最終見解では「青少年育成施策大綱」は2つの条件を満たしていないとして、「子どもと共同して」見直すよう求めている。また教育への権利について、前回も「過度に競争的な教育制度のストレスが子どもに発達障害や学校嫌いをもたらしていることの克服」などが求められていたが、状況は改善せず第2回政府報告書でも取り組みの結果が示されていなかったので、今回の最終見解では、「差別」「過度に競争的な学校制度」「いじめを含む学校における暴力」の問題につき前回の懸念と勧告を繰り返すことを確認している。
 「エリート教育」との関連で「高等教育へのアクセス」が過度の競争的な状態を起こし、私的な補習が必要で貧しい家庭の子どもの教育の機会が経済的にせばめられていることが指摘されている。その克服にあたり、カリキュラムを文科省が一方的に押し付けるのではなく、生徒、親、NGOなど(教師も含まれるでしょう)の意見を入れながらレベルの高い教育を維持しつつ学校制度の競争を緩和するようなカリキュラムの見直しを行うことが勧告されている。その背景には学力の低下が心配される「ゆとり教育」の問題や、経済格差が反映されたエリート選別教育が全ての子どもの教育への権利を保障することになっていないという懸念があると考えられる。「いじめ、体罰」などを含む学校での問題や紛争について、親と教師の連絡・協力が取りにくくなっている問題、「子どもの意見尊重」や子どもの市民的権利・表現および結社の自由に基づく「学生・生徒がキャンパス内外で行う政治的活動に対する制約」の問題が指摘されている。
 その他、マイノリティ(在日外国人など)の子どもが自己の言語で教育を受ける権利、東京都の定時制高校が閉鎖されようとしていること、偏向的な歴史教科書の問題など日本国内で子どもに関わっている人々が抱いている思いを代弁したような勧告がたくさんある。
 ここでは学校教育に関係のある部分しか紹介できないが、CRC最終見解ではそのほか児童虐待、障害のある子ども、人身売買、少年司法など多岐にわたって勧告がなされている。
 この最終見解を踏まえて政府は子どもの権利保障を前進させなければならない責任を負っているが、実施されるかどうかは市民社会からの働きかけが不可欠であると日弁連・子どもの権利委員会は述べている。
 「日本では子どもの権利保障が後退していっている流れを感じるが、自分も他人も権利を認め合う社会をめざし個人を大切にしあうこうした動きは、地球規模で見れば少数派ではない。国連の委員会はしっかり日本を見ている。」というパネラーの言葉に元気付けられた。

 憲法や人権、権利などという言葉からは冷たい感じを受けるが、自分が大切にされている、という感覚、子どもとのかかわりであったり、ひととの関わりであったり、関係性をどう作っていくかということが大事なんだということだ。いじめの問題にしても、被害者の側にきちんと立ち、被害の回復を図らなければならないが、いじめる子どもたちが抱えているストレスや苦しみを理解し解決していかなければ、根本的な解決にならない。それには、担任の先生一人ではできない。担任以外の先生や、保護者、子どもたちの力も必要であろうし、スクールカウンセラーのできる役割もあるだろう。虐待など家庭の問題が絡んでいる場合は、児童相談所など行政と連携した家庭支援も必要である。警察の関与に関しては、少年法の改正以来、:子どもに対する厳しい姿勢で臨む傾向にあり、子どもへの配慮がなくなってきていることを懸念している。厳罰化の背景には子どもの「実像」がみえない人の議論がある。学校現場への警察の関与は、相互の連携ではなく組織化してしまう危険性があり、ネットワークの良さが失われてしまいかねないということだ。情報公開し、市民のチェックができるかどうかがカギになるだろう。
 国家から見ると、どんな人間形成をしていくか(国家に役立つ人間)という観点から教育プログラムを作るが、そこから落ちこぼれた子どもたちをどうしていくか、という考え方がある。しかし、子どもの権利という視点で見ると、多様な子どもたちがいるから当然多様な進路があってしかるべきだ。もし、国家の教育プログラムが国家の発展を保障できないほど大きくはずれたときには、だれが保障するのだろうか?そのような場合、国家のプログラムではない自由な教育を受けただれかが、動かしていけばいいのではないか。こういう教育観を聞き、不登校の子どもたちは、個人を尊重する社会をつくっていけるのではないかと希望をもたせてもらった。





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