声優オタクの特殊事情

はじめに

 「オタクにおけるラジオ文化について」で、声優論をやると書いてしまったので、やらねばならない。ついでにいわゆるアイドルオタクとプロレスオタクにたいして(少なくとも私が)感じる親近感と違和感の源を考えてみる。
 最初に本稿の方針を簡単にまとめておこう。
 妄想からオタク的な営みを考える、という基本図式は崩さない。すなわち、声優はキャラクターであり妄想の対象である、という観点から考えていく。
 さて、声優についてオタクすることには、他の場合にはみられない独特のイタさの感覚がつきまとう。
 たとえば、今現役でオタクであっても、高校時代に國府田マリ子と林原めぐみのラジオにハガキ書いていた過去には正面から向き合えていなかったりすることがある。(私の友人の実話である。)これは、声優についての妄想に特殊な事情があることを示唆する。
 つまり、このイタさを妄想中心主義から説明することが課題となる。
 ちなみに、私の立場からすると「何々オタク」という表現はそもそも不正確なのだが、表題では使用してしまっている。たんなる便宜上の省略表現なので気にしないでいただきたい。

本稿における「イタさ」の位置づけ

 本題に入る前に、本稿での「イタさ」概念の扱いについて、簡単に注意をしておきたい。
 そもそも私はこの語があまり好きではない。とくにオタクがオタクにたいしてこの語を発する場合はなおさらだ。オタクであればそれだけで誰でも十二分にイタいのだ。そのあたりに無自覚に他者をイタいだのなんだのと攻撃する態度には、とうてい好感をもてるものではない。
 さらに、結論から言えば、私は「声優オタク特有のイタさ」は基本的には仮象であると考えている。本当はとりたてて騒ぎ立てるべきイタさなどないにもかかわらず、イタさが錯覚されてしまっているだけなのである。
 しかし、このことは問題の不在を意味しない。逆だ。
 なぜ、とりわけ声優を巡る場面でイタさの錯覚が起きやすいのか、これを考察しなければならないのである。

「アイドル」というキャラクター

 声優を考える前に、「アイドル」について考えておきたい。
 基本的にオタク的妄想の対象となるのは、虚構の物語のなかに存するキャラクターである。つまり、多くのキャラクターは虚構の存在である。
 時には実在の人物が妄想の対象になることもある。ただし、多くの場合、それは過去の人物である。歴史上の人物は、歴史の物語のなかにのみ存在する。そのため、虚構の物語のなかのキャラクターと同様の扱いをすることがしやすいわけだ。
 一方、現在も生きて生活している人間の場合は事情が異なる。彼なり彼女なりは、現在進行形で行為しているわけだから、彼ら彼女らについて何らかの物語が与えられたとしても、それはすぐに乗り越えられてしまうだろう。これではオタク的な妄想は上手く働くことができない。現在の実在の人物は、原理的に妄想の対象にはなりにくいのである。
 ところが、例外がある。同時代の実在の人物であるにもかかわらず、物語を媒介にしてしか我々がその情報を得ることしかできない存在がある。
 それがすなわち「アイドル」やら「タレント」やらである。
 「アイドル」「タレント」と括弧をつけているのは、少々意味が広いからだ。いわゆる芸能人やアイドルはもちろん、プロレスラーやら政治屋やらもここに入ってくる。「タレントなになに」と呼ばれるような人々はすべてそうだ。また、たとえば差別の現場など、他人をステロタイプな人物像に押し込めて理解しようとするような場面でも似たようなことが起きているのかもしれない。が、生臭い問題は扱いたくないので、気がつかなかったふりをする。
 以下、面倒くさいので「アイドル」で代表させよう。

「アイドル」の特殊性

 この「アイドル」もキャラクターであるからして、オタク的な妄想の対象になりうる。このあたりは説明は不要だろう。漫画やアニメのキャラクターと同様、「アイドル」も創造の産物である。妄想することになんらの障害もない。
 ただし、「アイドル」には独特の事情がある。「アイドル」は虚構の存在であるにもかかわらず、我々はそれが虚構であることを忘れて妄想しなければならないのである。
 漫画やアニメのキャラクターはそもそも存在しない。すべてが虚構である。虚構のサイクロンが、時速400キロで走るという虚構の記述をうけたとしても、ここに問題はない。
 一方、たしかに「アイドル」の属性や規定は、物語られたものであるがゆえに、ホントかウソかわからないものだが、「アイドル」そのものは実在している。存在そのものは虚構ではない。この場合、オタクが妄想するためには、とにかく一旦「実際にそうだ」と思い込むことから出発しなければならないと思われる。
 アイドルには男がいないということになっていたら、本当にそうだと思わなければならない。プロレスラーは最強だということになっていたら、本当にそうだと思わなければならない。そこを「こんなの嘘だろ」と切り捨ててしまったら、そこで終わってしまう。なにも始まらない。面白くない。
 つまり、「アイドル」について妄想する場合には、現実と虚構の間の境界線を積極的に混同していかなければ上手くいかないのである。
 このあたりに、アイドルやプロレスについてオタクであることの独特の事情が存するように思われる。「オタク道」で、虚構を虚構として楽しむのがオタクである、と定式化したが、「アイドル」にかんしてだけは、この基本原則が通用しない。とにかくノアはガチなのだ。

「アイドル」とイタさ

 さて、このような「アイドル」妄想には、問題にすべきイタさは存在しない。もちろん一般人から見ればイタいのかもしれない。しかし、そのイタさは、趣味の楽しみのためにあえて選び取ったイタさである。それを批判するのはピント外れだ。
 事情をよく知らない人間にとって、「アイドル」に執着する立場は未熟さゆえに虚構を現実と混同するイタいものに見えてしまう。しかし、それは端的に間違いだ。「アイドル」を扱う面白さを十全に楽しむためには、我々はあえて虚構を現実と混同しなければならないのだ。この混同は未熟さに由来するのではなく、成熟した趣味の到達点にあるものである。
 それを理解せずに「アイドルなんて実はアレでナニなんだぜ」とか言ってしたり顔をしてしまうのは、あまりにもナイーヴな態度である。もしくは、屈折した辛口や毒舌をとにかく知的で格好よいことだと思い込む、いわゆる中二病である。

「アイドル」としての声優の特殊性

 さて、声優だ。声優については、これまで「アイドル」について述べてきたことがそのまま当てはまる。
 古参のアニオタのなかには、「声優はあくまで演技」として、「アイドル」としての含意を否定する立場も見かける。しかし、これはいささか禁欲的にすぎる態度だろう。事実問題として、声優が「アイドル」であることは認めざるをえないだろう。
 そして、声優においては、以下の理由のために、事情はより複雑になっている。
 そもそも、声優を云々する連中のほぼすべては、アニメやらゲームやらも扱うオタクだろう。声優だけを扱うオタクなどありえない。そして、これまで述べてきたように、典型的なオタク的領域では、虚構は虚構として受容される。虚構だからこそ面白い、というのが通常の態度なのだ。
 つまり、声優オタクは、オタクであるかぎり、「アイドル」としての声優の虚構性について敏感であらざるをえないのである。
 他方、声優には「声優は本格的なアイドルではないので我々との距離が近く、欺瞞や虚飾も少ないはずだ」という物語がしばしば付帯する。これが、メジャーな領域で活動する普通のアイドルにはない、声優ならではの面白みを生んでいる。
 しかし、これは言わば、我々が「ここに嘘はありません」という嘘を信じこまなければならないことを意味する。ある意味では、声優オタクは、他の「アイドル」オタクよりも、虚構を現実として信仰していく度合いが強いのだ。
 かくして、声優オタクは、「虚構を虚構として見よ」という論理と「虚構を現実として見よ」という論理を同時に生きることを余儀なくされる。声優オタクは、本質的に自己矛盾を含むのである。

「アイドル」としての声優の特殊性

 この自己矛盾こそが、「声優オタクのイタさ」という仮象を生むのだろう。
 自己矛盾しているかゆえに、声優オタクが声優オタクを見る場合でさえも、いや、声優オタクが自分自身を反省する場合でさえも、どこか居心地の悪さを感じざるをえないのだ。
 たとえば普通のアイドルについて「嫁にしたいね」と言う場合には問題はない。これは、「アイドル」についての、虚構を現実として見ることに基づく妄想である。また、漫画のキャラについて「嫁にしたいね」と言う場合にも問題はない。これは、キャラクターについての、虚構を虚構として見ることに基づく妄想である。
 しかし、声優の名前を挙げて「嫁にしたいね」と言う場合には、なんとなく綱渡り感が漂う。普段虚構を虚構として楽しんでいる人間が、ある意味では現実に完全に不可能というわけではない欲望を口にしているのだ。もしかしてどこか本気なのではないか、統御されたオタク的妄想の域を踏み越えてしまっているのではないか。このような疑念が、その台詞を聞いた他人にも、そして発した当人にも、浮かんできてしまうのだ。
 この感覚は、いわゆる「イタさ」とは異なるだろう。しかし、容易にそれと錯覚されてしまうのである。
 まあもちろん、だからなんだ、ということはなく、面白ければなんでもいいのだが。

おわりに

 とまあ、このように考えてみたわけだが、基本的に私はアイドルあまり詳しくないので、あまり自信はない。後輩に一人濃ゆいアイドルオタがいるので、機会をみつけて訊いてみなければならないなあ。
 また、オタクの音楽生活にまで視野を広げると、「オタク御用達シンガー」とかも考察すべき対象になってくるのだが、このあたりまでは扱えなかった。まあいいや。

追記

 このテキストの初稿を書いてからのち、声優のアイドル的受容がさらに一般化し、いくつかの点で記述が古くなってしまったと思われるところがある。しかし、大筋では論旨を変更する必要はないように思うので、そのままにしておく。

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